第7幕『突入編《ルル・ルーンヴァイス、実戦行動》』
静かだった。
迎賓館の廊下は、まるで誰もいない世界のように、息を潜めている。
月明かりが高い天窓から差し込み、回廊の絨毯に銀の模様を描いていた。
私は、素足で音を立てないように歩いた。
右手には、ルームガウンのすそをしっかりと握りしめて。
下には――何も着ていない。
いや、最低限のものはあるけれど、こんなの防御力ゼロよ。
——落ち着いて。わたしはルセリア・ルーンヴァイス。
——幾千の祈祷と政務をこなしてきた王都の巫女。
——これしきのこと、任務のうちよ。
そう自分に言い聞かせながら、“彼”の部屋の前に立つ。
……静かに、ドアノブを回す。
視界の奥——
ベッドの端に腰かけた彼が、窓の外を見ていた。
静かな横顔。くしゃっとした黒髪。
何気ない仕草が、なぜこんなに胸をざわつかせるんだろう。
セブンの気配はない。
アリス……エナ……ありがとう。
私はそっと、月明かりの部屋へ足を踏み入れた。
⸻
「……来ちゃった」
ベッドに腰かけていたリクが、ゆっくりと振り向いた。
月明かりの中で目が合う。彼は少しだけ眉を上げ、肩の力を抜くようにため息をついた。
「……お前もかよ、ルル」
「ん。わたしもよ」
「はあ……まったく、今日は何なんだ。誘惑の日か?」
「さあね。星の巡りがいいのかしら?」
私がひとつ肩をすくめると、リクは苦笑いをこぼした。
軽く額を押さえて、のろのろと立ち上がる。
「その格好……自覚あるんだろ?」
「もちろん。なにせ、勝負服だからね」
「どこに向けた勝負だよ……つーか、それ、服って言わねえだろ。タオル以下の布面積じゃね?」
「それが見せ場なの。わかってないわね」
いつもどおりの軽口。
でも——リクは、一歩も引かず、真正面から受け止めてくれていた。
だから、私はその余裕に甘えた。
冗談っぽく。
ふざけてるように見せかけて、少しずつ……本音に近づいていく。
「……冗談に聞こえる?」
「わかんねぇよ。オマエ、裏表が違いすぎるからな」
「ふふ、ひどい言い方」
「……でも……たぶん……。
今夜のは、冗談じゃねぇんだろ……」
「……わかってるなら、話が早いわね」
私の声が、少しだけ熱を帯びた。
リクの肩が、ぴくりと揺れる。
けれど逃げない。ただ静かに、真顔で見つめ返してくる。
私はくすっと笑って、
わざと一歩、距離を詰める。
リクとの間にあった空気が、ぴんと張りつめた。
「ほら、今こうして、ふたりきり。
……なのに、あんた、全然動じないのよね?」
ささやくように言えば、彼のまつげがぴくりと揺れた。
「……動じるようなこと、されたら困るけどな」
「じゃあ、“されたら困る”ってことは……ちょっとは意識してるってこと?」
「……うっ」
ふふん、図星。
言葉に詰まった。ほんの一瞬。だけど、その“間”がすべてを物語ってる。
——よし。これは行ける。
私は、心の中で小さくガッツポーズを決めた。
ここで焦って一気に詰めるのはダメ。あくまで、自然体で。
じわじわ、じわじわ、逃げ道を塞いでいくのよ。
「……でも、そういうとこ、あんた不器用よね」
「なにがだよ」
「意識してるくせに、絶対口にはしない。
目線は泳ぐし、言葉はつっかえるし。
……まあ、そういうとこ、可愛いんだけど」
「可愛いって言うな……!」
「言っちゃう。だって、可愛いんだもん」
さらにもう一歩近づいて、至近距離。
これ以上踏み込めば、自然と手が触れるくらいの位置。
リクは目を逸らそうとしたけど、私の視線から逃げられない。
照れてる。耳が、ほんのり赤い。
——うん、追い風。いける。今夜のルル、強い。
「ねえ、リク。……あんたのそういうとこ、ちゃんと見てる人、いるんだからね」
「…………」
「わたしとか、アリスとか、エナも。
……あんたが鈍感してるあいだに、どれだけ考えてるか……ちょっとは察しなさいよ」
リクがゆっくりと口を開きかける。
でも、その前に。
「……その反応。やっぱり意識してるでしょ?」
「……それは……」
「ふふ。黙るってことは、否定できないってことね」
私の笑みが、自然と深くなった。
——さあ、あと一押し。仕上げに入るわよ。
「リク」
私はもう一歩、彼に近づいた。
「明日から、たぶん本格的に戦いに出る事になるのよ。次に会える保証なんてどこにもない。
だから……今日だけは、どうしてもちゃんと伝えたかったの」
「…………」
「……あたしじゃ、ダメなの?」
声が震えそうになるのをこらえながら、私は彼の目を見つめた。
さっきまでの軽さは、もうどこにもなかった。
けれど、それでも私は——本音で、ぶつかりたかった。
沈黙が落ちた。
風の音も、夜の気配も、全部止まったようだった。
リクは、目を伏せたまま……小さく息を吐いた。
「……ごめん」
「…………」
「お前の気持ち、ちゃんと届いてる。エナやアリスの想いも、ちゃんと……」
その声は、苦しそうで、でもまっすぐだった。
「ここまでしてくれて、それに応えられない俺が……最低なのはわかってる。ほんと、ごめん」
私は何も言わなかった。
ただ、彼の言葉を待った。
「でも……オマエもわかってるだろ……。
オレは、元の世界に戻るつもりだ。
帰れるかはわかんないけど……帰りたいって、思ってる。今でも、ずっと」
静かに、リクは続けた。
「だから、この世界で誰かとそういう関係になったら……絶対に、後悔させる。傷つける。……それは、できない」
——その声は、真剣で、優しくて、だからこそ残酷だった。
私は、そっと立ち上がった。
彼の前にもう一度立ち、微笑む。
「それを“誠実”って言う人も、いるわね。
……でも、私は違うと思う」
「……え?」
「それ、“逃げ”よ。……優しさの皮をかぶった、逃げ」
リクが少しだけ目を見開いた。
「いつか別れるかもしれないから何も選ばない、なんて。
……そんなの、誰かを本当に大事にする人のすることじゃないわ。
だって……それも含めて私は、あんたが好きになったんだから……」
私は、彼に背を向けて、ドアに手をかける。
「でもまあ。そこが、あんたの良いところでもあるんだけどね」
「……ルル」
ふわりと、肩越しに笑ってみせる。
——精一杯、強がって。
「おやすみ、リク。もう寝なさい?
明日はヘラヘラしないで、シャンとしなさいよ?」
⸻
——この夜は、届かなかった。
でも、あいつの心には確かに、何かが残った。
それだけで、きっと、無駄じゃなかったと思える。
……そう思えたから、私は、一人きりの部屋で泣かずに済んだ。




