第3幕『空を見上げる、その横顔』
「ねえルルさん、ちょっとだけ別のとこ行ってもいいですか?」
そう言い出したのは、他でもないエナだった。
「ランジェリーショップって書いてある看板みつけたの!
夫を誘惑するには“勝負下着”が必要って、本に書いてあったの!」
俺が反射的に首を傾げる前に、エナがまっすぐこちらを指さした。
「だからリクさんは、ついてきちゃダメ!!」
「いや、誰が行くかバカ!」
思わず全力で否定したが、もう遅い。
エナは「じゃあ行ってくる!」と満面の笑みで跳ねるように進みかけた。
ルルが額に手を当てて、深くため息をつく。
「……アリス、あんまり“やばい感じ”にならないように、着いていってあげて」
「了解。状況制御に努めます」
アリスが一礼し、機械的に後を追っていく。
あれよあれよという間に、エナとアリスは雑踏の中に消えた。
残されたのは、俺とルルだけ。
──妙な沈黙が流れたあと、
ルルがふと足を止め、俺の方を見ずにぽつりと言った。
「……ちょっと寄りたい場所があるの。ついてきて」
「……ああ」
言われるがまま、王都の裏手へ続く、石畳の緩やかな坂道を登っていく。
街の喧騒が少しずつ遠ざかり、代わりに風の音が大きくなっていった。
「……ふたりきりね」
「デートじゃねぇぞ」
俺は一応、先に言っておく。
「誰も言ってないでしょ。……っていうか、言われると思ってたの?自意識過剰じゃない?」
「ちげぇって、そういう意味じゃなくてだな……」
すかさず返され、俺は口ごもる。
辿り着いたのは、古びた天文台の跡地だった。
今はもう使われていないらしく、鉄枠の望遠鏡も壁際に寄せられ、石造りの観測台だけが空に向かって開けている。
王都の中とは思えないほど、静かな場所だった。
「巫女の修行が上手くいかなくて怒られて、落ち込んだとき。よくじーちゃんにここへ連れてきてもらってたの。
“大きな空を見上げると、ちょっとだけ悩みが小さくなる”って、そう言って」
その言葉の意味は、今なら少しだけわかる気がした。
「じーちゃんって……あの神殿にいた白ヒゲの……?」
「ええ。あれが、私の育ての親よ。たった一人の家族。
本当の両親のことは、誰も教えてくれなかったわ。生きてるのかどうかすら、ね」
ルルの髪飾りが風に揺れて、きらりと光った。
その横顔を見てたら、ふと、自分のことも話したくなった。
「……オレも、家族は父さんだけなんだ」
声に出した瞬間、胸がきゅっと縮んだ。
「母さんは、オレを産んだ代わりに……死んだ。物心ついたときから“その人の命をもらって生きてる”って、どっかで思ってた」
「毎日のように、母さんの写真……。あ、いや……写真てのは……肖像画みたいなもんか? それに、手を合わせてた」
「……こっちにもあるわよ?“写真”くらい。仕組みは違うかもしれないけど」
「へぇ……意外と似てるんだな、向こうとこっちの世界って」
「リクのお母さん……きっと美人だったんでしょ?」
「いや、そんなの……わかんねぇよ。写真でしか見た事ねぇし」
「美人だったに決まってるわよ。アンタ見ればわかるわ」
そう言って、ルルが小さく笑う。
それだけで、なんかちょっと泣きそうになった。
「……オレが魔王を倒そうって思ったのは、あの日、神殿都市に魔王軍が押し寄せてきたとき……」
ルルの視線を追うように、俺も空を見上げる。
「女の人が、赤ん坊を抱えて逃げようとしてたのを見た。ギリギリで助けたけど……あのとき、もしオレが少しでも躊躇してたら、きっとふたりとも死んでた」
あの瞬間、脳が真っ白になって、それでも身体が勝手に動いていた。
「だから思ったんだ。あの人が、母さんと。あの赤ん坊がオレと重なって見えたのかなって。
助けられなかったら……オレ、一生後悔したと思う」
俺の声が震えてないことを祈りながら、言葉を続けた。
「……正直、不安だったよ。
いきなり知らない世界に放り込まれて、何がなんだか分からなくて……。
でも、最初に話しかけてくれたのがルルで……。
世界がひっくり返ったあの瞬間、唯一、掴めたものがあったとしたら、あの声だった」
ルルは何も言わなかったけど、静かに聞いてくれていた。
「旅立ったときも、ひとりじゃなくて、セブンと一緒だったからなんとか前に進めた。
今は、アリスもエナもいて、にぎやかだけど……それでも、やっぱり思うんだ。
帰りたいなって。父さんや、友達のこと、恋しいなって」
しばらく、風の音だけが流れていた。
ルルが、そっと空を見上げた。
「……私だって、強くなんてないわよ」
「……え?」
「“星読みの巫女”って、どんな役目か知ってる?」
「いや……ちゃんとは」
「アストライアグラスから、災いの前兆を読み取るの。
魔王の件だけじゃないわ。この世界には他にもいくつもの“滅びの種”がある。
その兆しを見つけて、各国に伝えるのが、私の役目」
言葉にすると簡単だけど、ルルの言葉には重さがあった。
「間違えば、国が滅ぶかもしれない。大勢の人が死ぬ。下手したら、この世界そのものが消えるかもしれない。
ねえ、そんな責任……誰かに押しつけられて、笑って背負えると思う?」
言いながら、笑ってみせるその表情が、どこか無理してて。
俺は何も言えなかった。
「でもね、ここで見た星だけは……いつも、ちゃんとそこにあった。
だから、信じることだけはやめなかったの」
それはきっと、強がりでも、ただの理屈でもない。
自分に言い聞かせるようでいて、同時に……誰かに信じてほしいという声でもあった。
「……なに、見てんのよ」
ルルが、ふいにこっちを睨む。
「いや、なんか……その顔、ずっと見てられるなって思って」
「……ばっ……!?」
バッと顔をそらすルル。
その耳まで赤く染まってるのを見て、俺はつい、口元を緩めた。
「次、その口で余計なこと言ったら……王立図書館の迷路階に置き去りにするわよ」
「え、それ地味にキツいやつじゃん……」
でも、悪くない。
この空気も、ちょっとだけ照れくさいその顔も。
誰かに想いを預けるって、案外、怖いことじゃないのかもしれない。
ここで、ようやく俺たちは、
本当の意味で“同じ空の下にいる”気がした。




