第4幕 『名乗られたその名は』
足音ひとつ、しなかった。
俺たちが気づいた時、そいつはすでに、石垣の上に立っていた。
まだ朝の空気が湿り気を残している中で、ひとりだけ、その少年は乾いたような空気を纏っていた。
黒髪。裸足。ボロボロの服。
だが、肌はどこか透けるように白くて、目だけが——まるで、空っぽの夜みたいに冷たかった。
「きみたち、ずいぶん静かに歩くんだね。見つけるの、ちょっとだけ大変だったよ」
少年は、あくまで穏やかに、笑みすら浮かべて言った。
……敵意はない。
だが、味方って感じでも、絶対にない。
そもそも、こんな場所にどうやって?
セブンの索敵も、エナの直感も全部すり抜けて——
「……セブン、どういうことだ」
《推定不能。直前まで存在が認識されなかった個体。ステルス機能または空間遮断技術の存在を仮定》
その答えに、背中を冷たい汗が伝う。
——つまり、こいつはセブンのセンサーすら“出し抜いた”ってことだ。
それに、オレたちも敵に見つかっては居ないハズだ。
これまで、飛行型の偵察用モンスターとは何回か遭遇した。
しかし、セブンが事前に察知し、全て見つかる前にやり過ごした……。
少年は、こちらの表情を見て、くすりと笑う。
「……納得できない顔してるね」
「まず、どうやってオレたちを見つけた」
「“目立つ囮の見張りに、本命は別”って、監視の基本さ。見えすぎるものは、だいたい嘘だよ」
アリスが前に出ようとしたのを、俺は手で制した。
セブンも沈黙している。
エナだけが、微妙に身構えたまま、俺の隣で拳を握っていた。
「……名前は?」
そう尋ねると、少年は少しだけ考えるような素振りを見せて——
「いろいろ呼ばれ方はあるよ。“神の戯れ”とか、“世界の墓標”とか、“審判を告げる者”とか。ああ、"マスター"とか呼んでくる変わり者もいるね。
でも、たぶん——そうだね」
さらりと口にしたその呼び名に、一瞬ゾクリとした。
「“魔王”ってのが、キミたちには一番わかりやすいかい?」
静寂が、空気ごと張り詰めた。
次の瞬間だった。
「——ッ、まて!!」
オレが止める前に、アリスが音もなく飛び出した。
黒髪が翻り、スカートがパージされ、白い脚が空を裂く。
その大腿部から、ワイヤーが射出された。
視線の外側、石垣の“裏”へワイヤーを引っ掛け、その張力を利用して回り込む。
魔王の背後を取ると同時に、反対の腕を振り抜く。
ブレード付きの拳打。狙いは後頭部——即時無力化の一撃。
それと同時に、エナも動いた。
「アーマー・パージ。攻撃展開……いきます!」
鎧が、羽ばたくように“開いた”。
膨大な数の光るクナイが、空中に展開される。
全方位から、黒い閃光が一斉に飛ぶ——!
——が。
その全てが。空中で、止まった。
アリスは、拳を振り上げた姿でピタリと止まり、
エナのクナイはピクリとも動かない。
まるで、音さえ止まったように。
空中のアリスが、目を見開く。
「制御不能。強制拘束……!?」
彼女の身体が、ふわりと浮いたまま動かなくなる。
まるで重力が失われたように、ゆっくりと回転し……
そして、そっと、地面に下ろされた。
優しく、まるで落ち葉を扱うように。
同じく、空中に展開されたエナのクナイたちも——
ポト……ポト……と音を立てて、地面に落ちた。
剣の破片のようなそれらは、すべて勢いを失って、ただ重力に従って落ちるだけの“鉄片”になっていた。
「っ……!」
エナが歯を食いしばる。だが、それ以上の動作はできない。
——目の前の少年は、ただ、手すら動かしていなかった。
立ったまま、笑みも浮かべず、ただ“見ていた”。
「……あんまり怒らないでよ。ちゃんと優しく扱ったんだから」
その声が、空気に溶けるように静かだった。
ポト、ポト……
金属の音だけが、地面に消えていく。
誰も、動けなかった。
セブンさえ沈黙している。
俺はゆっくりと息を吐いた。
「……アリス、こっち戻ってこい」
指一本動かさずに宙から降ろされた彼女は、すぐに立ち上がると、無言のまま俺の隣へと歩いて戻ってくる。
スカートと袖を付け直し、静かに身を正した。
「エナも。ヨロイ、戻せ」
「……はい」
わずかに悔しそうな顔で呟いたエナは、地面に落ちたクナイを、再び浮かべて引き寄せ、身体に戻していく。
鎧のパーツがパズルのように収束し、いつもの姿に戻った。
俺は、二人をちらりと見てから、静かに口を開いた。
「……正体も、力量もわからない相手に、あんなふうに突っ込むな。
不用意な一撃が、引き金になることだってある」
声は抑えたつもりだったが、ほんの少し滲んだ怒りは、多分隠せていない。
アリスが、すっと目を伏せて言った。
「……この場において、最優先されるべきは“リクの安全”です。
わたしは、代替可能なゴーレム。リスクを引き受ける判断は、合理的でした」
……その言葉に、俺は眉をひそめた。
「……そういうの、やめろ」
ぴたりとアリスの動きが止まる。
「もう一回言ったら、殴るからな」
アリスは、ほんの一瞬だけ目を見開いて——
それから、ゆっくりと視線を落とした。
「了解。発言、撤回します……」
その間も、目の前の“魔王”は、ずっとこちらを見ていた。
何も言わず、何もせず。
それでも、背中に冷たい汗が伝っていた。
「……さっきの、魔王ってのは……冗談かなにかか?」
俺がそう言うと、少年は、口元だけで笑った。
「冗談かもね。……でも、冗談って、真実より信じられることもあるんだ」
さらりとした口調なのに、妙に重い。
「君たちさ」
少年——いや、“魔王”は、空を見上げながら言った。
「もし仮に、自分が“間違った側”だったとしても、それに気づけると思う?」
——何の話だ?
だが、その問いが、どこかに引っかかる。
「……いや、別に深い意味はないよ。ただ、君たちがどっち側に転ぶのか、ちょっと楽しみにしてるだけ」
彼の声は、楽しそうだった。
けれどその裏に、何か冷たいものが混じっていた。
悪意でも、敵意でもない。
ただ——不気味だ。
俺は、セブンの柄に触れたまま、じっと彼を見つめる。
「……どっちに転ぶか。ってのは意味わかんねーけどよ」
言葉を選ぶ。口調はあえて、フラットに。
それでも、視線だけは絶対に逸らさずに、俺は言った。
「転んだ拍子にすっぽ抜けた"剣"が、テメーのドタマ直撃しても、文句言うなよ?」
少年は、ほんの一瞬だけ目を細めて、微笑んだ。
何も言わない。ただ、その場に立ったままだ。
——風が吹いた。
木々がざわめき、草が揺れ、
さっきまで“死んだ村”だった場所が、少しだけ、音を取り戻していく。
だがその中心に立つ少年だけは、まるで別の時間に存在しているようだった。




