第1幕『静寂の向こうに』
風が止まっていた。
いや、吹いてはいるのだろう。枝葉はかすかに揺れている。足裏には、湿った枯葉を踏みしめる感触。けれど、音がない……。
人の声も、馬車のきしみも。鳥のさえずりさえも聞こえなかった。
俺たちは、魔王軍に占領された地域の外縁部に足を踏み入れていた。
街道は緩やかな丘陵を貫いて北へ伸びている。俺たちはその一本東側、草原を見下ろす高台の森の縁を、慎重に歩いていた。
枝葉の陰に身を潜めながら、進む。足音を落とし、上空を警戒しながら。
索敵と隠密の両立なんて、そうそう出来るもんじゃない。しかし、腰の鞘に収まったセブンが、常に上空と前方をスキャンしてくれている。
歩き始めて、もうほぼ半日になる。
けれど、当然といえば当然だが、人の姿は一度も見かけていない。
それどころか——
敵の姿さえ、一度たりとも現れなかった。
「……最悪、モンスターがウジャウジャ湧いて、がんがんフィールドエンカウント……ってのも覚悟してたけど……なんか、そんな感じでもねぇな」
《分析:当ユニットの探知圏内には、人型動体及び敵性体は確認されない。この地域における敵性体の活動パターンは“散開・監視型”と推定。個体での威圧と統制が目的》
「どっかに敵が居るハズなのに、出てこねぇってのも……理屈はともかく、逆に気持ち悪いな」
この地を占領した勢力……魔王軍と呼ばれてる奴ら。
……敵がまだ居座っているなら、見張りや略奪痕、あるいは現地化した陣営があるのかと思ってた。
だが、ここには何もない。
前を歩くエナがふと立ち止まり、空を見上げる。
黒銀の鎧がガシャリと音を立て、銀の三つ編みが、ふわりと揺れた。
「なんか…気配はあります。……空です」
彼女の言葉に、俺も反射的に顔を上げる。
青白い空——そこには何も見えない。
《補足:現在、飛行型敵性個体1体を捕捉。方位67度、直線距離1200m、高度220m。偵察特化型個体と推定。補足される前に探知圏内からの即時退避を推奨》
「……マジで見えねぇんだけど。でも、この距離でも見つかるかもしれねぇってことか」
アリスとエナがすっと岩陰に隠れ、俺も鞘ごとセブンを伏せて物陰へと身を沈めた。
風が、草を揺らす。
……また、静かになった。
敵が居るのに、姿を見せない。
魔王軍は、もう戦いにすら来ないのかもしれない。監視と統制。
それだけで充分なんだ……
「……アリス。なんか思うとこある?」
俺の問いかけに、彼女はぽつりと答える。
「……この場における危険要素は、現在確認されていません。
ですが……その、どうにも、妙な沈黙が……心に引っかかるような……」
「俺も同じ。ここで何かあったんだよ。……たぶん、静かに」
その時、道の脇に転がる荷車が目に入った。木の車輪は割れて地面に沈み、幌布は半ば風にほどけたまま放置されている。
「セブン、あれ」
《分析:民生用物資輸送車。3ヶ月以上放置と推定。略奪の痕跡なし。積荷及び運搬従事者の荷物は全て残されている》
「……逃げる間もなく、襲撃されたってことか」
俺は、小さく息を吐いた。
遠く、森の切れ間から黒い牛が一頭、ぬかるみに鼻を突っ込んでいるのが見えた。
誰も引いておらず、背には何も載せていない。
俺は立ち止まり、アリスに目をやる。
「家畜として管理されていた個体が、飼い主の不在により半野生化していると推察します」
……人が居なくなった場所で、家畜だけが残される。
メディアでしか見たことの無い光景が今、オレの目の前にあった。
戦うことすら許されない空間——
それが、本当の占領地ってやつなんだと、俺はこの時、はじめて知った。




