第3幕『毒気、火花、そして剣の蝶』
——“シュウゥゥッ……”
何かが、じわりと空気を染めていく。
煙……いや、もっと重く、ぬるりと粘つくような気配。
戦場の中心、傷ついた魔物の体から、霧のような気体が流れ出していた。
「もしかして、あの色……って……」
うっすら黄緑。微かな硫黄のような、鼻をつく刺激臭。
「セブン、成分わかるか?」
《分析開始……混合気体を構成する主要成分を検出》
《主成分:水素(H₂)、塩素(Cl₂)》
——あの色、あの匂い。
……登別、だったっけか。
昔、親父と行った温泉地。
旅館の露天風呂で、突然ガス警報が鳴ったことがあった。
従業員が慌てて走ってきて、避難誘導されて──親父はというと、
『あー、こりゃ水素と塩素だな。吸い込みゃ一発でおだぶつだ』
って、妙に嬉しそうに言ってたっけ。
——なんでニコニコしてんだ。お前バカかって思ったけど。
でも、あのときの匂いと、色と、親父の声が、今まさに目の前で再現されてる。
「こいつ……自分の体の中に、水素と塩素を別々に溜めてるのか……!」
ちょっとの水分があれば、混ざって塩酸。小学校で習った奴だ。
強酸性の、天然の毒ガス兵器。ちょっとでも風向きが悪ければ、市民にも被害が出る。
そのときだった。
視界の端、黒銀の閃きが風を裂いた。
「……エナ!」
街の通りを縦横に駆けるのは、十数本のクナイ。
黒光りする金属、ライムグリーンに光る回路。
どれもがエナの一部——彼女自身を分けて投げた、小さな戦う分身たち。
敵の周囲を円を描くように駆け回り、目にも止まらぬスピードで、肉を削る。
「エナ! お前……ガス、平気なのか!?」
濃い黄緑色の気体が、地を這い、宙を舞う。
そんな中で翻るエナの分身の姿は、まるで火の中を泳ぐ蝶だった。
「わたしの体は、生き物じゃないです! 大丈夫ですっ!」
《補足:ユニット・エナの外殻は、当ユニットの約7.4倍の耐酸性と推定》
《現在のガス濃度における不可逆損傷の発生まで、およそ38秒》
「いや、それって……やっぱ溶けてんじゃねーか!!」
事実、飛翔するクナイのうちいくつかは、
空中でジュッ……と音を立てて、煙を上げている。
それでもエナは、次の一撃を飛ばす。
表情は歪み、痛みに耐えているのが伝わってくる。
クナイが煙を上げるたび、身体がピクリと揺れる。
——エナの”本体"は鎧だって言ってた。
きっと彼女自身は、体が溶ける激痛をそのまま感じているはず。
若竹色の光が咆哮に切り込むたび、魔物は苛立ち、怒り狂う。
確実にダメージは通っている。徐々に追い詰めている。
しかし……。
ズルッ、と音を立てて、魔物の背中が裂けた。
中から——大量の“羽虫”が這い出してくる。
「……グロっ! なんだあれ!!」
体長30センチほどの巨大な甲虫。透明な羽が震え、空気を切り裂いて舞い上がり、街路を埋め尽くす勢いでこちらに向かってくる。
《警告:敵体内より異種の生体反応を検出。皮膚下に数百体。共生関係にある別個体と推測》
「うわっ出た!!虫出す系の中ボス! オレ、そういうのダメなんだよ!」
——しかし、そうも言ってられない。
数が、やばい。
斬ったそばから次が来る。アリスのワイヤー軌道にも限界があるし、俺一人じゃ到底さばききれない。
そのときだった。
「——敵群、排除しますっ!」
風を裂いて、黒銀の刃が駆けた。
宙に放たれたクナイが、一つ、また一つと空中で軌道を変え、さらに細かく分割されていく。
その数、四十、五十……。まるで乱舞するツバメの群れ。
「数が多いなら、数で押します!」
エナの声に呼応するように、刃の群れが羽虫に突っ込む。
——カキン! キィィンッ!
「いっけぇぇぇっ!!」
反響する金属音。火花が、雨のように降る。
宙を舞う刃が、弾丸のように敵を撃ち落としていく。
「一匹残らず、通しませんっ!」
エナは一歩も動かず、手を振るだけで、刃の全てが動く。
まるで彼女自身の手足であるかのように、意志を持った刃が敵を蹂躙していった。
俺とセブンは、その光景にただ見とれていた。
「……すげぇ……」
——頼もしさと、美しさ。
その両方を、俺は確かに見た気がした。




