第1幕『いつも通りの、放課後の風景』
チャイムの音が鳴り終わると、教室が一斉にざわめいた。
椅子のきしむ音、バッグのファスナーを開ける音、しゃべり声。
いつも通りの、放課後の風景。
ノートを閉じて、ペンを筆箱に放り込み、
ゆっくりと席を立つ。
何気なく窓の外を見上げて——すぐに、視線をそらした。
今日もある。
空中に、ひび割れが。
黒い線が、天井とロッカーのあいだの空間にふわりと浮いていた。
ガラスでも、壁でもない。空そのものに、割れ目が走っている。
しかもそれは、じわじわと動いてる。脈打つみたいに。
……やっぱり、消えてない。
一応、眼科にも行ってみた。視力も、網膜も問題なし。
先生は「ストレス性の幻視かもしれませんね」って言ってたけど──
「おーい、リク〜。置いてくぞー」
のびた声が廊下の方から飛んでくる。
教室の入り口からひょっこり顔を出した同級生は、まるで何もないかのようにヒビ割れに、堂々と顔を重ねてしゃべってる。
……ヒビは、何の反応もない。
あのヒビが、見えてるのは……たぶん、オレだけ。
「ヒロト、また遅刻スレスレだったろ」
声をかけると、ヒロトはのんきに手を振った。
「いーじゃん、小一からずっと隣の席だった俺に、今さらマジメかよ?」
「今は隣のクラスじゃねーか」
オレは小さく笑いながら、ノートの端を折ってバッグに詰め込む。
「心の隣席、な?」
ヒロトが自慢げにウインクする。
「気持ち悪っ」
バッグを肩に引っかけて、彼の後ろに続く。
下駄箱の前で、ヒロトが急に振り返る。
靴を取り出しながら、ニヤリと口角を上げる。
「そういや聞いたぞ、駅前でひったくり捕まえたって?」
「うん、ちょうど近くに居たから」
オレが淡々と答えると、ヒロトは眉をひそめ、信じられないって顔をした。
「“ちょうど”で捕まえたやつが、どこにいる。3階の吹き抜けから飛び降りたって聞いたけど?」
「飛び降りてはねーよ。ちゃんと、途中で手すりに体引っかけながら降りた。スピード落としながら」
「……どっちにしろ人間の動きじゃねーからな、それ」
苦笑しながら、ヒロトは靴のかかとをトントンと鳴らした。
「前にやってたじゃん、パルクール。感覚戻った?」
「別に、戻したわけじゃない。勝手に動いただけ」
ロッカーを閉め、ゆっくりとしゃがんで靴を履き替える。
その横で、ヒロトがふっと視線を落としてつぶやく。
「……やっぱ身体能力はバケモンだな。
なんで運動部とか入らなかったんだ?」
オレは一瞬、言葉に詰まる。
「……なんか、違う気がしてさ」
この世界に馴染めない、とか。
ここは自分の場所じゃない、とか。
そんな大げさな話じゃないんだけど——
どうにも、“入っていけない”感覚が拭えない。
「まあいいけどな。俺は文化部派だし〜。てか今日は帰んの早えのな」
「親父、今日はかなり遅くなるらしいから。飯はオレで適当に準備しとかねーと」
「そっか、ならまたあとでなー」
ヒロトと別れて、校門を出る。
西日が眩しい。
遠くで蝉が鳴いている。
空には、今日も黒いヒビが浮かんでいた。
アパートに着くと、静けさが全身にまとわりついてきた。
ただいま、と声を出しても、返事はない。
いつものことだ。
リビングの隅の仏壇に手を合わせる。
仏壇、と言っても、立派なもんじゃ無い。小さな文机の上、父さんがネットで買ったらしい簡易セット。
ろうそくも線香も全部“火を使わないやつ”。
その隣に、なんでかオレの小学生時代のパルクール大会のトロフィーが並べられている。
本人には言ってないけど、正直ちょっとやめてほしい。
——そこに飾る意味が、わからない。
「……ただいま、母さん」
母の遺影が、微笑んでいた。
色褪せないままの写真。
母というか、若すぎる。
今のオレの年齢で見ると、完全に“お姉さん”だ。
クラスのダチが、ウチにダベリに来たとき、「なにこの人、めっちゃくちゃカワイイじゃん!!」とか言ってたっけ。
その下には、白い位牌。
「といってもさ」
ふっと声が漏れる。
「この人との思い出なんて、ひとつもないんだけどな」
——当たり前だ。
オレを産む代わりに、死んだんだから……。
————
パチパチと、フライパンから音がする。
冷蔵庫の残りもので作った野菜炒めと、インスタントの味噌汁。
たいした手間はかけてないけど、うちの男二人にはこれで十分だ。
「お、いい匂いしてんなー」
玄関のドアが開く音に続いて、父の声がした。
スーツのまま、キッチンを覗き込む。
「おかえり。風呂、先入る?」
「いや、腹減った。先メシにする」
食卓に湯気が立つ。
父は缶ビールを一本だけプシュッと開けて、椅子に腰を下ろす。
「いっただきまーす」
「いただきます」
二人きりの食卓。
テレビもスマホもなしで、ただ飯を食う時間。
これが、わりと好きだ。
「どうだ、学校。ちゃんとやれてんのか」
「んー……先生の話は8割スルー。でも一応、卒業は目指してる」
「ははっ、上出来じゃねぇか」
父はそう言って、ぽん、とオレの肩を叩いた。
その力加減が、なんかちょうどいい。
「友達とも、うまくやれてんだろ?」
「まあね。ヒロトとかは、放っとくと毎日くっついてくるし」
「だろうな。あいつ、昔から人懐っこいもんな」
「ノリも声も、ぜんっぜん変わんない。安心するっていうかさ」
いつも通りの、よくある会話。
だけど——父がふと、口を止めた。
「……なあ、リク」
「ん?」
「これから、お前……。ちょっと、しんどい目にあうかもしれん」
フォークを止めた。
父は笑ってる。でも、どこか寂しそうでもある。
「俺には、直接どうこうしてやることはできん。
けど、お前なら……きっと乗り越えられる」
なにそれ、とオレは笑った。
「なんだよそれ。社会に出ると大変だぞって話? まだ高2なんだけど」
「まあ、そんなとこや」
父も笑った。あっさり流したように見えて、その笑顔には何かがにじんでいた。
でも、オレは特に気にしなかった。
父親ってのは、そういう“らしいこと”を言いたくなるものだ。
思春期の子ども相手にはなおさら。
だからそのあと、普通に食器を洗って、
父が風呂から出るまでのあいだ、いつも通り制服のままベッドに転がった。
ただ、ちょっとだけ思った。
(“しんどい目”って、何の話だったんだろう)
————
夜。
父は急な会議とかで、会社に呼び出された。
海外とのリモート会議で、この時間になったそうだ。
エラくブラックな職場だけど、管理職になるとこんなもんらしい。
本人は「この方が性に合ってる」って笑っていた。
別に、家に一人で寂しいなんて歳じゃないが、
なんとなく、ベッドに転がったままダラダラしてる。
スマホの画面を指でスクロールして、既読もつけずに閉じる。
目は開いてるのに、頭の中がぼんやりしていた。
(……なんか、変な日だったな)
朝も“ヒビ”が見えてた。でも、それだけじゃない。
放課後に見上げた空。
雲の切れ間に浮かんでいた、あれは……ヒビ、じゃない。
なんというか——穴だった気がする。
気のせいだ、って思ってもいい。
でも、そう思おうとすればするほど、胸の奥がざわつく。
そろそろ、風呂でも入るか……。
沸かしたは良いが、父さんは入る前に会社にいったし、お湯が冷めても、もったいないしな。
——そんな事を思いながら、部屋の天井を見上げる。
四角い天井灯のまわりに、何かが揺れている気がした。
風もないのに、天井の隅が……震えてる?
……いや。
あれは、“震えてる”んじゃない。
割れてる。
空間そのものが、ひと筋、ヒビを入れて——
そこから、何かが覗いている。
目が、離せなかった。
金縛りにあったみたいに、体が動かない。
光が吸い込まれていく。
音が消えていく。
床が沈む。空気が歪む。
部屋の中のすべてが、少しずつ……"浮いていく"。
スマホが、テーブルの上からふわりと浮かび上がる。
カーテンが波打つ。
髪が、下から風を受けたみたいにゆれる。
言葉にならない感覚。
呼吸の音すら、遠くなる。
(……これ、やばい)
反射的に手を伸ばす。
でも、掴めない。何も、どこにも、力がかからない。
——空間が、剥がれていく。
目の前の空気が、破れるように開いていく。
その奥に、知らない風景があった。
空でも、壁でもない。異常な光と、知らない色の空。
体が、その穴へと、吸い込まれていく。
「っ……!」
声を出そうとした瞬間、すべてが反転した。
部屋が、重力が、現実が、裏返る。
その感覚だけを残して、オレの意識は——落ちた。
——to be the next act.