第18食 生牡蠣
大人には「これを食べるようになったら大人だなぁ」という食べものが何かしらあるように思う。
それは例えば、子どもの頃苦手だった辛いものや苦いものであったり、そもそも食べる機会に恵まれなかったり。
インターネットで調べてみたところ、わさびやセロリ、みょうがや春菊、他にもいかの塩辛やレバー、白子などがあるようだ。
私にとっての大人の食べもの――それはずばり、生牡蠣である。
牡蠣自体は子どもの頃から食卓に上っていた。
或る時は家族で囲む水炊きの中に入っていたり、また或る時はカキフライとしてエビフライの隣に佇んでいたり。
牡蠣はあたると大変だという認識もあり、この世でなによりも気持ち悪くなることが恐ろしい私にとっては「火を通して食べるのが当たり前」な食材だったのである。
その認識が変わったのは、小学生の頃に激はまりした漫画『美味しんぼ』だ。
本作には何度か牡蠣が登場するが、私が当時衝撃を受けたのは或るキャラクターが「生牡蠣だったら何ダースでも食べられる」と豪語していたシーンだ。
――ダースというのは、食べものに使う単位なのだろうか?
それまで、私は前述の通り加熱された牡蠣しか食べたことがなかったので、おいしいとは思いつつも特筆して好きというわけではなかった。
それが12個単位でいくらでも食せる程のおいしさと聞けば、否が応にも興味は湧く。
しかし小学生の私に生牡蠣を食べるタイミングなど訪れるわけもなく、そもそも両親も取り立てて生牡蠣を食べるタイプではなかったので「今後も食べる機会はないだろうな」と子ども心に考えていた。
そんな私が初めて生牡蠣を食べたのは、社会人になってからである。
たまたま大学の頃の先輩と飲みに行った際に「生牡蠣頼んでもいい?」と訊かれたのだった。
「先輩、生牡蠣お好きなんですね」
「うん、見かけるとつい食べたくなっちゃうんだ。環は生牡蠣ダメな人?」
「実は食べたことないんです……興味はあるんですけど」
すると、先輩が目を輝かせる。
「じゃあチャレンジしてみようよ! おいしいから!!」
その誘いに、一瞬ためらう私。
もしあたってしまったらどうしようという恐怖が心を掠める。
週明けからは泊まりがけの出張もあり、ヒットしたら終了――。
しかし――「今食べなければ暫くチャンスは来ない」と私の直感が騒ぎ立てる。
脳裡にあの女性キャラクターの笑顔がよみがえった。
何ダースでも食べられると彼女は言っていたのだ。
――であれば、1個くらいならいけるのでは……?
そんなわけであっという間に誘惑に負けた私は、初めて生牡蠣を体験することになった。
運ばれてきたのは今思えば一般的なサイズの牡蠣だった。
それでも、スーパーで売っている小ぶりな加熱用牡蠣しか食べたことのなかった私にとっては、結構な衝撃である。
ドキドキと皿を見つめる私に、先輩が「初めてだったら味が付いていた方が食べやすいと思うよ」とポン酢を勧めてくれた。
殻の上には、剥き出しの牡蠣がぷりんと横たわっている。
身には気持ちばかりのもみじおろしと小口ねぎが載っていて、私はそっとポン酢を振りかけた。
こうして見れば、単なる貝の刺身でしかない。
それでも身を箸で持ち上げれば、気持ちずっしりと重たい気がする。
この重さは未だ心の底に燻る根源的な恐怖か、それとも幼い頃から積み上げてきた期待感か――殻にぽたぽたと滴るエキスを見ながら、私は覚悟を決めた。
「……いただきます!」
殻を小皿のようにしながら、えいやと牡蠣を口に入れる。
ちゅるんと口内に滑り込んできた身はなめらかで、纏っていたポン酢が安心感を与えてくれた。
思い切って歯を立ててみると、ぷつりという感触のあとじゅわりと濃厚な味が広がる。
こ、この味は一体……!?
一般的には「磯臭い」とも表現されることがある生牡蠣。
確かに他の貝類に比べてなんだかパンチがあるように感じる。
何と言ったらいいだろう、ほのかな塩味も相まって、海そのものを食べているような――そんな壮大な気分になってくる。
もぐもぐと噛み砕けば、口の中がしあわせでいっぱいだ。
「……どう?」
心配そうな先輩の声ではっと我に返った。
私が慌てて「むちゃくちゃおいしいです!」と返すと、先輩はほっとしたように微笑む。
「そしたら、もう1個食べる? 今度はレモンで」
言われた通り、今度はシンプルにレモンだけ絞ってみた。
2個目ともなると落ち着いたものだ。
ちゅるんもぐもぐ、うむ、おいしい。
さすが『海のミルク』と呼ばれるだけある。
そんなわけで、無事生牡蠣デビューを果たした私はそれからたまに生牡蠣を食べるようになった。
とはいえ、ヒットする危険性やお値段と天秤にかけ、大体ご褒美として2-3個くらいに留めている。
ドキドキしながら少しだけ、がビビリな私には丁度いい。
旅行先で食べるのはやめておこうと思いつつ、オーストラリアに旅行した時にはせっかくなのでフィッシュマーケットで頂いた。
日本では少し冒険心が試される生牡蠣だが、オーストラリアでは生で食べるのが一般的らしい。
マーケットで売っているのでダース単位で購入する必要があり、同行者と6個ずつ食べたが小ぶりだったこともありおいしく頂けた。
また、タイに住んでいた頃にも食べたことがある。
とはいえ、南国であることもあり、ローカル店舗や屋台で食べる勇気はなく、日本食系のお寿司屋さんで頂いた。
タイで食べる必要性はあったのか……という気もするが、久々の生牡蠣だったこともあり非常においしかったのを覚えている。
なお、本論ではないが、タイで食べた中でいちばんドキドキしたのは『クンチェー・ナンプラー』と呼ばれるエビのお刺身だったと思う。
これは生のエビににんにくやライム、唐辛子、パクチーなどの香辛料を載せて食べる代物で、どローカルの店で何度か食べたが、おいしさとスリルが私の中では拮抗したメニューだった。
上司の「香辛料で消毒されるから大丈夫だ!」という台詞を信じて食べていたのが懐かしい。
ちなみにお味はとってもおいしい。
タイの食事が受け付けずパンとコーヒーしか口にしなかった駐在者のおじさまが「これならいける!」とバクバク食べていたくらいだ。
他のタイメニューより数段食べる勇気が必要だと思うが、不思議なものである。
閑話休題、牡蠣の話に戻るが、今でも強く記憶に残っているのは茨城で食べた岩牡蠣だ。
岩牡蠣は冬が旬の一般的な牡蠣(真牡蠣)とは異なり、夏に旬を迎える大ぶりな牡蠣である。
当時茨城で働いていた私は、仕事帰りに職場の先輩と地元の居酒屋に行ったのだが、登場した岩牡蠣の大きさに驚いた。
普通生牡蠣はそのまま一口で頂くのだが、岩牡蠣はその大きさ故にスライスされて出てきたのである。
その画は、クリーミーな味と共にインパクトを持って私の脳裡に焼き付いている。
こうして書いてみて、ここ数年ビビリが勝り生牡蠣を食べていなかったことに気付く。
欲求を満たすため、おいしそうに生牡蠣を食べるYouTubeを流しながら、今度久々に食べに行ってみようかなと思う休日の昼下がりであった。




