第14食 ほたるいか
春、おいしいものたちが続々と姿を現す季節である。
ランチ定食の付け合わせで、スーパーの特設売り場で、そしてふと立ち寄った居酒屋のおすすめメニューで――様々な場所で「さぁ春ですよ」と語りかけてくる彼ら。
たけのこ、菜の花にふきのとう、いちごに桜えび……その中でも私がつい惹かれてしまうのはほたるいかである。
ほたるいか、一般的には『ホタルイカ』とカタカナ表記しているケースが多いようだが、その可愛らしいフォルムも相まって、私の中ではひらがなで『ほたるいか』である。
胴の長さが4-6cmしかないという小ぶりないかだが、彼らは厳然たるいかとしてそこに存在するわけで、ちょろんと食卓に鎮座している様子に食欲をかき立てられる。
一匹まるごと口に入れてみれば、濃厚な味とむっちりした食感を楽しむことができるのだ。
私が彼らの存在を知ったのは、漫画『美味しんぼ』が切っ掛けだ。
小学生の頃、私は限られたお小遣いを近所の古本屋で売っているグルメ漫画『美味しんぼ』に注ぎ込んでいた。
個人営業のそのお店では美味しんぼを1冊300円で売っており、たまに購入しては未だ見ぬ美食に心を躍らせたものだ。
思えば、この頃からおいしいものに惹かれる体質だったのかも知れない。
そんな中、満を持して登場したのがほたるいかである。
職場のメンバーと共に主人公の山岡士郎がほたるいか漁の船に乗って「ほたるいかの踊り食いだ!」と獲れたてのほたるいかを口の中に放り込む。
海水のしょっぱさと生のいかの食感、濃厚な味に舌鼓を打つ山岡一行。
ドキドキとページを捲りながら、小学生の私は「いつかほたるいかの踊り食いをしてみたい……!」とあこがれたものだ。
そんな私のファーストほたるいかは、大学生の頃居酒屋で出逢った沖漬けである。
実家の食卓ではついぞ姿を見せなかったほたるいか、そんな彼が初対面にもかかわらずメニュー上から「ここにいるよ」と語りかけてきたのだ。
当時まだお酒を飲み慣れていなかった私は、いわゆる酒の肴のおいしさを知らず、未知の食べものに積極的にチャレンジするタイプでもなかった。
そんな生来のビビリである私が出逢ったほたるいかの沖漬け、謎の液を纏った見た目は父がたまに食するいかの塩辛に似ていなくもない。
そもそも塩辛ですらあの独特な色に臆して食べたことがなかった。
しかし、長年あこがれてきたほたるいかとなれば話は別である。
私は勇気を出して小鉢に入ったほたるいかを一匹つまんでみる。
茶色く染まったほたるいか、これがかの山岡士郎が食した食べものだと思うとなんだか感慨深く、その身はつやつやと輝いて見えた。
思い切って口に入れて一噛み、すると口内にじわりと濃厚な塩味が広がる。
ワタも一緒に漬け込んでいるからこそなせる業か、初めて知る魅惑の味がじゅわりと舌を染めた。
付け合わせのオニオンスライスとおろししょうががさっぱりと口の中を中和してくれて、あとを引くおいしさである。
以降、私はほたるいかの沖漬けを見付ける度にオーダーするようになった。
その度「酒呑みだなぁ」と笑われるのだが、実際そんなにお酒に強くはないのである。
それでもあの濃厚な味とかわいらしいサイズ感に惹かれ、ついつい手が伸びてしまう。
こうして何度か対面する内に、沖漬けだけではなく茹でて酢味噌をつけるのもオーソドックスな食べ方だと知る。
黄色い酢味噌を着飾ってわかめの上に横たわるほたるいか、カラフルな色味にむっちりとした絶妙な食感も相まって、ほのかに甘く穏やかな春を感じる。
来週になればこの国にはもう初夏が訪れるだろう。
残り少なくなった春の季節を、私はほたるいかと共に楽しむのである。
なお、大人になってから知った事実だが、生のほたるいかの内臓には寄生虫がいるので決して踊り食いをしてはいけないらしい。
そんなわけであの美味しんぼのシーンを体感することはできないのだが、きっと私はこれからもほたるいかと向き合う度に幼い日のワクワク感を思い出すのだろう。




