第10食 さんま
残暑は厳しいものの、9月に入ると一気に秋めいてくる気がするのは私だけだろうか。
『食欲の秋』とはよくいったもので、秋になると沢山のおいしいものが登場しては我々人間たちを次々と誘惑してくる。
そもそも、秋が食欲の季節とされるのは大きく分けて3つの理由があるらしい。
まず1点目として、気候による影響が挙げられる。
暑さによる夏バテで食欲不振となる人が多い夏、それが秋になるにつれ涼しさと共に回復していき、寒く厳しい冬に向けてエネルギーや栄養を蓄える方向へと向かっていく。
食欲が増すことはあくまで気候に対する人間の本能的な反応だと思えば、おいしいものを沢山頂き時には体重が増えることも致し方がないと受け止めることができよう。
続く2点目は、私たちの身体のメカニズムに関係してくる。
秋になると日照時間が短くなり、それによってセロトニンという脳の神経伝達物質が減少傾向となるそうだ。セロトニンには食欲を抑える働きがあるため、その分泌が減少することによって食欲は増していくこととなる。
なお、セロトニンは別名幸せホルモンとも呼ばれていて、この分泌量が減ってしまうことで不眠症やうつ病にもつながってしまうらしい。
セロトニンを増やす効果的な方法は運動とされており、これが秋を『スポーツの秋』たらしめている所以でもあるようだ。
最後3点目の理由は、秋が多くの食材にとって実りの季節であるということに他ならない。
栗、さつまいも、かぼちゃ、柿にぶどうに梨、食物繊維たっぷりのきのこ類や脂が乗った魚たち――秋に旬を迎える食材はそれこそ数多くあるのだ。
中でも名前に『秋』の文字が入る魚、秋刀魚(ひらがなで書くのが好きなので、以降『さんま』と表記する)は正に秋を代表する魚といって差し支えないだろう。
近年は不漁続きとされているさんま、今年は記録的な大漁とされるニュースを聞きホクホクしていたが、実は大漁だったのは初物の水揚げだけで今後も豊漁が続くという見通しではないらしい。
昔は1尾100円ほどで手に入ったが、今後はもしかしたら高級魚への道を辿っていくのかも知れない。
それでも、秋になるとさんまを食べたくなる気持ちはきっと変わらないのだと私は思う。
子どもの頃、母はよく焼き魚を食卓に出してくれた。
その時には数多あるおいしい魚のひとつであり、さんまに特別な思い入れはなかったように思う。
そんな私がさんまに惹かれるようになったのは、恐らく夕方のニュース番組で『目黒のさんま祭』の様子を観たからだろう。
次から次へと炭火で焼かれ、焼き目を付けながら脂を滴らせるさんまたち。
皿の上に載せられると小さく切られたかぼすと共に来場者たちの元へ運ばれていく。
それらを笑顔でおいしいおいしいと頬張る人たちを見て、私のさんまスイッチが入った。
以降、私は秋になるとさんまの塩焼きを好んで食べるようになった。
定食屋でさんま定食を見かければオーダーし、グリルを使って家で焼いてみたりもしたが、結局今はものぐさ故にスーパーの総菜売り場でさんまの塩焼きを虎視眈々と狙っている。
今年も無事、さんまの塩焼きにありつくことができた。
電子レンジで再加熱して扉を開けば、香ばしい魚の香りと共にじわじわと脂が染み出している。
はやる気持ちを抑えながら、まずは胃を落ち着けるために前菜代わりのめかぶを一口。おだしの効いためかぶは、素直につるつると口の中を通り過ぎ腹の中へ落ちていった。
そして、いよいよさんまの出番だ。
頭の付け根からしっぽまで、焼き目の付いた皮を箸で押し分けほぐしていく。
その下に眠る茶と白の身をつまんで口に入れると、塩味と共にじゅわりと脂が広がった。
――あぁ、秋が来たな。
そんなことを思いながら、時に小骨を取り除きながら食べ進めていく。
普通の魚だと食べない『はらわた』の部分も、さんまの場合はおいしく頂ける。さんまには胃がなく腸も短いので、排泄物が溜まらずはらわたが痛みにくいからだそうだ。
そういえば子どもの頃は母が取ってくれていたなと、味わい深い苦みを堪能しながら懐かしく思った。
このようにさんまといえばついつい塩焼きを選んでしまう私だが、刺身でもおいしく頂けるのがさんまの良いところである。
特に、昔旅先で食べたさんまの刺身は印象深いものだった。
銀色につやつやと輝く皮の下から覗くぷりぷりとした身、そして添えられたしょうが――あまりお酒の強くない私だが、その時はついついビールが進んだものだ。
その店は新大阪駅と通路で繋がったビルの1階にあった。
友人や同僚と飲みに行くのは好きでもあまりひとり飲みをしない私にとって、そこは数少ないひとり飲みの思い出の場所だ。
夕食兼待合せまでの時間つぶしのため、私はひとりでその店に入った。
あの時、さんまの刺身以外に奮発して土瓶蒸しを頼んだこと、ゆっくりと飲みながら奥田英朗さんの『家日和』を読んだこと、そんなコスパの悪い客に丁寧に対応してくれた店員さんのことを今でも鮮明に覚えている。
数年後、旅行で訪れた際に記憶を頼りに行ってみたものの、そこには見覚えのない店が佇んでいた。
何事も一期一会、そう考えながら目の前のひとやものに心を向けていきたいものである。
(了)




