第1食 スーラータンメン
初めてそれに出逢ったのは、今から10年程昔のことだ。
私が当時働いていた工場には食堂があり、1階ではごはんもの、2階では麺類を提供している。麺類が好きな私は、特段の理由がなければ毎日2階で昼食を取っていた。
同僚たちも「早く提供されるから」という理由で毎日4人程で連れ立って2階に向かっていた。
そんな或る日、中華麺コーナーに長い列ができていた。
普段は和麺・中華麺ともそんなに混み具合に差ができるものでもない。不思議に思った私が後輩に聞くと、彼は「あぁ、なんか新メニューらしいっすよ」と言った。
「スーラータンメンだそうです」
……スーラー?
聞き慣れない言葉が、私の頭の中で『酢ー辣ー』と変換された。
「何それ? 何だかすっぱそうな名前」
私は酢がそんなに好きではない。酢の匂いをかぐと、学生時代の生物室を思い出すのだ。実験で酢酸カーミンなどを使った残り香が、私はあまり好きではなかった。
なお、実際の表記は『酸辣湯麵』なので、酢という名前がついているわけではない。
「まぁすっぱ辛い感じでしたけど、そこまできつくないし、普通においしかったですよ」
「ふーん、じゃあ今度トライしてみようかなぁ」
その日は並んでいた列で和麺を受け取り、私は次の機会を待つことにした。
そして翌金曜日、遂に私はスーラータンメンとの初対面を果たす。
赤、オレンジ、黄色と様々な暖色が混ざり合ったスープからは、湯気が立ち昇っている。見た目は少し辛そうだが、確かにそこまですっぱさを主張した香りはしない。もやしとネギ、トマトに加えてマーブル状に固まったかき玉子が表面を彩っていた。
同じくスーラータンメンを選んだ同僚たちといただきますをして、私はれんげで一口スープを啜る。
――あ、そこまですっぱくない。
思わずほっとする。そしてそんなに辛くもない。
辛さにも特段強いわけではない私は、安心した気持ちでもう一口スープを啜って、麺に取り掛かった。
食堂の麺は冷凍の細麺で、スープがよく絡み、おいしい。
普段ラーメンを食べる時は太麺派だが、これはこれでありだと思った。
シャキシャキしたもやしの食感を楽しみつつ、思い出したように顔を出すトマトと大好きな玉子も花を添えてくれて、私の初スーラータンメンは素晴らしい成功体験に終わった。
その日から、私はスーラータンメンにはまってしまった。
うちの工場の食堂はメニューが曜日固定だったので、次のスーラータンメンには金曜日になるまで逢えない。私は毎週金曜日を心待ちにするようになった。
元々は冬限定のメニューだったが、利用者の人気を反映してか、いつの間にかスーラータンメンは通常メニューに昇格していた。その偉業を称えながら、私は毎週スーラータンメンを楽しんだ。
出張者が訪れた際にも「おすすめのメニューがあるんです!」と強制的に食堂の2階に連れて行き、おいしいというリアクションを見ては我がことのように喜んでいた。
――しかし、そんな私とスーラータンメンの蜜月も終わりを迎えてしまう。
私が工場から本社に転勤になってしまったのだ。
ただ、担当していた業務の都合で、引続き工場の仕事を兼務することになっていた。
週半分は自宅から本社に通い、残りの週半分は特急で移動して工場近くの寮で単身生活――それを命じた上司は少し申し訳なさそうな顔をしていたが、私にとっては僥倖である。
――まだしばらくは、スーラータンメンが食べられる……!
私ができる限り金曜日を工場勤務にしたことは言うまでもない。
その兼務は1年半弱で解除となってしまったが、私は十分に食堂のスーラータンメンを堪能した。
なお、それから世間でもスーラータンメンが注目されるようになり、私は飲食店でもそれを見掛ける度にチャレンジしていた。
しかし、なかなか理想の味とは出逢えない。本格的なスーラータンメンは、私には少しすっぱ辛すぎるのである。
最終的に私の中でベストスーラータンメンに君臨したのは、『揚州商人』という中国ラーメンチェーン店の一品である。
首都圏を中心として店舗展開しているこちらのお店は、ありがたいことに自宅近辺にもあるため、定期的に通っている。
こちらのスーラータンメンはすっぱ辛さがバランス良く食べ応えがあり、麺の種類も選べるので、私は食堂では叶わなかった中太麺のスーラータンメンを堪能している。
それでも、たまに思い出すのは、やはり工場の昼休みに食べたあの味だ。
あの飾らない、人によっては物足りないかも知れないシンプルな一杯こそが、私にとってのオリジナルスーラータンメンなのである。
(了)