第8話:王子、王女の名前
私の家に帰る道を歩き始めた。
はじめは、送ってもらうのはイヤだと断ったのだ。けれど、エイダンは私の手を握るとすっぽんのように離さなくなっていた。手をぶんぶん振っても外れない。エイダンは楽しそうに笑うだけ。
疲れた私は、もう勝手にしてくれと思うことにした。
このレストラン、実はかなり私の家から離れている。王宮からは近いお店である。また私の家も王宮からはたいして離れていない。しかし、レストランは王宮を挟んで市場通りの反対側にあると言っていい。だから、しばらくしばらく歩かなければならない。
寒い風がピュ~と音を立てて走っていく。
少し眠くなってきた。あんなに眠ったのに、まだ眠いとは。
私が、ふわぁと欠伸をかみ殺すと、ふわっと身体全体を魔法が覆った。隣を見ると、エイダンがにこりと私に微笑んだ。
「またきみの体温が落ちていくのを感じたから、暖かい風をまとわせてみたんだ」
なんてことないようにエイダンは言うが、かなりすごいことをしている。
だって、動く対象に動くものを付与させる、高度な魔法だ。流石、魔王の名をつけるに値するほどの魔法の使い手である。
妙に感心してしまっていると、ほわほわが抜けてきたエイダンが立ち止まった。
「待て。これはどこに向かっている?」
「私の家ですよ」
「どこまで行くんだ?」
「市場の方です」
「いやいや、待て。僕の家の方が遥かに近いじゃないか」
「そうなんですねぇ」
私はほかのひとの住んでいる場所に興味が無くて、適当に返事をした。
エイダンのほうが横に並ぶと背が高いことを今回知った。エイダンを見上げる。
エイダンは絶滅危惧種でも見るような顔で私を見た。
「きみ……。僕のこと知っているよな?」
「えぇっと。どれについてですかね?」
とんでもなく、まずい空気は感じたが、エイダンが聞いている意味が分からない。
目が泳いでいるであろう私をひっぱりながら、エイダンは歩き出した。
「僕の名前は?」
「エイダン・オクサイド・ジョンブリアンさまですよね?」
「一個足りないけれど、普段の名前はそうだ。正解だ。じゃあ、この国の王子の名前は?」
「うーん……。必要性を感じなくて忘れちゃいました。てへ」
握られる手が痛くなった。ミシミシ鳴り始めそうである。
「あー、うん。きみはそういうひとだ。じゃあ、王の名前は?」
「エリオット・オクサイド・マルーベさまです」
「そっちは覚えているのか。じゃあ、王妃の名前は?」
なんだなんだ、いきなり王さまクイズか?
正直、三年前の私だったら、初代から今の王さままですべての名前をそらんじれた。なんなら、どこの国の、どこの貴族の、王妃さまというのも、全部だ。
しかし、時間が経つとモノを忘れるようで。
「ええっと……」
「王妃の名はシガール・ジョンブリアン・マルーベ」
「よくご存じで」
呪文のような名前をよく覚えてるなぁと感心しながら、耳を傾けていた。
「一般的に知られていることのはずなのだが。王と王妃の間にはふたりの息子とひとりの娘がいる。息子の名前はエイダン、ジルベール。娘の名前はエメリーン」
「あら、魔王さまと名前が一緒だわ」
「そうだね。何か気付くことはないかい?」
「んー……」
確か、王子王女のときは、名前の次に王のミドルネーム、その次に妃のミドルネーム、そして国のマルーベがつくんじゃなかったか。
ということは。
王子は、エイダン・オクサイド・ジョンブリアン・マルーベさまとジルベール・オクサイド・ジョンブリアン・マルーベさま。
王女はエメリーン・オクサイド・ジョンブリアン・マルーベさま。
うんうん。なるほど。分かりたくない。
平民や貴族は、名前と家名しかない。どんなに長くなっても、二つに区切るのみ。
三つに区切る、四つに区切るは、王さま関係しかありえない。
そんな常識を今更、思い出した私である。
「言わなきゃダメでしょうか?」
「上目遣いにうるうるしても、ダメだ」
「やっぱり魔王なんじゃないですか? エイダン・オクサイド・ジョンブリアン・マルーベ王子殿下」
「やっと分かってくれたか。だから、だからな。きみはダンスに困っているようだ。僕が教えてやることができる。ジョニーに頼む必要は無いと思うのだが、どうだろう?」
「え。けっこうです……」
私の答えが予想外だったのか、王子殿下の尻尾が勢いよく跳ねた。あちらを向いていた顔がこちらに向き直ったからだ。
さきほどまでの余裕はどこかに家出したようで、慌てている。そんなに慌てることはないと思うのだけれど。
「なぜだい? 僕は優秀だよ?」
「そうでしょうけど、申し訳ないなと思って」
「そんなことを思う必要はない。僕が教えてあげたいんだ。大きな式典で、きみが堂々と胸を張っている姿を僕は見たいんだ」
「うーん」
私の煮え切らない返事に、王子殿下は眉根を跳ね上げた。
怒られる予感がしたのだが、王子殿下の行動は違った。
無言で私の前に回り込むと、膝を突いた。そして、うやうやしく私の手を持ち上げ、そこへ唇を落とした。
私は悲鳴を上げ逃げるよりも何よりも、おどろきすぎて考えるところが焼き切れたらしい。顔が赤くなっていること間違いなしである。まあ、いまは夜で暗いから――。
「照れたクレアの顔は、とてもかわいらしい」
エイダン王子殿下は夜目にも強かったらしい。
私の頭からぷしゅーと、敗北の音が鳴った。
ブックマーク追加で今後も応援よろしくお願いします!