第4話
それからもあの神社へ行く度に、キンモクセイの前で彼女に声をかけられた。
ただし一言か二言、挨拶程度だけ。少し意味のある話になるとしても、キンモクセイについてだった。私の方では、互いのプライベートについて話したい気持ちもあったけれど、会話の糸口すら生まれなかった。
いつも彼女は、同じ薄黄色のワンピースだった。そういえば最初の日、私はキンモクセイを見てオレンジ色と思ってしまったが、彼女は薄黄色の花だと言っていた。もしかすると、彼女の服装はキンモクセイをイメージしていたのかもしれない。
美しく良い香りの花とぴったり重なって、まるで金木犀の花の精だ。
いつしか私は、彼女のことを、心の中で『キンモクセイの女性』と呼ぶようになっていた。
大学は高校までと違ってクラスという集団意識は希薄であり、その影響だろうか、学部では親しい友人は作れなかった。サークルにも属していないため、課外活動から生まれる友人関係もない。だから私は、恋人どころか、女性と知り合う機会すらないような大学生活を過ごしていた。
そんな私にとって『キンモクセイの女性』が特別な存在になってしまうのは、当然の出来事だったに違いない。名前も知らぬ女性に憧れ続けたのが、私の青春時代だったのだ。
キンモクセイの開花シーズンが終わると、彼女は姿を現さなくなったが……。翌年の秋には、また同じ場所で声をかけられた。
「今年もお会いしましたね」
そう言って微笑む彼女は、一年前と全く変わっていなかった。
だから私は、大学を卒業するまで毎年、秋には同じ神社に通う形になるのだった。
せめて最後に、彼女への想いを少しでも伝えたい。冗談っぽく「あなたはまるで金木犀の花の精みたいに美しい」と告げる程度ならば、私にも可能だろうか。そう思ったこともあるけれど、実際に口にする勇気はなく……。
大学を卒業して、仕事の都合で関西を離れることになり、『キンモクセイの女性』の顔を拝む機会もなくなってしまった。
それ以来、二度と彼女には会っていない。
今年の春、出張で久しぶりに京都を訪れる機会があったので、あの懐かしい神社にも足を運んでみた。
キンモクセイの季節ではないから、最初から『キンモクセイの女性』との出会いは期待していなかったが……。
「あっ!」
その場所が見えてきたところで、私は驚きの声を上げていた。
潰れてしまったのか、あるいは移築されたのか。神社そのものがなくなり、更地になっていたのだ!
「……」
青春時代の思い出も消されたようで、呆然としてしまう。もしかすると、あれらは全て、夢か幻だったのだろうか。
跡地には新しく何か作られるようで、ちょうど工事中だった。黄色い工事用車両が動き回っているのを見て、それよりも淡いキンモクセイの黄色を――そして『キンモクセイの女性』のワンピース姿を――、私は改めて思い浮かべるのだった。
(「金木犀の花の精」完)