異世界行く?
「あー、そこ座ってよ」
「いいんですか?では遠慮なく」
シトシトと、少女というか、女性というか、その間くらいの年齢の娘の服からは水滴が滴り落ちています。庭につながるベランダから足だけ拭いて、ひとまず家に上がってもらいました。
今、僕はあの娘にタオルを探すと言って一人洗面所に立っています。嘘です。引っ越ししたばかりだとはいえ、タオルの場所くらいすぐ分かります。ただ、冷静になろうと、必死なだけです。
ええ、そうです。当然、原因の発端はあのマンホール娘です。濡れている以外は、んー、濡れていることの方がまとも、と言えるくらい変な人です。
妙な人、風変わりな人、見たことがない人。そりゃ、そうなんですが、そんな感じでしか表せない人なのです。
何せ金髪、地毛だそうです。マンホールから彼女の身体が抜け切る前に「その髪、地毛ですか?」と問うてみたとき「はい、珍しい色なのですか?」と問いかえされたので間違いなし。真実です。
しかし「ハーフですか?」と問うてみても「いいえ」。「クウォーターですか?」問うてみても「いいえ」と。そう言ったので、日本語を話す、純粋な金髪……というより顔立ちからして海外の血筋の人になったわけで。
格好はさながらお伽話の中で舞踏会にでも出席していそうな可憐で清楚な純白のドレスを身につけており、貴族や皇族の王族の令嬢のよう。
この時代でそうそう見掛けることのない人。いや、2次元としてはむしろ見掛けることは少なくない。そんな3次元こそ、この人なのです。
ですが、全身びしょ濡れで……あの、つまりドレスで、白で、濡れているので、それはもう服も着て着ていないようなものだったので、暖炉で体を乾かしてもらうのと、ひとまずバスタオルを渡すために家のなかに入れたのでした。
回想終了です。だんだん落ち着いてきました。とりあえず、戻りましょうか。怪しい人だと思われたくはないので。
「あの、すみません。バスタオルありました。遠慮しないで使ってください」
「ありがとうございます。では、遠慮なく」
おお、タオルを全身にギュッと巻き付けました。そして……あ、なんか幸せそう。
「暖かいですか?」
「ええ、とっても」
「………………」
「………………」
うーむ。気まずい。気まずいです。聞きますか?いや、まずは何から聞こうかって話になるわけですけど……。
「あの」
「はい……!」
あぁ……先を越されてしまって、ついつい間の抜けた声を出してしまった……!
「な、何でしょうか」
「その、一体ここはどこなのでしょうか?」
「日本です」
「日本?」
「東アジアに位置していて、日本列島および南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などからなる民主制国家で、首都は東京都、気候は四季の変化に富み、国土の多くは山地で、人口は沿岸の平野部に集中しているーー日本です」
「そ、そうなんですね……」
しまったぁ……。僕のバカ……。これだから僕はダメなんだよなぁ……。後先考えず、思ったことを素直に口走っちゃう性格、作家としては良しかもしれないけど、人としては問題だよな。気をつけよう。
「あ、いえ、すみません。ところで、僕からも聞きたいんですけど、キミこそどこから来たんですか?」
「ムスト帝国、と呼ばれる国からです。ムスト帝国をご存知ですか?」
うん。「マンホールからです。テヘッ」って回答じゃなかったことにひとまず安心しつつ(近年の若者言葉ってどこからどうやってそうなったのか未知でしょ)、ラノベみたいなことを言いやがったこの娘。
でも僕はライト文芸作家だから、ラノベはあまり詳しくないけど……でもこれってアレかい?アレですか?異世界モノってやつですか?
ーーそれもリアルで?
「ご存知ないです」
「そうですか。ではオールドリッチは?」
「知らないですね」
「そうですか」
なんだろう。年老いた魔法使いとかでしょうか。なんだか、厨二病の子供と話している気分になってきますね。相手はそこそこ大人の女性ですが。
それに、庭のマンホールから人が出てくるわけがないので、これは不思議な何かが起こっているのでしょうね……きっと。
「あの、いいですか。その、最初からずっと聞きたいなと思っていたのですが……」
「はい」
「キミの国にはもしかすると魔法があったりしますか?」
「はい。もしかしてこちらの国にはないのですか?」
「ないですよ。でも不思議と見たこともないはずなのに、魔法が神秘的な力だってことはこちらの国にも根付いているんでご心配なく。意味は分かります。」
「そうなんですか……」
おっと、また余計なことを口走ったでしょうか。ともかく、どうしてこちらに来たのか。これからどうするのか。それらを考えましょう。
「えーアリスさん、そう呼ばせてもらいますね。アリスさんはどうしてこちらの方へ?」
「……どうしてでしょう」
「え?」
「?」
「どうして来たのか、分からないの?」
「はい、記憶はあるのですが、どうにもここへ来た目的だけが曖昧になっていて」
これはパソコンデータをUSBで移動させるときに発生してしまうことのあるファイルの破壊というべきか、それともどこかさらに異なる世界に保存された記憶データが地球には届きづらくラグが発生しているというべきか。
んー、この人がこの世界の人ではありません。異世界人です。
そう思って、状況を整理すると、まぁそんなこともあるかもしれないな、とも思えるのが複雑です。
記憶がないんじゃ、こっちに来た意味も分からないし、どうしようもないじゃないですか。案外、なんとなく、みたいなものかもしれませんが。
っていうかあれ、これって僕が養わないといけない感じでしょうか。異世界モノの主人公が前世の記憶を持っているように、逆に記憶を持たない人を隠しながら生きていけというように。
無理だ。その重みに耐えられるだけのキャパも器も容量も、僕は持ち合わせていない。
ごめんなさい、神様。もしかすると、これはあなたのくれた最強のネタ帳なのかもしれない。いやしかし、でも、これはいくらなんでも……!僕は警察と弁護士と医者と実業家、この素晴らしく優秀な方々が苦手なんです。けれど、彼女を連れていたらいつか巡り会うのは必須。
無理、ごめん、無理です。どうか許してください。
帰りましょう。アリスさん。あなたはたぶん、おそらく、きっと、まだここに来るときではなかったんですよ。
こんにちは、異世界。そしてさよなら。
「アリスさん」
「はい?」
「あなたの国の人には、もしかするとこちらの空気が合わないのかもしれません」
「そうはどういうことですか?」
「目的が曖昧になっていく。その原因として考えられるのはこちらの空気です。それはもう毒では?」
「そう、かもしれません」
「納得いきませんか。でしたら、これはどうでしょう。樽一杯に入ったワインにスプーン一杯の毒を入れたら、毒の入っていないワイン樽もあるのに、キミは飲みますか?」
「………………」
「そういうことです」
さ、帰りましょう。僕からそう切り出すのは、何だか申し訳ないので、そう言ってください。一言でいいんですから。
あと、「もう少し時間をください」ってのはナシで。そのセリフの後、時間が開くとロクなことがないので。それに、不遇の立場でびしょ濡れで、心が折れそうな人を見てると助けたくなるので、もうパッパと、サッサといなくなっちゃってください。
お互い、日常に戻りましょう。
今日はとっても素晴らしい経験と話題をいただきました。アリスさん、あなたのことは一生忘れないので、さっ、マンホールに行きましょう。
「分かりました。帰ります」
よかった。なら、あとはお見送りです。精一杯、可能な限り応援のエールを込めて笑顔で見送ってあげましょう。
「そうですか。ではーー」
「ですが、あなたも一度来てもらえませんか?」
ん、んー?聞き間違いかな?僕も行くの?
「どうしてでしょう?」
「戻って目的を思い出せたら、こっちに来た目的を聞いてもらおうと思いまして」
「なるほど……」
この人、意外と図々しいのかもしれませんね。随分と強気な口調です。もう高圧的ととられても文句は言えないくらい。
「具体的にはどこでしょう?」
質問すると、
「それはキミの思うーー異世界とやらでしょうね」
アリスさんは含みのある表情を僕に向けて、そう言ったのでした。