氷の惑星
1
そこは氷の惑星だった。厚い大気に覆われた冷たい氷の上で人々は生活を送った。凍てつく寒さも彼らは気にしなかった。生まれた時からそうなのだから。死ぬまでそうであるように。
茶色い瞳のトオルと青い瞳のアレイは、今朝も肩を並べて氷の舗道を駆け抜けた。
「おい、トオル見ろよ」
アレイが最初にそれを見つけた。
―宇宙飛行士募集―
「ヒュー」アレイは唇を尖らし、鋭く辺りの空気を切り裂いた。「しかし、行く奴がいるのかよ」
トオルは黙って肩越しにポスターを振り返った。
―定員2名―
「まあ、クレムゾンは確かに天才だったけれど、クレムゾン・レポートの最後の言葉はどうも疑わしい気がするね」 アレイは歩調を緩めた。トオルの目を見て話すために。
―目的地青の惑星―
トオルの目はポスターの残像を追っていた。
2
学校というものは、絶えず蜂の巣をつついたような騒ぎで溢れかえっている。殊に朝は、離れ離れになっていた数時間のエピソードを語るべく、お互いが大声を張り上げて自分の話を聞いてもらおうと意気込んでいた。
「おい、見たか。例のポスター」情報屋のサムが一等最初にこの話題を切り出した。
「宇宙飛行士募集だろう」
「目的地は青の惑星だって。すごい勇気のいることだよね、これは」
皆がざわついた。
「そうとも」級長のミチルが話に加わった。「青の惑星まではおよそ100年かかる。地上での10年は宇宙船内での3年にあたるわけだけど。それでも、僕らの寿命は往復できる程長くはない。」
「光速に近付く程時はゆっくりと流れるんだね。宇宙船が青の惑星へ着く頃には、ここにいる僕らは皆死んでしまっているんだ。100年の航海か。気が遠くなるな」アレイもこの話題に興味を示した。
いつも静かな弱虫ウイルも顔を上気させて興奮していた。「ねえ、クレムゾン・レポートによるとさ、青の惑星はこの惑星より大気がとても薄いんだよね。ひょっとしたらさ、青の惑星では地上から他の惑星やら恒星やらが見えるんじゃないかな」
「それは面白い思い付きだね」トオルは驚いた表情を浮かべた。
「実に興味深い意見だ」アレイも頻りに頷いた。
他の者もウイルに賞賛の眼差しを向けた。高慢ちきなピエトロだけは、弱虫ウイルが脚光を浴びているのが気にくわなかった。
「ふん、お前みたいな意気地なしは宇宙船になんか乗れやしないさ。一生宇宙を見ることもないだろうよ」
傍に居たトオルはピエトロに食って掛かった。「そういう君はどうなのさ。青の惑星へ行く勇気があるのかい」
「俺は青の惑星なんかには行かないよ。恐がっているからじゃないさ」ピエトロはおどおどしているウイルを睨み付けた。「大体、親兄弟を捨てて、そんな所へ行く気はないね。後に残された者がどれだけ悲しむかを考えてみろよ」
「お前が他人のことを思いやるなんて、青天の霹靂だね」
アレイの言葉に皆がクスクスと笑った。ピエトロは顔を真っ赤にして怒鳴った。
「他人ではないよ。家族のことを言っているのさ」そう言うと、ピエトロは顔を輝かせた。「そうか、トオルなら行けるさ。トオルなら俺達と違って悲しんでくれる人がいないのだから。なんたって奴は…」
「アレイ」トオルが叫んだ。
アレイはその先を言わせなかった。いきなりピエトロの胸座を掴むと、一発その顔にお見舞いしてやった。
「なにも殴らなくても」トオルはアレイを席に引き戻した。
ピエトロは委員長のミチル達に押さえられて、「ちくしょう」とか「覚えてろよ」とか言いながら泣いていた。
ガラッ。
ドアの開く音に、一斉にクラス中が反応した。ドクター・シバが教室に足を踏み入れた時には、全員が何食わぬ顔で黒板を見つめていた。
3
「では今日は、“偉大な科学者クレムゾン”について少し話そう」ドクター・シバは教科書を閉じてその白髪をかきあげた。
ドクター・シバのお気に入りの二人は、今日も並んで窓際の席に座っていた。いつも熱心な眼差しを向けるトオルと、なんとか教師の揚げ足を取ってやろうといたずらっぽい瞳を輝かせているアレイ。二人の少年は彼の胸に不思議な感情を蘇らせてくれた。何かしら遠い昔に失ったものを。自分もかつては少年であったことを。
ドクター・シバは溜息を一つ吐くと、話し始めた。
「“偉大な科学者クレムゾン”。彼は宇宙航行の祖であったと同時に、生態学、環境学など多くの分野において、まさに偉大であった。14歳にして宇宙工学を体系付け、22歳にして宇宙船を建設。28歳の時、遂に彼は自らの手で宇宙へ飛び出した。クレムゾンは死ぬまで旅を続けた。可能な限り遠くの宇宙まで彼は行こうとしたのだ。クレムゾンの孤独な調査は、ロケットカプセルでこの惑星Sに送られてきた。彼が惑星Sを出発してから実に200年めのことだ。これが所謂クレムゾン・レポートだ」
教室に響くドクター・シバの声を聞きながら、トオルの目にはポスターの残像がまだ消えずに残っていた。
「しかし、残念なことにクレムゾン以降宇宙航行において殆ど技術の発達はみられないという有り様だ」
トオルは遠い過去に思いを馳せた。
“偉大な科学者クレムゾン”。青の惑星に着いて息絶えた。死の間際に、彼は神に出会えたと言う。クレムゾン・レポートの最後の言葉は、『神だ、神が居る。この地に…。この青の惑星に…』という彼自身の途切れ途切れの絶叫で終わっていた。果てしない宇宙の旅に出たクレムゾン。彼には、泣いてくれる人はいなかったのだろうか。涙を流す母親は?肩を震わす父親は?彼の旅は気の遠くなるほど長く孤独な旅だったけれど、この惑星でも彼はいつも孤独だったのではないだろうか。そうだとしたら…。
彼は僕だ。
トオルは自分の中で一つの決断を下した。
4
「おい、開けろ、トオル。俺だ、アレイだ」
黒々とした半円形の家の窓に灯りが一つついていた。そして、今、もう一つの灯りが入り口にともり、ドアの向こうにトオルが現れた。
「息せき切って、どうした、アレイ」
「どうしたもないもんだ」アレイはまだ息をはずませていた。「青の惑星行きを志願したそうじゃないか。ドクター・シバ達が話しているのを聞いたよ」
トオルはドアを閉めて、明るい部屋の中に座った。
「どうしてそんな大事なことを、この俺に断りもなく」アレイはトオルにつかみ掛かった。「俺達は親友ではなかったのか」
パシッ。
トオルはアレイの手を払い除けた。「アレイ、これは僕個人の問題だ」
アレイはトオルの冷たさにたじろいだ。
「ねえ、アレイ。僕はずっと青の惑星へ行きたかった。これはチャンスだ」トオルはきっぱりと言った。
「しかし、今の宇宙技術では往復距離ぶんの寿命は俺達にはない。もう二度とこの惑星には戻れないんだぞ」
「わかっている。けれど、僕は知りたい。この青の惑星を計画した科学者達同様。“偉大なクレムゾン”がいったいそこで何を見たのか。彼が青の惑星で何を見たのか」
アレイはありったけの皮肉を込めて言った。「神か悪魔か」
トオルはその挑発には乗らなかった。「神だった、とクレムゾンは言っている」
「は!ははは!!クレムゾン・レポートなんて狂人の戯言さ。奴は長い孤独な航海の果てにいかれてしまったのさ」アレイはひきつった笑い声をたてた。
「アレイ。“偉大な科学者クレムゾン”だぞ。言葉を慎めよ」
トオルは外の氷の世界に目をやった。そこにアレイなど存在しないかのように遠くを見つめた。
「いるさ、きっと。そして神は全ての者に等しくその愛を投げかけるのさ。この僕にも、例外なくね」
5
氷の平原は、重く垂れ込めた厚い雲を映し出していた。全てが灰色であった。ずっと以前人類がこの惑星に登場して以来、惑星Sは氷に閉ざされた灰色の惑星であった。
ドクター・シバは一通の書類を手に取った。それは宇宙局からの知らせだった。
その日の午後の授業は、いつもより早く切り上げられた。
「今日はこれまで」
皆、ガタガタと騒々しく席を離れた。
「トオル」ドクター・シバは茶色い髪の少年を呼び止めた。「後で、私の部屋へ来るように」
トオルは一瞬息を呑み、深く頷いた。
「はい」微かに声が震えた。
伸びをしていたアレイは、それを聞いて凍り付いたようにその動きを止めた。アレイの氷のような視線を感じながら、ドクター・シバは大急ぎで教室を後にした。
6
案の定、アレイがドアを勢いよく開けた。
「ああ、アレイ、来ると思っていたよ。トオルは?」
「います、ここに」トオルはアレイの後ろから顔を覗かせた。
「先程、宇宙局から知らせが届いた」
「ドクター・シバ」アレイが甲高い声で叫んだ。
「おめでとう、トオル」ドクター・シバはトオルに右手を差し出した。「今回の宇宙飛行士の一人に君が選ばれた」
トオルは顔を輝かせて右手を差し出した。が、アレイがその手をむりやり押し退けた。
「ドクター・シバ。俺も応募したぞ、俺も」
「残念ながら君は落選だ」
「なんでトオルだけが。そりゃ、こいつは頭がいいですよ。だけど物理だけは俺の方が上だ。それにスポーツは万能だけど、俺の方が敏捷性はある。なんでトオルだけが選ばれて…」
「アレイ」ドクター・シバはアレイの言葉を遮った。「君は、今回のクレムゾン計画には反対ではなかったのか」
「そりゃ、そうですよ。こんな計画ばかげている。自殺志願者を募っているようなものでしょう」
「科学のためだ」
「似非信仰のためでしょう。どうせろくでもない司祭どもが宇宙局をけしかけたんだ」
「アレイ、やめないか。トオルと話をさせてくれ」ドクター・シバはトオルの肩に手を置いた。「トオル、行ってきてくれ。そして見極めてきておくれ、クレムゾンの神を」
「ええ、ドクター。僕はずっとそのつもりでした」トオルの声には断固とした決断の響きがこもっていた。
「トオルが行くなら俺も行く。俺も行かせてくれ」アレイが叫んだ。
「君は選ばれなかった」
「なんで、トオルが」アレイの握り締めている拳が小刻みに震えた。
「宇宙開発局の選択だ。適任者は君ではない」
アレイはぐっと息を詰まらせた。唇は青ざめていた。「トオルが…、トオルが孤児だからですか」
「アレイ」ドクター・シバは声を荒げた。「これは多くの人々の夢であり、また、私の夢でもあるのだ。クレムゾン・レポートが我々の元に届いてからの50年間ずっと。もし私がこんなに老いていなければ、もしも私が君たちの年齢だったら、私が行きたかったのだ、この私こそが。私はやがて死に、もう永久にクレムゾンの神を知ることはないが、やはり私は知りたかった。“偉大なクレムゾン”が青の惑星で何を見つけたのか」
その瞳は、遠くはるか彼方の宇宙をみているかのようだった。そして、トオルもまた。
7
高慢ちきなピエトロも、情報屋のサムも、級長のミチルも、皆々静かだった。まるで葬式の出棺を見送るようだね、と誰かがぽつりと言った。
宇宙局からの迎えのスノー・カーが、白い氷の上に停まった。
「いいか、トオル。お前はこの世で一人ぼっちだなんて思うなよ」アレイは最後の言葉を口にしたくなかった。「お前がいなくなったら俺が悲しむ。俺がいるじゃないか。俺がいたじゃないか。俺が一番心を通い合わせたのはお前だ。親なんかじゃない、神様なんかじゃない。“偉大なクレムゾン”なんてくそくらえだ」
「アレイ、君は本当にいい奴だ」トオルはスノー・カーの方へ歩き出した。
「バカヤロー」アレイにはそれ以外言葉が見つからなかった。
「そうだね」トオルは呟いた。車のドアに手を掛け、振り向くと微笑んだ。「じゃあね」
アレイは駆け寄った。「トオル、俺も行く。必ず後から行くよ」
ドアが閉まった。
走り出したスノー・カーを追い掛けながら、アレイは叫び続けた。「トオル、待ってろよ。青の惑星で待ってろよ。必ず後から行くからな」
いつまでも手を振り続けるアレイが小さくなり、やがて見えなくなった。
アレイ、君は本当にいい奴さ。君だけは僕のために泣いてくれるだろう。けれど、その涙はすぐに乾くさ。所詮僕達は他人だ。バイバイ、アレイ、僕の親友。バイバイ、惑星S、僕の故郷。
8
「よろしく、相棒。僕の名はシロだ」
宇宙船の中はひんやりと静かだった。微かな機械音はもう気にならなくなっていた。シロは闇の宇宙空間をバックに立っていた。彼は遠ざかる故郷を惜しむ様子もなく、一度ちょっと振り返ってその氷の惑星を見た。
「お前さんは、なんだってこの幽霊船に乗る気になったんだい」
トオルはクスッと笑った。長い黒髪を一つに束ね片目に眼帯をしている長身のシロこそが、この幽霊船の船長にぴったりだと思えたのだ。
「“偉大なクレムゾン”の神に会うためです」
「はん、優等生」シロは言い捨てた。「俺はさー、青の惑星へ行ったら神をぶん殴ってやるつもり。雪嵐でね、あっという間さ。村一つ全滅。俺は奇跡的に助かったけど、親兄弟、友人知人恋人、皆なくしてしまった。ついでにこの右目もな」
そう言って、黒い眼帯に手をやった。
「俺はね、もしクレムゾンの言う神に出会えたら、そいつを殴り倒して蹴飛ばしてやりたいんだ。俺は神が憎いんだ」シロは右の拳で軽く空気を切り裂いた。「俺は神をこてんぱんにのしてやりたいのさ」
そして残りの片目でウインクを送ってよこした。
何故この幽霊船に乗ったのか。トオルはシロの質問に心の中で答えた。結局、僕達はあまりに孤独だったからこの宇宙船の孤独を自ら選んだのだろう、と。
9
「夢を見ていた」トオルは茶色の瞳から涙が流れ出るのを感じた。
「泣きながら目覚めて、か」シロは歌でも歌うように節を付けた。
「友達の夢を見ていた」涙はあご髭をつたって、シャツの上に落ちた。その顔にはもはや少年の面影はなかった。
「100年たつね。もうアレイは死んでしまっただろうに、彼の夢を見たよ」
「俺達は宇宙航行のせいで、大分長生きをしているからね。惑星の奴等に比べたら」
シロは熱いカップをトオルの手に持たせた。
「うん」トオルは手の中の温もりにほっとした。
「もうすぐ青の惑星だ。あのクレムゾンが正しければな」
「アレイが言っていた、別れ際に。僕を乗せたスノー・カーを追い掛けながら。必ず後から行くからなって」
「いい奴だな」
「うん、とってもいい奴だったよ」
しかし、それももはや遠い思い出でしかなかった。
10
青い惑星が眼下に広がった。青の惑星。長い航海の末、偉大なクレムゾンが見たものは一体なんだったのか。鋭い閃光の後、宇宙船はようやくその機能を停止した。
トオルとシロは宇宙船の扉を開けた。外は薄暗い闇だった。
「クレムゾンが降りた場所と、殆ど差異はない筈だ」シロは言った。
「シッ。何かいる」トオルは素早く辺りに目を配った。
ガサッという音と共に、鋭いライトの光が二人の目を一瞬瞑らせた。覆った腕越しに覗いたトオルの目に、一人の端正な顔立ちの少年の姿が飛び込んできた。勝ち気そうな瞳に整った顔の…。
「おい、これが神ってやつか」シロは小声でトオルに囁いた。「そりゃ、きれいな顔をしているけれど。俺達と何も変らないじゃないか」
トオルは一瞬口がきけなかった。あまりの驚きに、あまりの喜びに。そこに立っていたのは、そう、まさしく…。
「アレイ…」
「なに、なんだって。お前の友達のアレイか」シロはすっとんきょうな声を上げた。「いや、まて。アレイならとっくに死んじまっている筈だし。すると、なにかい。ここは天国かなにかなのかい」
シロは放心しながらも口だけは動かしていた。
「隊長」二人の若者が先を争って駆け寄ってきた。
「遅い、お前ら。俺が先に見つけたぞ」青い瞳の天使は、よく透る澄んだ声で話した。「ようこそ、トオル。お待ちしておりました」
「君は…」トオルは震える声を押さえられなかった。
「これは隊員達です」青い瞳の少年は、後からやってきた二人を指し示した。「そして、僕は隊長のレオナです」
「君は、アレイではないのか」
少年は顔を紅潮させ、目を輝かせて誇らしげに言った。
「僕は“偉大なアレイ”の子孫です。そして今、彼の意志どおりあなた方を迎にくることができて、たいへん嬉しい」
「子孫だって?」トオルは目を見張った。
シロは訳がわからなくなっていた。「すると、なにかい。俺達はタイム・ワープとかいうやつをやっちまったのかい」
「いえ、とんでもない」レオナは利発そうな瞳を動かしながら答えた。「私達はあなた方を追い越してやってきたのです。私達は、光速を超えてやってきたのです。“偉大な科学者アレイ”が理論上光速を可能にしてから80年。試行錯誤を繰り返し、遂に私達の世代で完成したのです。“偉大なアレイ”は30代の若さで一つの願いを残して亡くなりました」
『トオルを、青の惑星へ行ったトオルを、もう一度この惑星に…。彼が探していたものは、ここに、この惑星にあるのだから…』
トオルはアレイの声を聞いた。いや、確かに聞こえたと思った。
『孤児ということは、孤独という意味ではない筈だ』と言ったアレイ。『僕は泣くよ。お前が行ってしまったら』そして『必ず後から行くから』と叫びながらスノー・カーを追い掛けてきたアレイ。
アレイは今、その約束を果たしたのだ。100年の長い歳月を超えて。
「アレイって奴は、たいしたもんだ」シロはヒューっと口笛を吹いた。
トオルはゆっくりと口を開いた。茶色の髭が微かに震えた。
「レオナ。クレムゾンの言っていた神というのは、一体何処に居るのだ」
「まもなく現れます。しっかり見ていてください」
「そうとも、俺はそいつを殴りに来たのさ」シロは右の拳を突き出した。
「殴ることはできないと思いますよ」レオナは眩しい笑顔で答えた。
「100年かかって、僕らが捜し求めてきたものだ」トオルはかみしめるように言った。
あたりの闇は次第に薄れ、今、まさに夜が明けようとしていた。