コスモス
人里離れた深く薄暗い森の回廊を掻き分けて、細い道に沿って歩いていくと、やがて木々の切れ間が姿を現し、光の世界にたどり着く。
世界を埋め尽くすような深緑の大海から、突然現れる光に包まれた別世界。
深海の底からそこだけ切り拓かれたような空間には、まるで孤高を気取っているかのようにそびえる尖塔をもつ建物と、あたしともう一人だけしかいない、閉じた世界が拡がっている。
魔法士兼、航空工学博士アイテールの実験場、それが光の世界の正体だった。
あたしが住み込みで働いている実験場の住人は、アイテール先生とあたしの二人しかいない。
うちの先生は天才だけど、生活力はこれっぽっちも備わっていなかった。
じつのところ社会常識もけっこう怪しい……
あたしの名前はコスモス。
これでもアイテール先生の助手を務めているのだ。
* * *
先代のガイアス師が世を去って、娘のアイテール先生が研究の後を継いだ。
空を自由に飛ぶことが先代せんせーの悲願だったらしいけど、その段階をアイテール先生はとっくに乗り越えてしまってる。
何しろあの人、研究者でありながら、4つの魔法を同時に起動できるのだ。
擬似翼の制御、風の制御、姿勢安定に周辺感知のマルチタスク。
必要がないからやらないだけで、じつはもっとたくさんできるかもと、あとでこっそり教えてくれた。
先生はあたしだけが知ってる、そんな天才級の魔法士。
先代は2つで限界だった。
先代の研究はそこで行き詰ってしまっていて、先生もそこでずっと足踏みしている。
一般の人にも使えるようにするなら、4つの魔法の同時制御など論外なのだ。
さすがの先生もそれぐらいは理解しているらしい。
ちなみに、わたしができるのは1つだけ。
ただし、掃除・洗濯・食事の用意と、家事全般に関してはあたしがすべてを仕切ってる。
そして残りの時間を使って、ずっと先生の研究に付き合ってる。
あの人は、ああ見えてひどく寂しがり屋だ。
この前話を振ったら、自分でもそれを認めていた。
そんな先生が、実験を始める時間を過ぎても、あたしを呼びに来なかった。
しょうがないから自分から先生の部屋に呼びにいったら、先生はちょこんと椅子に座って窓の外を眺めていた。
窓から射す光が、薄暗い室内とのあいだに強いコントラストを描いている。
そんな中、おしとやかにただ窓の外を見ている先生の姿は、まるで一枚の絵画のように、強くあたしの心に焼きついてしまったようで。
この光景を切り取って額縁で飾れたら――なんてつまらないことを考えながら、しばらくのあいだ、あたしはその奇跡のような眺めに浸っていた。
* * *
「なに見てんですかぁ?」
「あら、おはようコスモス。もう実験の時間?」
「もうとっくに過ぎてますよー。珍しいですよねぇ? せんせーが遅刻するのって」
「そっか……」
止まった時間を壊すようなあたしの無神経なふるまいに、先生は怒るでもなく、かといってあわてるでもなく、いつも通りの朝の挨拶を送ってきた。
包み込むような優しい空気が、じかにあたしの心に触れてくる。
「あそこはね……」
始めて見るような優しい眼差しを、窓の外の目に見えない何かに向けながら、先生は懐かしむように、それを言葉にした。
「わたしのお父さんがいつも日向ぼっこしていたところよ」
思いもかけない言葉が耳朶を震わし、あたしは吃驚してつい硬直してしまった。
研究と実験以外に何も興味がないのかと思ってた人から、そんな感傷的な思い出話を聞くことになるなんて、想像もしていなかったから……
「どうしたの?」
固まるあたしを、先生は不思議そうな目で見てくる。
「いえっ、なんでも。でも、なつかしいっすねー。先代がいなくなってから、もうどれくらい経ったんでしたっけ?」
「そうね。よく覚えてないわ」
「ですよねー」
この様子だと、今日は実験は無しなのかな? と思う。
少なくともいつものような情熱はいまの先生からは感じなかった。
――この飛行魔法の研究は、先代が始めたものだ。
あたしが覚えているのは、被験体としてアイテール先生が、高台から魔法を身にまとって飛び降りるところ。
ずっと昔から、あの実験は変わらず先生がやっていた。
変わったことといえば、最初は先代がやっていた観測係を、いつの頃からかあたしが引き受けることになっていたことくらい。
まあ、あたしも家事以外にすることはなかったので、それはそれでよかったんだけど。
あたしが観測係をやるようになってから、することがなくなった先代は、さっき先生が見ていた窓外の草原で、四六時中、日向ぼっこするようになった。
大きな身体を草の上に横たえて、アイテール先生の実験を毎日のように眺めているのが、あたしの中にある先代ガイアス師の記憶。
ちなみに先代のお墓は残っていない。
この前行った村の人たちが遺体を持っていってしまったせいだ。
何でも、生前にそういう約束を交わしていたらしい。
あたしは〝先代〞って呼んでるけど、アイテール先生は〝お父さん〞って呼んでたし、村の人は〝ガイアス師〞って呼んでた。
呼び方は違っても、それらが意味する対象は同じだったし、間違うこともなかったので、まぁ、あんまり気にしてなかった。
村の人も先代が生きてた頃はよくここに来ていたけれど、亡くなってからは、ぱったりと足が遠のいてしまった。
いまはこちらから出向かなければ決して会うことはない。
……いまは、あたしたちの世界には先生とあたし、二人しかいない。
* * *
――翌日も、先生はあたしを起こしに来なかった。
様子を見に行くと、やはり窓外の目に見えない何かをずっと見つめているようだった。
「あのぉ……せんせー?」
「あら、コスモス。おはよう」
さわやかなようにもアンニュイなようにも感じられる、なんとも表現し難いニュアンスを朝の挨拶にのせてくる先生に、あたしはどう返していいかわからず、つい言葉に詰まってしまった。
昨日、今日となんか雰囲気あるんだよねぇ。
まあ、いつまでも黙ってるわけにもいかないから、今日の予定でも聞いてみるかなと思って、あたしは口を開こうとした。
「あの……」
「ねえコスモス……」
ちょうどタイミングよく先生の呼びかけと重なって、張り詰めた空気が少しだけ緩和されたような気がした。
あたしは、少しうれしくなって、声のトーンが上がってしまったかもしれない。
「なんですかー?」
「研究、まだ続けたい?」
「えっ?」
急転直下。
青天の霹靂。
それほどの意外な提案。
あんなに実験大好きだった人が?
まあ、聞かれたからには正直に答えますけどね。
「うーん。あたしはもういいかなって。だって、あたしには無理だってわかっちゃったしー」
そうなのだ。
これこそ先代があたしに観測係を引き継いで、日向ぼっこばかりするようになった理由。
要するに、諦めちゃったのだ。
「けっきょく、せんせーみたいな天才じゃなきゃどうやっても成功しないわけだしー? だったら別のことがやりたいなーって」
先生はあたしの答えに怒ることはしなかった。
「……そっか」
むしろ、すっきりとした表情で、笑顔さえ浮かべて聞いていた。
もしかしたら、どこかで気付いていたのかもしれない。
どれほど研究を進めても、先生が目指していた目標には、決して手が届くことはないという現実に。
それでも諦めずに個人で飛ぶことにこだわった理由は、たぶん、それが先代が願ったことだったから。
――でも、もういいですよねぇ?
「えっとですねぇ。だから個人じゃなくて、多人数でやったらどうかって思うんですよねぇ」
あたしはずっと思っていたことを、初めてアイテール先生の前で口にした。
* * *
あたしが考えていたのは、要するに船だ。
海を泳いで渡ろうとする人がいないのと同じで、そんなことができちゃう人ってまずいない。
でも海を渡ってきた人はたくさんいるって話。
その人たちは泳いだんじゃなくて、船に乗ってやってきた。
つまり、同じことが空でもできないかなーってずっと考えてた。
それは、あたしが先代から観測係を引き継いだときからだ。
先代のガイアス師が研究を始めたときは、まだ個人で空を飛ぶことに期待があったはずだ。
そのときは、可能性が失われていなかったから。
でも、先生が空を飛べるようになったとき、ついに不可能を悟り、諦めてしまったのだと思う。
空を飛ぶために必要な条件てやつを理解しちゃったせいで。
なぜなら、先代のガイアス師が克服できる条件下では、アイテール先生ですらけっきょく一度も飛ぶことができなかったんだし、まあ、思い入れが強いからこそ無理だって悟っちゃうと、そこでやる気がなくなっちゃうのも仕方ないよねぇ?
つまり、あたしは研究に参加した最初から、疑問を感じてはいたわけだ。
〝飛行魔法の一般化〞なんてむりなんじゃないかなーって。
それともうひとつ。
人の心理としては、そんな大変な思いをして飛行魔法を使うぐらいなら、普通に歩きでいいかなって方向に流れちゃうよね?
なら、船っぽいもので代用するのはアリなんじゃないかなって思うんだ。
* * *
「てなことを考えてたわけなんですけどねぇ? どうっすかねー」
特定の限られた才能を持った人じゃなく、広く一般に大空を開放するって言うんなら、これでもかまわないと思うんだけど。
手段はともあれ、結果としては変わらないわけだし?
「あっしにそんなことを言われてもって感じっスねぇ」
あたしの前で困ったような愛想笑いを浮かべているのは、樹海のなかにある村に住んでいる、シアリーズって女の子。
研究の内容が大きく変わってしまったから、その道の専門家にお願いしてきてもらったのだ。
「その話、アイテール先生も了承済みなんですかい?」
「もちろんだよー。いま、新しい研究に転用できそうなデータをかき集めているとこ。すっごく楽しそうだったよー」
「うーん、まあ亡くなったガイアス師にも、みなさんの面倒を見るようにいわれてるわけですし? アイテール先生が納得済みなんだったら、あっしはかまわないんスけどねぇ」
「うん! ありがとー。よろしくねー」
これから研究をどうするかって話で、あたしは自分の考えてたことをアイテール先生にぜんぶさらけ出した。
うまく説明できたとは思わないし、もしかしたら愛想つかされるんじゃないかとも心配してた。
けっきょく、あたしの取り越し苦労だったわけだけど。
あたしが胸のうちに仕舞っていた考えを最後まで黙って聞いてくれた先生は、あたしの突拍子のないような提案を、当たり前のようにわらって受け入れてくれた。
ただ、研究を大きく方向転換するからといって、今までの実験や研究が無駄になったわけじゃなくて。
むしろ今までやってきたほとんどの実験が、新しい研究の役に立ちそうだった。
擬似翼の制御、媒体となる素材、力のかけ方、大きさと強度の相関関係なんて、いままでどれほどの実験を繰り返して、どれだけのデータを集めてきたことか。
先生は研究が新しい段階に進んだんだーって、じつに楽しそうに言い張ってる。
間違いなく、前以上の情熱を取り戻してる。
逆に言えば、やっぱり先生も、今までの研究に行き詰まりを感じていたのかもしれない。
「でねっ。新しい研究を始めるのに、新しい素材が欲しいんだってー」
発想として、帆船の帆の代わりに翼をつけるわけだから、強度やら空力特性やらは、また一から専用のデータを取り直さないといけないのだけど、当然、あたしたちには船を作る技術なんてないわけだから、できる人に来てもらうしかない。
そのために呼んだのがこのシアリーズなのだ。
「要するに、帆船ならぬ翼船を作りたいってことなんスよねぇ? まぁ面白そうではありますけど……」
その前向きな言い方から、彼女も興味は持ってくれているようだとあたしは受け取った。
「やってくれるのー?」
「いや、実際にやってみないことには、なんとも言えないっスね。とりあえず最初ぐらいは付き合いますけど、もしあっしが見切りをつけちゃっても、文句を言うのはナシにしてくださいよ?」
「わかってるって! ありがとねー」
こうして、あたしとアイテール先生の二人しかいなかった世界に、三人目の住人がやってきた。
* * *
その日以来、あたしの仕事は、家事全般とアイテール先生の助手以外に、もうひとつ増えることになった。
「おやかたー。これ、どこに運んだらいいのー?」
「それは第二工房の方っスね。こっちっス」
シアリーズが工房をかまえるにあたって、人手が足りないからと、なぜかあたしが弟子入させられることになった。
師匠って呼ぼうとしたら『親方のほうがイイ』って言うんで、そう呼ぶことになった。
彼女の村では、弟子を取るようになったらそう呼ばれる慣わしらしい。
でもシアリーズって、あたしより年下の女の子なのに、親方ってのはこれいかに?
まあ、アイテール先生の研究はついこのあいだ軌道修正したばかりだし、あたしたちが目指す目的地までは、はるかに遠く、道のりは長い。
これから、長い付き合いになっていくだろう。
これは、その第一歩だった。
――願わくば、この三人が欠けることなく目的を達成できる日が訪れんことを。
――そしていつか人を乗せた船が大空を自由に飛びまわるようになる時代の到来を、あたしは心から願ってる――
読んで下さりありがとうございます。
次話で完結になります。
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