アイテール
その日、わたしは丘の上で空を眺めていた。
時折、わたしの頭上を二種類の黒い影が横切っていく。
――鳥が空を飛んでいる。
――竜も空を飛んでいる。
しかしこの両者の間には、越えられない大きな隔たりがあるのをあなたは知っているだろうか。
鳥が己の羽ばたきのみで空を飛んでいるのに対し、竜が翼をはためかせるためには魔法の力が必要となる。
わたしは、この両者の間を埋める技術を研究している。
わたしの名前はアイテール。
魔法士だ。
空を飛んだという魔法士は、数こそ少ないがいないわけではない。
現在知られているだけでも、少なくとも片手の指だけでは追えないだけの人数が知られている。
彼らが使う技術は、大別すると魔法による擬似翼を活用した揚力と空気抵抗と気圧差による浮力、そして跳躍。
跳躍以外は、大気圧を利用している点で共通している。
飛行魔法の実用化には、ここに技術革新の鍵が埋もれているとわたしは睨んでいる。
しかし世間では、それらの技術は制御が難しく、また大量の魔力を使用する必要があるため、一般化は不可能だと考えられているらしい。
それらが抱える技術的難問を解消して、特定の限られた人ではなく、すべての人に大空を開放するのがわたしの目標だ。
その目標のために、わたしは今日も実験に勤しむ。
* * *
「またやるんですかぁ?」
助手のコスモスが、機材の準備をしながら呆れ声で不平を漏らす。
「当たり前でしょ。研究なんだから。仮説を立てて、条件を一部だけ変更してほかはすべて揃えてまた実験して、その変えた部分の差異を検証して。また別の部分を変更して実験して検証して。その繰り返し。そうやって、どこでどういう現象が起こっているのかのメカニズムを解明していくの。いまは基礎の実験データを積み重ねている段階なんだから、横着しちゃだめでしょ」
「えー、めんどくさいですー」
「そんなこと言わない。じゃあ、たまにはあなたがやってみる? 失敗して墜落しても責任持てないけれど」
擬似翼の一塊を指差して、わたしはコスモスに提案してみた。
外から被験体を観察する側に回るのも、それはそれで興味をそそられる体験となりそうだ。
「――それはいやですぅ」
だというのに、彼女はわたしの妄想を遮るように、すぐに拒絶の姿勢を示した。
まあ、それもそうか。
「じゃあ、いつも通りわたしがやるから、あなたはちゃんとデータをとって!」
「わかりましたぁ……」
コスモスは渋々といった感じで測定器の前に座り直し、装置をセットする。
このやり取りも、もう何度も繰り返している、いわば儀式のようなものだ。
「じゃあ、始めるわね」
わたしは擬似翼を展開し、実験場の高台から飛び降りた。
* * *
「魔法で空を飛んだって言う人には二種類いるわ。実際に飛んだ人と、飛んだつもりになってるだけの人」
実験のデータを整理しながら、わたしはコスモスに話しかける。
彼女との会話は、自分の考えを明確化するために非常に役立っている。
他人に説明するということは、自分の中の漠然とした考えをきちんと整理した上で、誰にでも理解しやすいように論点をはっきりさせ、自説に説得力を持たせる必要があるからだ。
また、返ってくる反応に即して、視点を変えてみたりすることによって、新たな発見がもたらされることも多い。
とくに彼女は面白い視点の持ち主だった。
わたしはいつも、彼女との会話を楽しんでいた。
「飛んだつもりになってる人の多くは、魔法の力で跳躍して落下傘で降りてくるだけの人。この手の人たちは相手にしなくて良いわ」
「あー、わかりますー。落ちてるだけーって感じで、最後はなんか墜落しちゃうんですよねー」
「墜落は余計ね。変なことしなければ普通に降りられるし」
まあ、気球と同じリスクがあるのはその通り。
「あれは、空気抵抗を利用して宙に浮いてるっていうのが正しい表現ね。わたしたちが目指してるのとは方向性がまったく違うわ」
わたしが考えているのは、揚力を魔法で生み出す方法である。
揚力は気圧の差異で発生する。
紙飛行機を想像してもらえばいい。
翼に風が当たることによって、翼の上下に気圧に差異が生じ、揚力が発生する。
ちなみに、専門的には浮力を静的浮力、揚力を動的浮力という。
「人が能動的に飛ぼうと思ったら、揚力を利用するしか方法はないとわたしは考えているわ。その考えの根底にあるのが竜の存在。本来、あの大きさの生き物が空を飛ぶなんてありえない」
「あー、二次元と三次元の差ってやつですねー」
筋力は筋繊維の断面積、揚力はそのまま翼の面積が強さとなるため、理屈上、揚力は大きさの二乗ずつ強くなっていく。
ところが体重は体積に比例して増えていくため、大きさの三乗ずつ増加することになる。
そのため、骨格の強度、翼の面積とそれを動かす筋力が生み出す揚力の最大値を体重が上回ってしまうサイズが、生物が空を飛べる大きさの限界となる。
簡単に言うと、空を飛べる生物の大きさには限界があるのだ。
仮に、人間にこうもりのような羽があったとしても、その羽で人間の大きさを支えることなど、しょせんできはしないのだ。
――でも、そんな制約を越えたところにいる存在こそ竜。
伝説にも謳われる、あらゆる生物の頂点に君臨するにふさわしい、まさに自然の常識を超えた超常の存在。
「本当は竜の羽も調べてみたいけど、さすがにそんなもの簡単に手に入らないしね。まあ人間は竜よりは小さいし? わたしが代わりを務めるのは理に適ってるんじゃないかと思うのよね」
そのかわり、墜落のリスクには目を瞑らなくてはならないのだけれど。
まあ、一応安全には気を使っているつもりだ。
「えー、そうですかー?」
だというのに、なぜかコスモスには異論があるらしい。
「だってこの前、擬似翼の媒体に使った素材が破れて墜落したばっかりじゃないですかー」
「実験なんだから、失敗はつき物よ。それに安全装置はちゃんと働いているでしょ?」
下にはクッションを置いてるし、高気圧を発生させ、落下の勢いを殺す装置も実験時には身につけている。
もっとも、以前にその装置を誤作動させて死に掛けたのは、彼女には内緒の話だ。
「そもそも、せんせーは空を飛べるんですよねぇ? それじゃ駄目なんですかぁ?」
「駄目の決まってるでしょ。そもそもの研究テーマが飛行魔法の一般化なんだから。誰でも使えるように理論の体系化を確立しないと意味ないわ」
「そんなのめんどくさいですぅ」
「あなた、そればっかりね」
まあそれでも、彼女はなんだかんだ言ってわたしの研究に付き合ってくれている。
愚痴くらい大目に見てあげないと逃げられでもしたらわたしが困る。
でも、今日の分はもう十分聞いた。
「それじゃ、今日はこのくらいにしときましょうか。明日からは別の媒体を使った実験に切り替えるから、遅れないようにお願いね」
「えー、ようやく一区切りついたところだったのにぃ……」
「試したいことが山のようにあるんだからしょうがないでしょ。いいかげん観念なさい」
「はーぃ……」
「返事がしりすぼみなのが気になるところだけど、まあ明日もよろしくね、コスモス」
* * *
相変わらず実験に明け暮れていたある日、わたしはコスモスをともなって近くの村に買出しに来ていた。
実験場に溜め込んでいた食料と日用品が尽きたのだ。
わたしは着替えなど、どうでもいいのだが、彼女は気にする方らしい。
まあ、それで観測係の彼女が実験中に集中力を欠くような状態になったらこちらが困るし、それぐらいは妥協の範囲だったので、ふたりそろって出掛けることにしたというわけだ。
いつも過ごしている実験場から、もともと二人しかいない人影が消え、振り返れば、どことなく寂しげに手招きしているような幻覚が彷徨っている。
「あれって、せんせーの魔力の残り滓ですよねぇ? じつは魔力ってけっこう寂しがり屋だったんですかー?」
「言われてみればそうかも。わたしもおしゃべりしてたほうが仕事は捗るし。もしかしたら黙っていられない性格なのかもしれないわね。わたしも、わたしの魔力も」
「まぢですかぁ……」
「そういうことなら、納得できるわね。わたしの研究が寂しがってるといけないから、手早く用事を済ませてすぐ戻りましょう」
「いや、せんせー? ちょっとなに言ってんのかわかんないっすよー」
コスモス困惑の表情を浮かべているが、わたしは別に難しいことは言っていない。
要は、早く帰って実験を再開したいと言ってるだけだ。
「せんせーはホント変わんないですねー」
そんな他愛無い雑談の中で、コスモスがこんなことを言い出した。
「そういや、アイテールせんせー。せんせーは空飛べるんでしたよねぇ?」
「そうね。でもそれがなに?」
「いやー、空飛べるんなら買い物もひとっ飛びだったんじゃないかなぁ……なんて?」
「……いやよ。めんどくさい」
自分ひとりなら絶対に他所の村になんて来なかった自信がある。
「せんせー? あたしとキャラ入れ替わってる?」
「なにが言いたいの?」
ちょっと話の趣旨がつかめないせいで、内心で彼女に対する苛立ちが湧き上がりつつあった。
彼女が話を要約しすぎ、説明を省略しすぎているせいだと思う。
だからわたしはコスモスに説明の補足をお願いした。
「うーん、だぁからぁ。空を飛べるのになんであたしたち歩いてきたのかなぁって」
「歩いたほうが楽し……楽だからに決まってるでしょ? コスモス、あなた変よ? どうしちゃったの?」
もしかしてコスモスはわたしと買い物に行くのがいやだったのだろうか?
そうだとしたら……いや、それは考えないでおこう。
とにかく、おしゃべりしながらだったら、歩くのが苦痛じゃないのは確かだ。
「せんせーは遠くまで飛んでいくより、歩いた方が楽だっていうわけですよねー?」
「……そうよ」
本当は違うけど。
「――なら竜だったら、どうなんでしょうねぇ?」
「えっ? どういうこと?」
なんか急に話が飛んだ。
驚いて、思わず彼女を見返してしまった。
「ですからぁ。前に話したことがあるじゃないですかぁ、二次元と三次元の差ってやつー? 竜のサイズまでいっちゃうと、もう普通に歩けないんじゃないのかなーって。さっき話してて、不意に気になっちゃったんですよねー」
「ああ、そっち?」
ふたりで出かけることが不満だって話ではなさそうなのは、わたしに安堵をもたらした。
正直言って、話し相手がいなくなるのは困る。
それはそれとして、彼女が提示したのはわたしがいままで持たなかった視点だった。
わたしは内心の動揺を悟らせないように、なるべく平静を装って話しに乗った。
「そうね。たしかにあのくらいの大きさまで行くと、足の筋肉が追いつかなくなって……」
ようやくわたしにも、コスモスがなにを言いたかったのか、理解が追いついてきた。
竜が空を飛んで移動するのは、もしかして歩くのが大変だから?
というより、竜ってほんとに歩ける? あのサイズで?
「ねえ、コスモス……」
「なんですかぁ? アイテールせんせー?」
まあ、単なる仮説ではあるんだけど、一度そういう目で見てしまうと、そうとしか見えなくなるってことってあるよねぇ。
――竜――
〝巨大な体躯を持ち、あらゆる生物の頂点に君臨するにふさわしい自然の常識を超えた存在〞
だったはずが、まぶたの奥に、太りすぎて歩けなくなった横着者の姿と重なってしまって、なぜかいたたまれない気持ちにさせられる……なんて感情がわたしの中で芽生えつつあった。
「……わたし、急に竜が残念な生き物に見えてきたわ……」
空を見上げてみると――今日は飛んでいないようだった。
* * *
歴史に名を残す研究も、成果が出るまでは人の目に触れることはない。
そして日の目を見るまでは、数多の原石とともに陰のなかに埋もれたまま、濃厚で上質なソースを作るように、探求者たちの知性と情熱と時間をかけてじっくりと煮込まれ、かき回され、熟成され続ける。
後年、世界中に多大な利益をもたらす偉大な研究も、その例外とはならなかった。
魔法を活用した航空工学の第一人者アイテールとその助手コスモスの研究が実を結び、その技術体系が飛空挺開発の礎として確立されるようになるまでには、さらに多くの歳月を必要とした。
その間、買出し途中のちょっとした雑談から、彼女らの研究が頓挫しかけたことを知る者は、世界のどこにも存在していなかった。
――当の本人たちを除いては――
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