緑に萌ゆる師弟の旅路
あまりにもありふれ、世界に満ち溢れている物の名前など知ろうとは思わない。
それは、午後の商店街に溢れる人々の名前を知ろうと思わないのと同じ事だ。
雑多な群れの中に埋もれた可憐な一輪の花を見つけたならば別の話だが。
そんなありふれた名も知らぬ雑草が視界いっぱいに広がっている。
伸びきり頭を垂れた彼らの間を、初秋の暖かい風が通り抜け、サワサワと静かな喧噪を運んで来る。
長い年月をかけて、荷馬車の重い車輪によって踏み固められた2本の轍は、遠く丘の向こうまで続き、幾多の街を巡り世界へと広がっていく。
この轍に沿って2日も進めば次の街に辿り着くだろうが、両の腕を垂らし不機嫌そうにダラダラと先頭を歩く妙齢の女性が、旅程を大きく遅らせているのだ。
この調子では、いつまで経っても目的地に辿り着かないだろう。
といっても、目的地など知らされていないのだが。
彼女に、この旅の目的地を聞いたところで教えてはくれまい。
もう暦の上では秋だというのに、ジリジリと照りつける太陽に焦がされ、不機嫌になっている今なら尚更だ。
生ける屍のように歩む彼女の背中から、左手に開いている小冊子に目を落とす。
ページを一つめくると、小さな挿絵が目についた。
ヒョロリと長い幾重かの葉と、その先端にやせ細った犬の尾のような房が描かれている。
繊細な意匠ではないが、足元に広く群生している植物に酷似している。
――フォックステイルグラス、イネ科の一年草。
いたるところの野原、畑地、路傍などに最も普通に生える雑草である。
高さ40~70cmの茎に細い葉を互生し、夏から秋にかけて、茎頂に長さ4~10cmほどの緑色円柱状の花穂をつける。――
長い人生の中で、およそ役に立つとは思えない無駄な知識だが、何故か口元が緩む。
そんな僕の綻びを知ってか知らずか唐突に先頭を歩く彼女が口を開いた。
「なぁオマエ、本なんざ読みながら歩いてっとコケてケガすんぞ。」
彼女はぬるりと頭を後ろに向け、じっとりと暗い瞳でこちらを睨め付けてくる。
実年齢より遥かに若く、端正な顔立ちをしている彼女は、美人と呼ばれるに相応しいが、暗く湿った表情がそれをブチ壊しにしている。
表情で喜怒哀楽を全力表現する彼女は、笑っていれば神話の女神のように神秘的で美しいのだが、それ以外は最悪である。
一度、彼女に忠告した事があるが、彼女曰く、「この性格にこの顔がくっついて生まれてきたんだからしょうがないだろ、私が私である事を否定するのは実に愚かだ」との事だ。
そんな事を考えていると再び彼女は口を開いた。
「おーい!聞こえてんのかー?コノ陰険メガネ!」
そしてこの口の悪さと、暴力的でねじくれた性格、極めつけに異常な酒癖の悪さ。
彼女は無自覚かもしれないが、今までロクなラブロマンスに恵まれなかったのはその所為だろう。
「おいコラー!シカトすんなー、コノむっつり変態メガネ!」
かまってちゃんか!
さすがにこのまま放っておくと大声で何を言われるか分かったものではない。
聞かれたとしても、辺りに人影は見当たらないし、他人に何と思われようと知った事ではないのだが。
「聞こえています!メガネは認めますが、誰がむっつり変態ですか。貴方こそそんな面積の少ない服を着て露出狂の変態痴女じゃないですか。」
彼女と旅を始めて2月程経つが、彼女は初めから、肩や腰はもちろん臀部ギリギリまで太ももを露出させるデザインの薄地で黒地に金の豪奢な刺繍がされたワンピースとショートパンツ、肘そして膝まで届く程の長い光沢のあるレザーグローブとレザーブーツを履き、かなりの長さであろう黒髪を一つに束ね、後頭部にダンゴ状に纏め、首、腰、腕にはそれぞれ金の鎖に繋がれた宝飾品が鈍い輝きを放っている、そんな恰好をしていた。
「なっ!こんな感じのファッションが巷では流行ってんだよ!まぁ最先端のオシャレも知らないような非リア充メガネには解んねぇだろうけどな!」
この一言で彼女には致命的にファッションセンスがない事も確信した。
「いい歳してそんなチャラチャラした格好をして恥ずかしくはないのですか?一緒にいる僕が恥ずかしいんですが?」
そうふてぶてしく言い放った直後、凍り付くような気配と視線に射貫かれ、握りしめた右の拳と背筋がジワリと冷たい汗を分泌させた。
「誰が年増だって?」
およそ旅の同行者に向けられるものではない冷たい殺気に当てられ、今となっては焼け石に水、いや火に油の言い訳が咄嗟に口をついた。
「僕は年増とまでは言っていませんよ、年齢的には確かに少々アレですが…」
「…言いたい事はそれだけか?その減らず口ごと吹き飛ばしてくれる!!」
不味い、このままでは!そう思った時には既に遅かった。
「ちょ、ちょっと、こんな所で魔法は…」
彼女の瞳孔が赤黒く輝き、同時に大きく開かれた両手から幾何学的に連なった青白い複雑な文字の羅列が幾重にも円を描き空気に溶けて行く。
それと同時に、足元の空気が霞み、膝上程の真球状の空間に真空状態が形成される。
こうなってしまっては、もう回避するのは困難だ。
足元の真空地帯に向かって、放射状に青白い火の粉が高速で収束を始める。
「高圧爆縮火炎魔法!!」
彼女の低い唸り声のような叫びに合わせて、青白い爆炎が天を突き、内側から張り裂けそうな衝撃と共に、僕の体を吹き飛ばした。
「ぎゃふーん!!」
人生で初めて発した屈辱的な悲鳴と、大量の土煙を上げて、ドサリとうつ伏せに地面へ突き刺さる。
一瞬の静寂、そして妙に冷静な一言が追い打ちをかけた。
「ぎゃふんって言ったヤツ初めて見たw」
咄嗟に発動した耐火と耐衝撃の魔法によって、爆発自体のダメージは皆無に等しい。
だが、落下の衝撃と精神的なダメージは計り知れない。
「な…んで、僕はいつもこんな目に…」
「こんなキュートでエレガントでセクシーな世界最強の魔術師の師匠を敬わないオマエが悪いんだろーが!」
「弟子に本気で魔法ブッ放つ師匠なんぞ敬えるかーー!」
草原に木霊す叫びと共に僕は意識を失った。
左の肩口がジリジリと熱に焦がされる感覚で、ぼんやりと意識が戻ってきた。
ここはどこで、僕は一体どんな状況なんだろう…そんな事を考えていると、バチンと何かが折れるような、爆ぜるような音に目を見開き、寝転がったまま周囲を見渡す。
全てを覆いつくす漆黒の闇、そして煌々と眩い光を放つ炎と木材が燃える焦げた匂い、ゆらゆらと燃える炎の輝きは闇の中へと吸い込まれて行くようだ。
ふと、視界の隅にテラテラと朱色に鈍く光る黒い皮製のブーツを発見し、ゆっくりとブーツの持ち主に視線を這わせる。
そこには片膝を立てて地面に座り、無表情に炎を見つめる師の姿があった。
炎の輝きさえも吸い込むような瞳の奥には、深い哀しみと後悔のようなものが渦巻いている。
いつになく真剣な表情の彼女は、もぞもぞと起き上がろうとする僕に気が付くと、揺らめく炎を見つめたまま、静かに口を開いた。
「気が付いたか…。」
僕は炎に炙られ熱を持った左肩を摩りながら起き上がり、彼女の顔を覗き込むと彼女は再び口を開く。
「あの瞬間使った風の障壁は咄嗟の判断にしては上出来だ。だが、私が全力なら確実にバラバラになっていた。術が発動するまでの遅滞時間に術式を読み取り効果そのものを潰す、オマエなら可能な筈だ。」
彼女が使った爆炎魔法発動の際、両手から現れた幾何学的に連なった青白い複雑な文字の羅列、そこにはあの時僕を吹き飛ばした爆炎が発生するまでのプロセス、事象変化、指向性など、莫大な情報を処理するための式が展開されていた。
そして、彼女が術式の展開を始めてから僕が吹き飛ばされるまでの数秒のタイムラグ、それこそが彼女の言う遅滞時間なのだが、術式の組み方や事象効果の及ぼす範囲、威力によってその遅滞時間も大きく違ってくる。
「いやいや、不可能ですよ!あの数秒であれだけの爆炎魔法自体を相殺するなんて!」
「はぁ…まだまだ本質ってもんが解ってねぇな。」
彼女は不意に悪戯っぽい笑みをこちらに向けた。
「それよりも、焚火を起こしたまでは良いけど私は料理というもんがまるで解らねぇ。さっさと作ってくれ、腹が減って死にそうだー。」
理不尽な人だよ全く…そう呟いてしまいそうなのをグッと呑み込み、背負い袋に入った残り少ない食材を使って、僕は夕食の調理を始めた。
理不尽…世界は決して平等ではない。
人はそれぞれ特殊な能力を持って生れて来る。
その能力に気付かずに一生を終える者もいれば、能力を開花させ、一代で巨万の富を築く者、万民の上に君臨する者、英雄として後世に語り継がれる者、様々だ。
僕は術式を読み取り、記述する事ができる能力を持って生まれた。
つまり、術式が理解できれば、あらゆる魔法を使う事ができる。
歴史的に見て極めて稀な能力らしいが、その性能は本質的に持って生まれた人間の魔法と比べると極端に落ちる。
所詮は猿真似でしかないのだ。
更に潜在的な魔力も一般的に見ると平均値を下回る。
結果、僕が彼女の爆炎魔法を使ったところで十分の一以下の性能を発揮するのがやっとだろう。
万能であり、全てに劣る、まさに理不尽そのものという事だ。
干し肉と山菜を煮込んだだけの質素なスープを流し込んだ僕達は、周囲に察知魔法を張り巡らせ焚火を囲んで眠りについた。
もちろん察知魔法を施術するのは万能である僕の仕事だ。
狼などの危険な野獣や、追剥ぎなどの害意を持った人間に警戒しなくてはならない。
それに、奴らがいつどこから襲って来るかもしれないのだから…。
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