第25話 では、出立する
「では、出立する」
昨日の文官の号令に従い、空気を打つ擦過音が響き、馬が歩みを始める。それに従い、がくりと馬車が一瞬動揺し、緩やかに前進を始める。
「同行、感謝する」
使命を達成出来そうな事が喜ばしいのか、やや柔らかい表情の文官が声をかけてくる。
「いえ。公爵閣下のご命令です。住民である私が従うのは当たり前です」
それを受け、私もにこやかに返答した。
部屋に戻った私は、襟を緩めてぽふりとベッドに倒れ込む。久々の強い酒精と緊張の時間で体はガクガクになっている。上体を起こしティーテーブルに置かれた水差しからカップに水を注ぎ、カラカラに乾いた喉を潤す。
「さて、復習の上、明日に臨むとしますか」
再度転がった私は、スマホの動画を再生し、公爵の出方を想定する。
裏稼業の住人にとっても、最低限の距離と付き合い方を学べば許容されると認識しながら接している。そういう意味では清濁併せ呑む事が出来るのだろう。男爵に関しては、ちょっとばかりおいたが過ぎるようで、ましな商いをしている組織からは嫌われていたようだ。その辺りの愚痴は、酔いが回ってからこそ聞けた。
「知識か、技能か……。どちらにせよ、目的があるからこそ呼んだんでしょうし」
そう小さく呟いた私は、そっとサンダルの紐を緩め、毛布の中に潜り込む。深い秋の夜の空気はしんしんと熱を奪う。ぶるりと身震いし、そっと腕を瞼に添える。
「明日……分かる事です。考え過ぎても仕方ない。ざっと人柄が把握出来ただけでも良しとしましょう」
ふわと欠伸一つ。そのままゆるりと宵闇の彼方へ意識を飛ばした。
朝日が昇る前、昨夜の夜更かしが目元のしょぼしょぼを増幅させるのを気合で克服し、階段を下りる。
「早ぇな?」
「ふわぁぁ、おはようございます」
もう既に鍛冶場の用意をしているベルに朝の挨拶をして、朝食の準備を始める。夜明けには行政庁舎まで到着しておかないといけないので、一人飯となる。簡単にパンと炒め物、スープを並べ、もそもそと食べ進める。
「無事に、帰ってこいよ」
キッチンに入ってきたベルが汗を拭いながらカップを呷ると、照れくさそうに呟く。
「はい。頑張ります」
私はぱちりと両頬を打ち、そう告げて立ち上がる。
行政庁舎のロータリーには豪奢とはいかないが質実剛健で細やかな細工にも手が行き渡っている印象を受ける馬車が一台。それを囲むように鞍の乗った馬が数頭。昨日の文官を囲んで騎馬用の軍装を着用した兵が十人程で打ち合わせを行っていた。
「着いたか。では、早速出立といこう」
文官がこちらに気付くと、あれよあれよという間に馬車に乗せられ、出発と相成った。
「失礼、それが渡る前の服装か?」
暫く変わりゆく景色を窓から眺めていると、文官が声をかけてきた。
「はい。目上の方にお会いするので、なるべく正装をと考えました」
スーツに革靴。礼装というほどでもないが、チュニックにジーンズとサンダルというのは落ち着かない。
「ふむ……。これはまた緻密な縫製。立体裁断というのか……。王都の方では下着などでは導入されているが……。ふぅむ、これは立派な……」
文官がしげしげと眺める姿に疑問を覚える。最後が五十年前、それに百年前程度であれば盛んに渡り人は存在したはず。和装も洋装もそれなりに現物があったなら、技術として習得、昇華している気がしたのだが……。
「あぁ、過去の渡り人か? 現物を持ち込むという意味ではありがたかったが、実際にどう作るのかという知識の部分では中々。畑が違う知識層の方も多かったのでな」
私の疑問の視線に文官が答えてくれる。
五十年前のロシア、あぁ、ソ連の人に関しては本当に庶民という感じだったらしい。隣国に面会に行った際にも、政府から告げられていた主義の部分の説明は出来るが、教育を受けていた訳でも無い農民だったため、有益な知識は手に入らなかったらしい。
百年前といっても、二十世紀初頭。それなりに情報は入りそうなのだが、現れる場所も、持っている知識もばらばらで欠片の足りないジグソーみたいになっていたようだ。
偶々持ち込んだ原器などで一部の情報はこの世界にも共有されているが、それにしても進歩が遅いと思うのは私が地球の歴史を知っているからだろうか。
「余計な回り道が多いからな」
文官の答えは明快だった。人と人が相争い、切磋琢磨してきた地球。それに比べこの世界に関しては、魔法や魔物が存在する。それに対するリソースが大きいため、地球程お気楽に文明を前に進める事が出来なかったようだ。
「外部の知識なんて、そっとしておいた方が良いと考えますが……」
ざっと文官の説明を聞き、私は一言そう告げる。個人の影響力なんて嵩が知れている。だが、影響力を持った人間がその知識を得た場合は、そうとも限らない。それは一面では福音となろうが……。
「制御出来ない知識は呪いと変わりませんよ?」
私が言葉をつなぐと、文官は曖昧な笑みを浮かべる。あぁ、上司に言われて意に沿わない仕事をしている時の表情だな。そう見た私は、話題を変える。
何度かの休憩を経て、約八時間超の馬車の旅。
「あぁ、見えてきたね」
文官の言葉に、私も窓から首を出して前方を覗く。眼前に頭を出し始めた、高い城壁。
「領都、ジェクシェズだ」
秋らしいどこまでも澄んだ青空の下、灰褐色の塊は近付くにつれ、その威容を明らかにしていった。




