第15話 癖になる味だな
「にげぇが、癖になる味と香りだな。背筋が伸びるというか、背中をぶっ叩かれるというか」
食後に、豆から入れたコーヒーを楽しむ。豊潤で馥郁たる芳香が鼻の間際でちらちらと蝶のように揺蕩うのは無上の喜びだ。
テーブルに差し向かい。秋の鮮烈で爽やかな朝。美味しい食事と、温かい人間関係、そこに一杯の心の友があれば、何も言う事は無い。
ベルと何度か話し合ったが、家賃に関しては調味料や日用品の定期的な提供と言う事でまとまった。二人分の食材費よりも調味料や日用品の方がなお高い。家賃を換算しても元が取れるとはベルの弁だ。
元々従業員が住む部屋は他に確保しており、亡くなった奥さんの部屋は空き部屋だったので、業務には支障が無い。
私も生活する場には拘りは無い。独身の四十路の1Kでの生活から、広々とした家具付きの寝室に変わったのだ。文句を言うのも烏滸がましい。
下着や生活用品一式は発注したり、町で買い揃えた。
交易都市と言う事で、多種多様な人間が集まる街だ。服装の奇抜さはそれほど目を引く要因にはならない。それでも、郷に入っては郷に従う。目立って碌な事は無い。仕事着だけは拘るが。
ミリシア達とのちょっとした冒険が終わってから、少しの間を休養期間と決めて本格的に地に足を着けて根を生やそうと色々動いてみた。日用品や食料品を買い込んだりしたのもその一環だ。
ややローマ的な衣装も着慣れれば悪くない。足元が若干スース―するのはサンダルに慣れないからだろうか。
ちなみに大家であり、私の良き理解者であるベルは食に関して結構なチャレンジャーだ。色々発注してみた調味料達を果敢に攻めている。
休養期間の最後と決めた日の朝、カフェイン中毒者特有の禁断症状に苛まれた私は、依頼をこなしてきた自分へのちょっとしたご褒美としてコーヒーサーブ一式を発注した。
まさか、得体の知れない真黒の飲み物にまで手を出すと思っていなかった私は、ベルの新しい事象に対する真摯な姿勢に敬意を感じた。
ミルは熱を発しない程度にゆっくりと。リズム良く挽くさまはまるで演奏のようだなと。
竈で沸かしたお湯は僅かに冷まし、細く、優しく、挽いた豆が揺籃の地で思うさまに躍る事が出来るように注ぐ。
ふわと部屋に香りが充満する頃には、ベルも期待に満ちた表情に変わる。
「どうぞ」
「ほぉ。これがシアんとこの飲み物か」
「コーヒーという豆から抽出した飲み物です」
「濃い香りだな……。強い……でも嫌いじゃ無ぇな」
「その香りを飲むという人もいますね」
穏やかな朝、和やかな時間に迷い込んだ珍客をベルは興味のままに賞味する。
「じゃあ、仕事に入る。鍵だけよろしくな」
「お気をつけて」
ここ数日、恒例になったやり取りを経て、工房にベルが入る。私はクロスボウを片手に、裏手の河原に出る。
小鬼の殲滅は状況が揃っていた為スムーズに行えたが、実際の戦闘はもっと過酷なものだろう。平和な現代日本ですら、我が社のクライアント様は日々骨身を削っていたのだから。
身を守り、身を立てるにせよ、技術を持つのは悪くない。そう思いながら、訓練に勤しむ。勿論、クロスボウ以外の準備も怠らない。
「おはようございます、シアさん」
今日も行政庁舎の受け付けはぴしりと小気味が良い。ふわりと浮かべた微笑が心を和ませてくれる。
「採取系の依頼が乏しいようですが、何か理由があるのですか?」
レビの実の件はもとより、ミリシアの件から考えても数日程度。環境が変わるにはあまりに急だと思い、疑問を投げかけてみた。
「はい。秋も深まりそろそろ近隣の森にも冬支度の魔物が現れます。そうなると報酬が跳ねあがってしまうため、そもそも依頼を出さないというのが理由です」
襟首から顎にかけて、虹色の鱗がチャーミングなお姉さんがはきはきと答えてくれる。
「日常使いの薬の材料なども依頼に上がっていたようですが、困らないのですか?」
私の言葉に、お姉さんの顔が曇る。
「はい。内情の詳細はお伝え出来ませんが、困っておられる方は多いです」
ふむと。困窮はビジネスの種だ。何か手は無いかなと少し考えていると、おずおずとお姉さんが口を開いた。
「枯渇しがちで、比較的森の浅い場所でも採取出来るのはこちらです」
テーブルに丁寧に並べられた摘みたてと思しき薬草をスマホで撮っていく。
「製薬所で専任の採取要員を用意すれば良いのでは?」
私の不躾とも思える疑問に、豊かな白髪を後ろでまとめた清潔な印象の男性が頭を降る。
「相応の人材を常時確保するとなると、それなりの給与が必要となります。そうなれば薬価の上昇に直結します。また、需要により業務量が大きく変わるので、難しいのです」
「なるほど……」
私は納得の思いで頷く。
「常備薬、特に傷や腹痛、腹下しに効く薬は需要が高く逼迫しています。どうかよろしくお願い致します」
男性が差し出した手を強く握り返した。
場所は町の中にある製薬所。薬師と呼ばれる彼らは、野の木草石から漢方的なアプローチで日夜薬を作り出している。ここから、町に数点ある薬局に薬が卸されているのだ。
常であれば行政と連携し材料を収集する形だ。しかし晩秋から初春にかけて魔物の冬籠りの準備、雪、発情期といった理由から傭兵が忌避するために材料が枯渇するらしい。
ある程度まとまった量を揃えれば、直接の買い取りもしてくれる。値段や対象の育成環境、注意すべき点などを聞き取り、スマホにメモとして残していく。
最終的に諸条件を慣れない羊皮紙と羽ペンに悪戦苦闘しながら書類にまとめて、取り交わした。
「直接取引ですか? 行政側は税を取れなくなりませんか?」
お姉さんの提案は、行政が介さない直接取引だった。特にレビの実のような個人ではなく、比較的規模の大きい団体との交渉だった。
「はい。本来の趣旨からは外れます。しかし、町の住民の方々の生活を考えると、杓子定規には難しいのです」
行政が依頼に挟まるのは、主に税の徴収が目的だ。だが、片手間に傭兵業を行う側に取ってデメリットばかりではない。依頼に伴う交渉の肩代わりや諸条件の調整、問題発生時の仲介役を任じてくれる。
直接取引はそういったメリットの部分を捨てて、自らが責を持ち、交渉に当たる事になる。
そういった事情を考慮しても、私を含む傭兵業を営む人間に頼みたい事。
「薬などは命に係わる話にも発展します。行政側としては苦渋の決断です」
一つのアプローチとして、行政が緊急性の高い職種、今回であれば製薬所に補助金を出して、依頼を出させれば良いとも考える。
だが、需要と依頼授受の条件がまちまちなため、どれだけ補助をするのが本当に正しいかは誰にも分からない。
補助金を出したのに、薬の枯渇で問題が起これば、今度は行政に不満の矛先が向くかもしれない。それが故に手をこまねいている。また、もしかしたら不正の温床になるかもしれない。中々この手の問題は奥深い。
であれば、直接当事者が事に当たってもらうと言う訳だ。
税の分が免除され、森に慣れられる。交渉に関しては得意と言う訳では無いが、常識的な範囲で行う事に支障はない。
何よりも、困っている人を助けられるなら、それは人間として幸いではなかろうか。
「分かりました。交渉に赴いてみます」
私の言葉に、お姉さんがほっとしたように胸を撫でおろした。
広葉樹が落とした葉がうず高く積もり、森は全体的に明るく、こんもりした印象を放っている。前回訪れた時よりも、秋らしさが増している。季節は移ろうものだなと考えながら、私は道なき道を進む。
先だっての獣道は微かな跡しか残っておらず、頻度を上げてラッカーの目印を打っていく。
手には杖型のスタンガンと透明なポリカーボネート製のライアットシールド。海外の警察などが犯人確保や暴徒鎮圧の際によく持っているあの盾だ。
クロスボウは森の中で射線を確保するのは至難だし、私の技量ではとてもではないが無理だ。それならばと、盾で動きを止めてスタンさせてから止めを刺す方針に変えた。
さくさくと新雪を踏むような小気味の良い木の葉が砕ける音に耳を傾けながら、徐々に森の奥に進む事にした。