日常編1
「いってきます」
声を張り上げるでもなく、抑えるでもなく、ただ単に普通に呟いたかのようなボリュームで、天津冬姫は自宅の門前に立つ家政婦、不動在処に向かって挨拶を投げかける。
「もー、冬姫さん! そんなローテンションじゃあ、学校で友達出来ませんよ? 今日から高校生なんですから、もっと晴れやかに言ったらどうです?」
「別に、今まで友達自体そんなにいた事ないし」
黒を基調としたエプロンドレスを身に着けた、家政婦と呼ぶには若々しい同居人に向かって、冬姫はぶっきらぼうに言う。
冬姫の両親は企業の経営者であり、多忙につき自宅にいることが極端に少ない。そんな事情から、彼女の面倒を見るために、幼少期から家政婦があてがわれていた。
在処は二人目の家政婦で、冬姫が小学四年生の時から、先代からの引継ぎで冬姫の家庭での世話をしていた。
初めの頃は、親しんだ先代の家政婦を思い出して子供じみた反抗をした事もあったが、いまではお互いそれなりに信頼関係が築けていると冬姫は思っている。
「だから心配なんですよ。普通なら冬姫さんの年頃だと、友達と遊びに行って夜遅く帰ってきたり、はたまた突然外泊をして両親をやきもきさせたりするのが当たり前です」
曲がりなりにも保護者同然の地位にいる人間がしていい発言なのかと思いつつ、いつもの小言が始まった、と聞き流しモードに入る冬姫。
「いいじゃないか。ボクはもう手が掛かる歳じゃないって事だよ」
文句も極力シンプルに、返す。
「手が掛からないからって何もしないでいると、後々逆に手が掛かったりするもんですよ。大人になって取り返しのつかない失敗をするのは、失敗を正してもらえなかった人か、まったく失敗をしなかった、経験が浅かった人なのが相場です。
冬姫さんは失敗を恐れているとは思いませんが、そもそも挑戦すらしていないんです。それは失敗しないよりももっと危険で、もったいないです」
在処は冬姫に対して、多くの人生訓のようなものを語る時が多い。
というのも、彼女は両親を早くに亡くし、親戚の助けを借りながら兄と二人で生きてきたらしい。だがその兄も、彼女が中学生の時に行方不明になり、そこからはずっと一人だったようだ。そして親戚中をタライ回しにされている所を先代の家政婦に拾われ、今ではその後を引き継いで彼女と同じ仕事をしている。
冬姫からは想像もつかない波乱万丈な半生を生きていた彼女にとって、今しか出来ないことに目を向けない自分は、時間を初めとした様々なものを浪費しているように見えるのだろう。そしてそれが事実であることは、何より冬姫自身が自覚している。だが、何をしていいかもわからないのにとにかく動いてみる、というのは冬姫にとってはまったく性に合っていなかった。
「まあでも、いつかも冬姫さんに言われましたけど、確かにわたくしは自分が出来なかったことを冬姫さんに圧しつけようとしているだけかもしれません」
そんな事を言って以来、在処のしつこいお説教はいくらか軽減されていた。なくなったわけではないのであるが……。
「だけどですね、恋の一つくらいしてみても、損はないと思うんですよ」
「へ?」
在処の口から飛び出した恋と言うワードに思わず変な声を出してしまう冬姫。彼女がこんな話をするのは、今日が初めてだった。
「友達を作るよりも何よりも、冬姫さんが一番大きく変われる要素があるとすればそれだと思うんですよ。冬姫さんが、というよりは、全ての若者が、とも言えますかね」
「まったく何言ってるんだか。入学式に遅れるから、もう行くよ」
「ごまかしました?」
「うるさい」
「冗談ですよ。いってらっしゃいませ、冬姫お嬢様」
(本当にこの人は……)
それ以上は言葉を交わさず、複雑な感情を胸にしまい込んだまま冬姫は通学路を行く。自分で言うのも何だが、成績は問題なかった為、家から徒歩で通えることを基準に選んだ高校だったが、どうやらなかなかのお嬢様学校だったようで、ただでさえ学校生活に不安を抱えていたにもかかわらず、在処の言葉でますます頭が痛くなるのを感じる。
(お父さんもお母さんも、ここを受けるって言って喜んでたのはそういう事だったんだなあ。はあ、もっとよく調べるんだった)
何度したかわからない後悔を胸中で呟きながら、とぼとぼと道を行く冬姫。
(恋よりも友達よりも、安心が欲しい……)
我ながら無気力の極まったかのような考えに、思わずため息を吐いてしまうのだった。
「えーと、ここがコンビニだから、で、あっちは本屋さん。うん、間違いない!」
入学式前に静波とともに作った学校までの簡易な地図を片手に、要海は順調に歩を進めていた。
「うんうん、初日の失敗がここに来て活きてきたよ。よし、このまま一気に学校へごーだよ!」
右手を掲げ、改めて気合を入れ直した所で、要海は路地の曲がり角に差し掛かった。
「うわ!」
「え? きゃ!」
要海とタイミングを同じくして路地の向こうからやってきた誰かとぶつかってしまい、その衝撃でバランスを崩し、尻もちをついてしまった。
「いたた……、あー、びっくりしたよぉ」
「君、だいじょうぶ?」
恐らくは要海とぶつかった相手と思しき声が、まだ地べたに座り込んでいる彼女に向かって掛けられる。
「ごめんね、ちょっとぼーっとしちゃってたみたいで」
「ううん、わたしもよそ見しちゃってた……か、ら」
手を差し伸べてくれた声の主の姿を視界に収めたとき、要海はそこから動けなくなった。
(すごい……、美人さんだ……)
まず目に付くのは腰の辺りまで伸びているストレートのロングヘアーだった。それは艶やかさと柔らかさが完全に同居しており、同じ女として純粋に羨ましさを感じさせられた。
顔たちも非常に整っており、可愛らしさもさることながら、美しいという形容の方がしっくりくる感じだった。制服に包まれた体躯も実にメリハリがあり、出る所はしっかり出ていて、引っ込む所はほっそりとしている。
(わがままボディって、こういうのを言うのかな……)
「あの、どこか痛いのかな?」
すっかりトリップしてしまい、茫然としているように見えたであろう要海を心配するように声をかけてくる少女。そこではっとなり、要海は慌てて立ち上がる。
「ごめんごめん、ちょっとぼーっとしちゃってて、大丈夫! ちょっとおしりが痛いけど、問題なしだよ!」
「そう、ならよかった」
心配げだった表情は和らぎ笑顔になる少女。
「それより、そっちは大丈夫?」
要海が気が付いた時にはすでに立っていたが、向こうも転んでいたかもしれないと思い、状況確認の意味で問い掛ける。
「うん、ボクの方は転んではいないから大丈夫だよ」
しかし、少女の返答から、そもそも転ぶ事態に至っていない事を知り、要海は胸を撫で下ろした。
「よかったー、ほんとごめんね」
「いいよ。お互い不注意だったって事で」
謝罪する要海に対して、自分の非も重ねて相殺である事を語る少女。一方的にどちらかを悪者にする事無く収めようとしている姿勢に要海は、少なからず感動を覚える。
「よし、じゃあそういう事で」
ならばこの話をこれ以上続けるのは良くないと結論を出し、要海は先程から気になっていた事象に話題を変える。
「ところで、ひょっとしてわたしたち、同じ学校かな?」
「そうみたいだね」
自分と違い、少女はカーディガンを羽織っているが、お互いに身に着けているネクタイやスカートは同じ物の様に思えた。
「ネクタイの色的に、一年生?」
学年で色を変えて識別の材料となっているネクタイは、ともにみずいろ。確かめるまでもなく同じ学年であるはずだ。
「うん」
少女も返答した。
「わー、すごい偶然! ねえ、一緒に学校行かない?」
この事実に、要海はうれしくなり、今の発言に至った。
「え?」
「ねえいいでしょ? 同じ一年生とそれも入学初日にこんなラブコメみたいな会い方するなんてこれはもう運命だよ!」
若干の戸惑いを浮かべる少女だったが、要海は特に気にする事無く話を先へ展開する。
「う、運命?」
「そうそう、赤い糸なんてもんじゃないつよーい何かがわたしたちにはあるんだよ。間違いないよ!」
根拠などないが、絶対の自信を感じる要海は矢継ぎ早に謎の理屈を連発する。
「そ、そうなのかな?」
「絶対そうだよ! わたしの『レコード・アクセス』がそう言ってる気がする!」
レコード・アクセスにそこまでの性能があるのだろうかという疑問は往々にしてあるが、ノリを損なうような理屈は端に寄せて、都合のいい感覚だけを頼りに論理を口にしていく。すべては言ったもの勝ちとばかりに。
「れこーど?」
「そうと決まったら早くいこ? 入学式初日から遅刻したらかっこ悪いよ?」
今朝がたに静波から言われたばかりの忠言を自分の言葉かの様に発言し、先陣を切る要海。その辺だけは、静波に見えを切った分絶対に成し遂げようという意思はあった。
「あ、そうだ。わたし、稀堂要海。あなたは?」
ここに来てようやく、互いに自己紹介をしていなかった事に思い至り、要海は早々に自分の名を名乗り、少女に名を尋ねる。
「ボクは天津冬姫」
「冬姫ちゃんだね。じゃあ『ゆきちゃん』ってどうかな?」
「え?」
「あだ名だよ。どうかな? それとも嫌だった?」
静波にした時と変わらぬ心持ですぐに愛称を付けた要海だったが、またもや相手の返事を聞く前に言葉にしてしまった事に若干の後悔を感じたが、冬姫からの返答がそれを即座に打ち消してくれた。
「ううん、そんな事ないよ。好きに呼んでくれて……構わないよ」
少し困ったような笑顔を浮かべながら、要海発案の愛称を受け入れてくれた冬姫。
「ありがと! じゃあ自己紹介も終わった所で、さっそく登校再開だね」
「なんていうか、元気だね」
よく言われる言葉を今回も変わらず受け、要海はこれまた決まった言葉を返す。
「ポジティブなのはわたしの信条なんだ」