日常編2
「こんにちは、静波お嬢さん」
二人が事務所に降りた時、すでにそこには来訪者の姿があった。キチンと着こなされた黒のスーツが似合う長身の女性で、静波のよく見知った顔でもあった。
「いつになったらその呼び方やめてくれるんですか?」
「そりゃあ先生のお嬢さんである以上、変わりませんよ」
ハーフリムの眼鏡を掛けた理知的な雰囲気からは想像しにくい、軽妙な喋りと砕けた笑顔は相変わらずで、変な安心感さえ感じてしまうのだった
「はあ、まあもう半分以上諦めてますけど」
何度このやり取りをしただろうかと内心思いながらも、これが彼女との定番のやり取りだと納得しているため、心底嫌な気持にはなっていない。
「そちらの方は?」
そんな彼女が、静波の背後からついて来た要海の素性を尋ねてきた。
「はい。今日からこちらでお世話になる稀堂要海と申します!」
静波の横に踏み出し、自ら進んで自己紹介をする要海。自分が紹介をする流れだと思っていた静波だったが、要海の行動の速さに反応できなかった。
「元気な姉ちゃんやね。ウチは花緑署の仁澄真琴いいます。どうかよろしゅう」
続いて真琴も自己紹介をし、身分証明として警察手帳を開いて見せた。
「わあ、刑事さんなんですね。手帳初めてみましたよ」
「へへ、ドラマで使われてるレプリカとちゃうで」
「確か大きさが違うんでしたっけ?」
「よう知っとるなあ。実はまだ違いがあってな」
あれよあれよと、二人の間には会話の花が咲いてしまった。
(この二人、そっくりですね……)
しかしこのままでは埒が明かないので、静波は二人の会話を切り崩しにかかった。
「それで真琴さん、本日のご用件は?」
「ああ、すんませんお嬢さん。えっと、今日先生は?」
要海との話を中断し、真琴がこの事務所の主の所在を尋ねた。彼女がここを訪れる理由はほとんどが父、静心に対してのものなので、静波も大して意外には思わずに答える。
「父は今日も泊まり込みの仕事です。帰りは明日になる予定ですね」
「そうですか。まあ忙しい方ですからね。ほな、コイツを先生に渡してもらえますか?」
真琴はそう言って、脇に抱えていた大判の封筒を静波に向けて差し出した。その封筒はなかなかの重量感があり、いつもながらたくさんの書類が入っているのだと思われる。
「それ、なんです?」
分厚い封筒を見て疑問を感じたのか、要海はそれの正体を尋ねる。
「今、ウチが担当してる事件の資料や。先生は花緑署の署長と旧知の仲でな、時々こうして意見を貰てるんや」
「時々どころか、割とよく来ますけどね真琴さん」
自身の都合のいい過小評価を訂正する静波。
「イジワル言わんといてくださいよお嬢さーん」
現に真琴が事件の依頼を持って来る事はよくあり、静波も度々居合わせるため、その頻度は決して少なくない事はわかっていた。
だが義理は堅いようで、依頼後の謝礼は欠かしておらず、季節ごとの贈り物までしてくれていたので、この家の家計を預かる静波にとってはありがたい存在である事は間違いなかった。
「しーちゃん、いじわるするのはわたしだけじゃなかったの?」
なぜか湿気を含んでいるような視線を突き立てて来る要海。
「なんで悔しがってるんですか、そんな所を」
「ひどい、わたしが特別だって言ったことは嘘だったの? お遊びだったの?」
「わかりました。これは父に渡しておきます」
「ムシしないでよぉ!」
リビングでの涙声とは打って変わり、明らかな演技とわかる声色で静波に抱き着く要海。ここに来て要海の扱いがわかってきた気がする静波だった。
「君、要海ちゃん言うたよな?」
「はい?」
「本当に今日ここに来たばっかりなん? お嬢さんと面識は?」
「お互いの存在は知ってましたけど、写真をもらっていたわけではないので、今日が完全な初対面ですよ」
要海に代わって静波が説明する。
「それがどうしたんですか?」
静波に抱き着いたまま要海は真琴に聞き返す。
「いやな、お嬢さんって結構人見知りやんか。なのにそこまで打ち解けてるもんやからびっくりしてな」
「真琴さんの中で静波はそういう扱いなんですか?」
正直な所、事実であるのは静波自身わかっているが、素直に認めるのは悔しかったので、反論の言葉を投射する。
「せやかて、お嬢さんウチが初めてここに来た時固まってたやないですか」
「あ、あの時は……、見知らぬ大人が来れば小学生ならそうなりますよ」
当然その時の事を持ち出してくるだろうと思っていたので、覚悟して平静を保っていられたが、やはり心地が良くないのは変わらなかった。
「そこからお嬢さんとある程度仲良くなるまでが長かったんよ」
「真琴さんがもう少し優しければ多少は早かったと思いますけどね」
「うん、まあ、少し意地悪が過ぎた時があったのは認めますよ。改めてすみませんでした」
「別にいいですよ。それに、静波だってあの時からは成長してますから」
今まで出会ってきた人たちと、少ないながらも様々な経験を重ねて今自分はここにいる。静波自身が常に意識していることでもあった。
「で、どんな魔法使うたん?」
静波の言葉を聞き終わる前に、冗談めかした口調で要海に質問する真琴。
(この人は……)
「魔法なんてないですよ。ちょっと意地悪だけど、すごくしっかりしてて、とっても優しい子だってすぐにわかったから、わたしも遠慮しないで踏み込めただけですよ」
要海の一切飾りのない素直な言葉と笑顔に、気恥ずかしくなる静波。そしてそれは真琴も同じだったのか、要海から目を逸らしていた。
「あかん、この子……、ホンマもんのええこや……」
要海の背後に後光でも見えているかのように、眩しそうなリアクションをする真琴。いちいちオーバーリアクションな所も要海と似ていると、若干冷めた頭で思う静波だった。
「ところで、これ見せてもらっていいですか?」
静波が手にしていた封筒を指さし、要海が真琴に向かって許可を求める。
「何言ってるんですか要海さん」
警察の捜査書類を素人が見ていいわけがない。本来ならこうしてここに持ち込まれる事自体グレーゾーンであるのだが……。
「悪いなあ要海ちゃん。さすがにそれはちょっと……」
絶えず溌剌としていた真琴だったが、要海の申し出には流石に困った表情を浮かべている。
「そうですね。すみませんでした」
しかし、思っていた以上にあっさりと要海は引き下がる素振りを見せた。
(気紛れで言っただけだったのかな……?)
要海の言動をそう分析した静波だったが、しかしこれでは終わる要海ではなかった。
「でも、若くして警部補になられた刑事さんの関わってる事件って気になるじゃないですか」
「キミ、なんでウチの階級を?」
そう、真琴は警察官である事は名乗ったが、階級までは口にしていない。
「手帳に書いてたじゃないですか」
「あ!」
その答えにはっとした表情をする真琴。どうやら手帳には階級も書いてあるらしく、要海はそれを見ただけのようだった。
(やっぱり観察力がすごいですね)
リビングでの一件を思い返す静波。
「でも残念です。『キレイ』で『カッコよく』て、その上『優秀』な『お姉さん』の力になれればと思ったんですけど」
自身の人差し指を口元にあて、上目遣いで真琴に見え透いたお世辞を投げかける要海。
「ま、まあそこまで言われたらしゃあないな。ほな、見てもいいで」
効果はてき面だったようで、若干照れくさそうに、それでいて嬉しそうに笑いながら真琴は書類閲覧を要海に許可した。
「ありがとうございまーす!」
当の責任者が許可を出した為、静波は封筒を持っていた手から力を抜く。すでに要海が片側を掴んでいた封筒はそのまま彼女の手に渡る。
「……真琴さんちょろ過ぎです」
「まあまあお嬢さん、お世辞を言われて嬉しくない大人ってのはなかなかいないもんやで?覚えといてな」
「面倒な社会です」
そうは言った静波であるが、真琴の言葉にも含みがある事は想像できた。恐らく、普段は彼女も気を遣う側なのだろう。
「要海さんも、あんまり……」
それらはさておき、早くも封筒の中身を事務所のテーブルの上に広げ、資料を広げている要海に向き直った。いくら許可を貰ったとはいえ、あまり雑な扱いをしない様に念を押すつもりだったのだが……。
(え……?)
ソファに腰かけ、資料に目を通す要海がそこにいるだけだった。そのはずだったのだが。
(雰囲気が……変わった?)
表情をコロコロ変える、元気で明るい少女はそこにはおらず、真剣という表現以外は相応しくない表情で資料を読んでいる別人のような要海がそこにいた。彼女は本当に要海なのか、そんな事はありえないと分かっているが、静波はそう思わずにはいられないのだった。