日常編1
荷物を置いて簡単な片付けを終わらせて階下のリビングに戻ってくると、静波が要海に向かって少しゆっくりしていてくれと申し出る。
「今からお茶の用意をするので」
手伝うと要海は言ったが、今着いたばかりで疲れているだろう事と、台所の勝手を知らないうちは大人しくしてくれという静波の言い分を聞いて何とか受け入れたらしく、不服そうながらもテーブルの前に座ってくれた。
それから静波はエプロンを付けた後に準備を始める。水の入ったやかんをクッキングヒーターにかけ、紅茶の茶葉の入った缶をテーブルに運ぶ。
「ティーバックじゃないんだね」
「はい。静波はリーフティーのほうが好みなので」
「やっぱりティーバッグよりおいしいのかな? なんかファイブゴールデンルールとか淹れ方があるとか聞いたんだけどよくわかんないんだよねえ」
「今はいいティーバッグもあるので、味のほうはそこまで差はないと思います。大切なのは、今要海さんが言った様に淹れ方と、あとは最終的に好みです」
「うん、やっぱり自分がおいしければ正義ってことだね」
一度喋り出すと矢継ぎ早に言葉を繰り出す要海に、静波は少々面食らう。性格的に静波は自分から積極的に話をするタイプではないが、人と話すことは決して嫌いというわけではないので、むしろ自分のテリトリーの話題を広げてくれる要海に対して、悪い印象は持たなかった。
「お湯が沸くまで少し待ってくださいね」
再びクッキングヒーターの上のやかんに近づく静波。蓋の天辺に付いている沸騰を報せるメーターのサインはまだ出ていない。それを確認してから食器棚よりティーカップとマドラー、そしてフォークをそれぞれ二セット取り出す。あとはお湯が沸くのを待つばかりになった所で、静波は要海にもう一度目を向けた。
当人は静波の視線に気づいた様子はなく、部屋のあちこちを見回しているようだった。その動きに合わせるように、ポニーテールに結わえられた彼女の髪もせわしなく揺れている。
(まるで本当にしっぽみたいです)
一連の動作にすっかり興味を惹かれ、静波はついでとばかりに、改めてこの新しい同居人を観察する事にした。
背は静波よりも頭一つほど大きく、そばに立っていた時は少し見上げて視線を合わせていた。服装は白いアンダーシャツに薄いピンクを基調としたカーディガンを羽織っており、下はベージュのデニムスカートと、春先に相応しい出で立ちに見えた。静波自身は機能性重視で服装を決めることが多く、そんな彼女からしてみれば要海はずいぶんなお洒落さんに思えた。
(けっこうスタイルもいいですよね)
要海は室内に入った事もあり、カーディガンの前をはだけていたのだが、それによりアンダーを持ち上げている胸のふくらみが強調される形となっていた。
「気になる?」
唐突に要海から声が掛かりはっとする静波。
「なんなら触ってもいいよ?」
気が付けば自分に視線を向けていた要海が、白い布で覆われた二つの膨らみを左右から寄せながら、からかうような笑みを浮かべる。
「そ、そんなこと考えてませんよ!」
悟られてしまう程に胸を凝視してしまっていた事に静波は気恥ずかしくなり、要海に対し急いで背を向ける。
「えー、それはそれで残念だなあ」
「なんでですか」
これら一連のやりとりで早くも要海の印象が変わっていくのを、静波はまだ残る気恥ずかしさの中で感じるのだった。
お湯が沸いた所で、静波はティーポットとカップにお湯を注ぐ。先にポットの方のお湯を捨ててから改めて茶葉を入れ、お湯を注ぐ。それからカップに注いだお湯も捨ててからお盆にまとめて乗せ、さらに冷蔵庫から取り出したケーキも一緒に要海の待つテーブルに運び、配膳する。
「わたしティーバッグじゃない紅茶って初めてかも」
「それじゃあこれが初体験ですね」
初めてのリーフティーにどんな感想を抱くのだろう。まるでいたずらを仕込んだようなわくわく感を抱きながら、静波は紅茶を注ぐ。
「うーん、いい香りー」
白いカップに琥珀色の液体が満たされると同時に広がる香りに、要海が感想を漏らす。
「お好みでお砂糖とジャムを入れてもおいしいんですけど、でも最初はそのまま飲んでみてください」
「うん、わかったよ。じゃあいただきまーす」
手を合わせた後に要海はカップを手にし、息を数度吹きかけた後に一口すするのだが。
「やっぱり、ストレートだとちょっと苦いかな……はは」
少しぎこちない笑みを浮かべながら、申し訳なさそうな表情を浮かべる要海。
「ならやっぱり何か入れた方がいいかもしれませんね。静波としてはマーマレードがお勧めです」
だが、そこまで紅茶を嗜んでいる訳でもないのに、簡単に味がわかる人間はそうそういるものではない。静波はそこまで気にする事なく、今の間に用意していたマーマレードの瓶を要海の前に差し出す。
「じゃあそれを試してみようかな。っと、でもその前にこのケーキをいただこうかな」
次なる関心の対象であるチョコケーキに目を向け、早速ケーキをフォークで一口頬張る要海。
「う」
要海はその瞬間、呻き声のようなものを漏らした。一瞬何事かと焦る静波だったが、次の言葉でそれも引っ込んでしまう。
「おいしぃぃいいいい! 何コレ! ちょーおしいー!」
「え? あ、はい」
十分に予想できたベタなリアクションだっただけに、真面目に構えてしまった自分が恥ずかしくなる静波。
「チョコの甘さも苦さもわたしの好みにジャストフィットだよ。これどこで買ったの?」
要海の質問に、一瞬どうしたものかと逡巡する静波だったが、誤魔化す理由も思いつかなかった為、答える事にした。
「は、恥ずかしながら、それは静波の手作りです」
「それ本当? すごーい! パティシエも真っ青だよこれは」
そこまでストレートに褒められてしまうと、全身がむず痒くなる心地だった。
「ケーキは自分で作るのも、買って食べるのも好きなんです。花緑市内のケーキ屋さんは全店、全メニュー制覇してますからね」
そんな空気を打ち砕きたい欲求で、以前友達に話した所、引かれてしまった武勇伝を披露する静波。しかし、要海のリアクションはまた期待とは違っていた。
「すごいね! やっぱり並々ならぬ自分磨きあってのことなんだね」
反ってきたのは、純粋に感心したという風なリアクションだった。上辺だけのお世辞かもしれないと思えばそうとも取れるが、少なくとも要海の今までの印象から、遠まわしな事は言わないだろうと静波には思えた。故に、静波本人の居住まいがますます悪化しただけだった。
(この人は……)
気恥ずかしさを紛らわす為、心内で悪態をつく静波。もはやこれくらいでしか精神の安定を図れそうにはなかった。
「それにしてもすごいよね。家事が万能な上にお菓子作りまで得意なんて。わたしはその辺さっぱりだから尊敬するよ」
「家事が万能……ですか?」
今のケーキ以外、特にそれらしい振る舞いをした記憶がなかったので、要海のその評定に首をかしげる静波。
「この事務所全体見ればわかるよ。応接室もわたしの部屋も、このリビングも綺麗に整理されてるもん。この感じはわたしが来るからとりあえず片付けたんじゃなく、普段から綺麗にしてるそれだもん」
「よく見てるんですね」
お茶の準備をしている時にこの部屋を見回していたとは思っていたが、どうやらここに着いた時から観察をしていたらしい。
(なんだか……、パパみたいです)
要海のそれは、何気なく過ごしているようでいて周囲への観察を怠らない、探偵の父を思わせた。
「ひとえにしーちゃんが本当にしっかりしてるって事だよね」
マーマレードを混ぜたリーフティーを啜りながら、そう締めくくった要海。静波に向ける表情は、優しい笑顔だった。
「別に静波はしっかりしてたわけではありません」
しかし、そこまで褒められても、事実と異なる点には反発したかった。
「小さい時に母が亡くなって、父も探偵なんていう仕事ですから家にいない事も多いです。だから、静波が家の事をやるしかなかったんです」
自分の意志などではなく、やむにやまれずにしただけで、どこにも褒められる謂れはない事は、静波自身よくわかっている。現に今までだって、学校から帰ってきてから家の事をしなければいけない現状に嫌気がさした事はいくらでもある。そんな自分に純粋な敬意を向けられてしまうのは、あまり心地よいものではなかった。
「ごめん、わたし、知ってたのに無神経なこと……」
ここに来て、要海が申し訳なさそうに視線を落とした。
「いいんですよ。頭を上げてください」
今まで絶えず笑顔だった要海の表情の変化に、一転して気持ちが焦ってくる静波。
「確かに、寂しくないと言ったら嘘になりますけど、母の記憶がほとんどないのも事実ですし」
なんとかして要海の発言を気にしていない事を伝えたかったが、言ってしまってから、事実とはいえ却って気を遣わせる事を言ってしまう。早く二の句を継ごうとした静波だったが、次に動いたのは要海の方だった。
「しーちゃん!」
静波が思考を巡らせてる間に要海は立ち上がり、自分のすぐ傍まで移動して来た。そしてそのまま、静波を抱きしめたのだ。
(な……!)
突然の事態に混乱する静波。頭から湯気が出る感覚、という言葉がしっくりくるくらい、彼女の中では様々な感情がない交ぜになっていた。
「わたしじゃ頼りないかもだけど、お母さんだと思ってくれていいから!」
抱きしめられている所為で表情は見えないが、若干の涙声で力強く静波に語り掛けてきた。
「……何言ってるんです?」
しかし静波にとっては、あまりの行動の唐突さに淡白なリアクションしか出てこなかった。
「うわっ! 辛辣ぅ!」
すごすごと静波への抱擁を解き、ばつの悪そうな顔で要海は距離を取った。
「だって、なんか励ませないかって思ったらこのアイディアしか出なかったんだもん」
顔を赤くしながら言い訳めいた言葉を発する要海。その様子はどこか滑稽で、それまでの終始明るい振る舞いを続けていた彼女とは別人のようであり、その愛らしいギャップが、静波の心の壁をまた一つ取り去ったのだった。
「だとしても意味不明です。でも、気持ちは伝わりました。ありがとうございます」
これも要海の人柄がなせる事なのか、静波も素直に感謝の気持ちを伝える。自分を気遣ってくれた事に嬉しさを感じたのもまた事実であったのだから。
「ううん、こっちこそ変な事いってごめんね。でも、さっきのは結構本気だよ?」
すぐに得意げな表情に戻り、さっきの発言を蒸し返す要海。彼女への感謝の気持ちが減退する心持になる静波だったが、ふと、ある事に思い至る。
「でも、静波は家事ができますよ?」
「ん?」
一見文脈的には何の関連性もない静波の言葉に、疑問の顔をする要海。
「で、要海さんは出来ないって言ってましたよね?」
「う、うん……」
「どちらかというと静波の方がお母さんじゃないですか?」
「ぐは!」
少しずつ溜めていた結論をここぞとばかりに放出する静波。効果は抜群だったようで、突きつけられた現実に要海は背を仰け反らせてオーバーなリアクションをする。
「だったらわたしもお手伝いするよ! お世話になるからにはそれくらいしないとね!」
負けじと反論を繰り出す要海だったが、しかし、静波の中には次の一手が準備済みだった。あまりの予想通りの反応にほくそ笑みながらこう締めくくる。
「まるでお母さんのお手伝いをする子供じゃないですか」
「八方ふさがりだー!」
頭を抱えてまたもや大仰な反応をする要海。彼女の豊かすぎる感情表現に、なにかよくない感情が芽生え始めているのを感じる静波だったが、これ以上はさすがによくないと自制し、まだ用意していた追撃の言葉を飲み込んだ。
「うぅ……、しーちゃんって、思ったよりいじわるなんだね」
涙目になりながら恨めしそうに訴えかけてくる要海。
「大丈夫です。要海さん以外の人にここまではしませんよ」
「ん? ってことはわたしは特別ってこと? しーちゃんにとって」
一転して笑顔になる要海。今の流れでどうして嬉しそうになるのか静波には理解が難しかった。
(もう、からかった事に罪悪感が出るじゃないですか……)
なかなか一筋縄ではいかなそうな新しい同居人に、静波は改めて複雑な心境になるのだった。
その時、部屋に独特な音楽が流れる。
「この音は?」
「事務所の呼び鈴が鳴ると流れる音楽です。掃除なんかでここにいると、依頼人が来ても気付けないんですよ。だからそういう仕掛けをしているんです」
「ということは依頼人さんが来たってことだよね。もしかして事件の依頼とか?」
「無い事もないですけど、まずは失せ物探しや浮気調査ですね」
「そんなもんなの?」
「そんなものです」
淡白なやり取りをしながら、静波と要海は二人揃ってリビングから出て、階下の事務所へ向かった。
「要海さんは来なくていいんですよ?」
「だって、一人でいてもつまんないし」
「せめて失礼のないようにしてくださいよ」
これ以上静止した所で要海が聞き入れないだろう事は十二分に理解していた静波は、そこからは何も言わずに歩を進める。