問題編1
一同の意識はテレビ画面の中の世界に向けられた。
現在放映されているドラマは有名なシリーズもので、最初に犯人が犯行を行う様を見せ、後に主人公の警察官、波越三十郎が登場し、犯人を逮捕するまでを描く倒叙ミステリーのスタイルを採っている。
物語の時期は冬。雪が降り積もった山奥の山荘が舞台だった。そこの管理人室にて二人の男が沈痛な面持ちで会話をしている。
重厚でシックな色合いの机に向かい、座り心地の良さそうなアームドチェアに座っているのが、今回の『犯人役』でもある中年男性、待田靖之だった。彼はこの山荘の管理人である。そして、机の向こうのソファに腰かけてワイングラスを傾けているもう一人の男が、待田の友人である門間楠生。彼と繰り広げている話の内容は、待田が門間の夫人、との浮気を咎められている所だった。
二人は学生時代からの親友で、待田は実業家として、門間は作家としてそれぞれ大成し、以前と変わらぬ親交を持っていた。しかし、三年前より待田は、門間と結婚前からの共通の知り合いでもあった彼の夫人、真理奈と不倫関係になっていたのだ。先日探偵に依頼して裏が取れてあり、弁護士とも相談済みだという事を門間の口から語られたのだった。
周到な根回しがされている事を知らされ、争った所で勝ち目のないのは目に見えていたので、待田は門間に示談を提唱していた。だが門間は、財産を築いている待田に相場以上の金を要求した所で痛手にはならないだろう事、自分も金銭に不自由しているわけではないので、双方にメリット、デメリット両方の面で爪痕が残らない。ならば、待田を社会的に抹殺する事しか門間の気を晴らせないという帰結になり、ここから帰ってから動きを開始すると宣言し、交渉は決裂した。
そしてここに来て待田は、門間がソファの前のテーブルに置かれたワイングラスから新たなワインを注ぐタイミングで椅子から立ち上がり、彼の背後に回る。そして皮の手袋を身に着け、用意していたロープを手に取り、ソファに施されたアンティーク調の装飾を滑車にするようにロープを通す。装飾から手前に垂れ下がった方のロープを掴み、もう片方の、ヨーヨーの紐を指にはめる時の様な、引っ張ると締まる輪の状態になる部分を広げて門間の首に引っ掛ける。後は素早く装飾に巻き付けた方を引っ張り、門間を手早く絞殺する。これは重量のあるソファに巻き付ける事で少ない力でも相手を絞殺できる方法で、ある目的の為に待田はこの方法を取っていた。
時刻は午前一時過ぎ。門間の死体を見下ろしながら、待田はある場所に電話を掛ける。門間と共にここを訪れ、別室で休んでいた彼の夫人であり、待田の不倫相手でもある真理奈の部屋だ。このような事態になるまでは門間との関係は良好そのものだった為、こうして夫婦そろって長期の滞在をするのはよくある事だった。
電話がつながり、もしもし、という真理奈の言葉を受話器から受け、待田は無言を貫く。一分近くそれを続けた後、相手は電話を切った。これは門間がいる時に密会をする時に二人で決めた合図だった。電話を掛ける側が無言で一分ほどいる事がそれで、電話を受けた側は大丈夫ならそのまま切り、ダメな場合は適当な一言で電話を置く事になっていた。つまり今回は前者という事になる。宿泊の際は基本夫婦で別室に泊まるからこその方法だった。もっとも、九時過ぎに食事を終えた後、待田と会う事を告げずに、門間は先に休むことを真理奈に宣言してここに来ているので、彼女が今からここに来ないという事態はまず有り得ないと言って良かった。だが、大きな懸案事項であった事は事実で、それが取り払われた待田が肩をなでおろすのは、致し方ない事だった。十時過ぎに降り始めた大雪は、今やすっかり上がっていた。
電話を受けた真理奈は部屋を出て、意気揚々と待田の待つ管理人室へと向かう。彼女は自分たちの不倫が亭主に発覚している事は夢にも思っておらず、そして待田の企みにも気付かずに、喜びの足取りでネズミ捕りの中に足を踏み入れようとしていた。
管理人室の周りは特殊な構造になっており、本館から小さな中庭を通ってしか行き来することが出来ない。待田は中庭へ至るドアを開けて、そこの様子を確認する。やや手狭な中庭には、十九時過ぎ頃から降り出していた雪が一面に積もっていた。正確には、この部屋に向かう際に待田自身と門間の足跡が付いているはずなのだが、それらは降りしきる雪で全くわからなくなっている。その光景を確認した待田は、満足げな笑みを浮かべるのだった。
そしてまたシーンが移り、真理奈が本館から管理人室へと至るドアを開ける。一瞬寒そうに肩をすくめるが、笑顔をそのままに陽気ともいえる足取りで純白の絨毯に足跡を残しながら、真理奈は鍵の掛かっていない管理人室のドアを開ける。しかし、管理人室に入った彼女は背後から待ち伏せていた待田に拘束され、麻酔薬を染み込ませたハンカチで口を塞がれ、間もなく意識を失ってしまう。自分を気絶させた下手人の顔を見る前に。
それから待田は真理奈の体からコートを脱がし、部屋の隅の小洒落たハンガーラックに掛ける。そして彼女の体を門間の死体が座っているソファの後方に運ぶ。『真理奈は実際は待田が行った方法で首を絞め、引っ張った所でそのままバランスを崩し、後方に倒れて気を失ってしまった。理由は不倫が発覚し、夫婦間でいざこざが発生した為の犯行』。それが待田の描いたシナリオだった。真理奈の体を不自然のない態勢に整えた後、門間を絞殺する際に使用し、ロープの跡が残る革の手袋を彼女の手にはめる。犯行時は薄手の手袋を二重にしていた為、内側に彼の指紋が残る事は無い。それら全ての工作を終え、待田は『あるもの』を手に取り、管理人室のドアを開けて外に出る。そして、犯行現場のドアは閉じられた。
翌朝、あれから私室に戻り、ベッドに入った待田は内線のコール音で目を覚ます。管理人室とは言うが名ばかりで、実際は彼の趣味の品を並べた書斎のようなもので、普段寝食をしたり、宿泊客の対応をする際の拠点はこの私室になっていた。ベッドに入ったまま受話器を取ると電話の相手が名を名乗った。その相手とは、この山荘に泊まりに来た客人で、警察官の男だった。久しぶりの連休を確保し、静かな所で羽を伸ばしたいという事でここを訪れたらしく、部下である女性警官を伴っての宿泊で、今日で一週間の滞在となる。ちなみにその女性警官とは特に深い関係ではないらしく、少し違和感がないではなかったが彼にとっては都合のいい相手だった。
幸いな事に、宿泊期間に待田は彼と共通の趣味であるチェスで意気投合し、食事時には必ず会話をする程になっており、彼の企みは成就する運びとなった。
ちなみにこの警察官とは、このシリーズの主人公の探偵役でもある波越三十郎その人である。
前日の夕食後、門間と管理人室に向かう前に待田は、雑談の中で今夜は降雪の予報がある事を彼に話し、早朝に二人で朝の雪景色を見に行こうと持ち掛けており、準備が整い次第連絡をくれる様に根回しをしていたのだ。電話を受けて待田は体を起こし、手早く寝間着を脱ぎ、ダウンジャケットと共にハンガーラックに掛けてあるセーターを身に着けて私室を出た。ドアを開けた部屋のすぐ外には、防寒具をまとって準備万端と言った風情の刑事、波越三十郎がいた。
「昨夜もお疲れ様です」
波越の言葉に『殺人にまつわる一連の行動』を連想してしまい、一瞬表情を強張らせてしまう待田だったが、すぐにオーナーである自分への純粋なねぎらいだと思い至りすぐさま「どうも」と一言礼を言う。昨晩の一通りの作業は滞りなく出来たと自覚してはいたが、やはり小さな要素でのちょっとした動揺は抑えられないらしかった。
「それではさっそく、出掛けましょしょうか。ふふふ、この寒さに耐えてみる価値のある景色を期待しますよ」
この一週間のうちに何度か見た波越の独特の笑いを見ながら、この愉快な客人を相手に最後の立ち振る舞いをする現実を思い描き、最後のステップへと心を切り替える。
「すみませんが波越さん、すこし管理人室に寄らせてもらってよろしいでしょうか?」
防寒具を羽織ってなお寒そうに忙しなく身体を動かす波越に待田は手を挙げて相談を持ち掛ける。
「なにかお忘れ物でも?」
「はい。部屋の中にカメラがなくてですね。せっかくの雪景色ですから持っていくつもりだったんですけどね。多分管理人室にあると思うんです」
「そうですか。確かに、私はスマホしか持っていませんからね。カメラの方がいいでしょう。なら私は少し待っていましょうか?」
特に不審がられる様子はなかったが、ここで待たれるのは都合が悪かったので、待田は用意していた話題を口にする。
「いいえ、もしよろしければ付いてきてもらえませんか?」
何も言わずにい付いてきてくれればそれまでだったが、こうなった時の手は講じていたのは正解だった。
「今日お帰りになるとの事でしたから、私の秘蔵のワインを一本差し上げます。それを選んでください」
波越と気が合った要素の一つに、互いがワイン好きという共通点もあった。収入の関係上現物を揃える事はなかった様だが、その知識は待田を唸らせるレベルだった。
「なんと、いやあ、申し訳ないですねえ。よろしいので?」
案の定、波越はこの話題に食いついてきた。
「あなたのワイン好きは十分伝わりましたからね。そういう方に差し上げるのは私としても本望です」
「でも、待田さんの秘蔵のワインなんて、相当なものじゃないですかねえ」
管理人室にはそれなりの大きさのワインセラーがあり、待田の言葉通り、簡単に手に入るものではないのがほとんどだ。
「そこはちゃんと、プレゼントしても差し支えのないものを選んでいますのでご心配なく」
努めて愛想のいい笑顔を浮かべながら、待田は軽口を話す事で、波越の中に残る遠慮の感情を追い出しにかかる。
「いやはは、チェスと同様、抜け目のない方だ」
してやられたという表情で屈託のない笑顔を浮かべる波越。この一週間、それなりの回数の対局を重ねているので、プレイスタイルから性格を感じ取ったのだろうか、妙に納得している風だった。同じ様に待田は、波越のプレイスタイルにかなりの嫌味な印象を持ったのだが、ここでは口にしない事にした。
「でも、なかなかの品であるのは間違いないですからね。どれを選んでも満足いただけるかと思いますよ」
これから果たそうとする事を思えば、ワイン一本など安すぎる支払だった。
「それは楽しみです」
会話を弾ませながら二人の男は、一路管理人室を目指すのだった。
本館のドアを開け、管理人室へと至る中庭の光景が広がる。そこは四方全てがロッジの壁に囲われており、左の壁には何もないが、右側には中庭を眺めるための大きめの窓がはめられている。
「もともとここには池があったんですけど、目的がないのでここを買い取った十年前に埋めてしまったんです。おかげでそこの窓が無用の長物になってしまいましてね」
今や雪が降り積もっていて判別がつかないが、かつてそこにあった本来の姿を語る待田。
「待田さん、あれを見てください」
中庭を眺めた波越が何かに気付く。その様に待田は内心ほくそえみながら答える。
「誰かの足跡……ですね」
「管理人室に鍵は掛かってないんですか?」
「そんなことはありません。きっと門間でしょう。彼はワインを飲みに入りに来ることがあるんですよ」
ここで波越に門間に対しての情報を与える。彼の存在は説明していたが、それ以外の未知の知識を順番に投下するつもりだった。
「門間さんというと、確か今泊まられているご友人でしたね。勝手にですか?」
「いいえ。門間の私物のワインもここにあるんですよ。彼の自宅にあるワインセラーよりも上等なものなのでね。持ち寄って一緒に飲んだりもしますが、一人で飲みたくなったら入っていいと鍵も渡してあるんです。あいつはそれ以上余計な事をしませんからね」
「そういう信頼関係、大変素晴らしいと思います」
「一応水周りもありますし、調理器具も常備しているので、つまみ等も作り放題です」
「さながら秘密基地ですね。話を聞いてると楽しそうだ」
一組の足跡に追随するように、二人は管理人室へと向かう。
「しかし妙です」
「何がです?」
「足跡が一組という事は、中に入った後出てきていない事になる」
的確に気が付いて欲しい点をしてくれる指摘する波越の反応に、待田は気分が高揚するのを感じた。
「なるほど。さすがの彼でも朝から飲みに来るとは思えませんね」
適当な返答で同調する待田。
「確か奥様もご一緒でしたよね。朝食前から細君を放っておく性分ならわかりますが……」
「一番有り得るのは、昨夜来てからそのまま酔い潰れたの可能性ですね」
「奥様がいるのに?」
「喧嘩でもしたんだと思います。よくある事です。で、次の日には仲直りしてるんです」
今ではすっかり冷え切っている様だったが、かつての二人は本当にそんな感じだったのを待田は回想する。
「んー、ある意味たちが悪いですねえ」
談笑を交わしながら、二人は管理人室のドアを開ける。鍵は掛かっていなかった。
「門間! いるのか?」
波越の手前の為、やや声を張り上げて門間の名を呼ぶ。当然の事ながら、中から返事はない。
「どうやら酔い潰れているという予想は当たったみたいですね」
会話の流れを切る事無く、自然な動作で管理人室の明かりを点ける。
「ならまずは起こしてきてください。私はここで待機してます……ん?」
「どうしまし……」
波越の視線を追い、さも今気付いたという風に言葉を切る待田。電気が付いていない時ならいざ知らず、室内に照明がともされた今、昨夜彼が施したままの二人の姿を見逃す事は有り得まい。
「門間! 真理奈さん!」
動揺している演技で二人の元に駆け寄ろうとする待田。
「待ってください」
しかし、抜群のタイミングで波越からの静止が入る。つくづく期待通りに動いてくれる男だと待田は妙な感動を覚えた。
「待田さんはそのままで」
そう言って待田の横をすり抜け、波越は門間と真理奈に順番に近づく。
「門間さんと、奥様の真理奈さん、で間違いありませんね?」
「はい」
「門間さんは亡くなられています。ですが真理奈さんは無事なようです」
「あ……、はい」
とっくに知っている情報が、改めて現職の警察官の口から語られる。
「とりあえず、真理奈さんを起こしてみましょう。それと、警察と一応救急への連絡もしてください。この積雪です。来られるかはわかりませんが」
「わかりました」
波越にそう返答し、待田は管理人室にある受話器から警察に電話を掛ける。波越には見えないその顔には、全てをやり切ったという満足そうな表情が浮かんでいた。