日常編1
「よし、じゃあ行こうか。はー、やっと今日が来たぜー!」
校門を出た後、伸びをして嬉しそうに言葉を紡ぐ燐音。
「本当にうちでよかったんですか?」
三人が連れ添って通学路を行く最中、今日という日の到来を嬉しそうに宣言する燐音に静波は改めて確認する。
「当然だろー。だって今回のお泊りは、例の『要海さん』を見に行くのがメインなんだからさ」
燐音の口から、新学期より自宅である探偵事務所に下宿している高校生の、稀堂要海の名前が語られた。
今日は金曜日。新学期に入って程なくしてから三人の間、というよりも涼歌と燐音との間で、静波の家へのお泊りが企画されたのだ。その理由が、要海に会ってみたいというものだったのだ。
それなら放課後の適当な時間に会いに来てもいいのではないかと思う静波だったが、どうせならゆったりと親交を深めたいという燐音の言葉に、最終的に静波が認める形になったのだった。
「今更なんですけど、どうしてお二人は要海さんに会いたいんです?」
時間的にも聞く機会はあったはずだが、何だかんだで聞きそびれていた要海に会いたい理由を静波は二人に尋ねる。
「そうですわね。やはり、静波さんにここまで影響を与えられた方の人となりを、この目で見てみたかったというのが本音ですわ」
涼歌から返ってきたのは、そんな答えだった。
「静波に影響……ですか?」
しかし、静波は自分の中で、そう思われてしまう程の変化があったとはどうしても思えなかった。マイペースな要海に振り回されている時、若干語気を荒くしたり、辛辣な発言を繰り出す事はあるが、二人の前でそんな事をした覚えはない。
「やっぱ気付いてなかったんだな」
当惑する静波とは対照的に、涼歌の言葉に全面賛成とばかりに口を開く燐音。彼女の言葉を以って、静波はますます訳が分からなくなる。
「静波さあ、春休み明けてからすっごい明るくなったんだぜ?」
これまで静波と並んで歩いていた燐音は彼女の前に回り込み、正面切って静波に告げる。
「べ、べつに静波に自覚はまったくないんですけど……」
「他の方がどう思われるかは存じませんが、少なくともわたくしと燐音の目には、静波さんの変化は一目瞭然でしたよ?」
静波の否定に対し、燐音への肯定という形で返す涼歌。
「そ、そうなんですか?」
「今だからぶっちゃけるとさ、静波、一年前はもっと大人しかったんだぜ?」
間髪入れずに、再び燐音から自身の変化の過程を告げられる。
「それから徐々に喋るようになって今になってっけどさ、明らかにオレたちがかけて来た時間よりもずっと短い間に静波が変わっちまってさ。正直びっくりしたんだよ」
ここに来て静波に向かって振り返っていた燐音は再び前を向き、静波に背を向ける。
「で、理由は間違いなく、その要海さんだろう事は話してくうちにわかったけどさ」
そのまま会話を続ける燐音。
「そんなに静波は要海さんの話をしていたんでしょうか?」
度重なる指摘に自身の発言の回想を試みる静波だったが、いかんせん日々の発言を気に留められるほど注意をしているはずもなく、やはり困惑が深まるだけだった。
「一番多かったのは間違いなく要海さんの話題だったと思います。お褒めの話題だけではなく、ご不満の話題と双方があったので、比率はとても多かったですわ」
しかしながら返ってくるのは否定の余地が入り込めないレベルの回答で、反論の術を持てない静波はただそれを受け止める事しかできない。
「正直、少し妬けましたわ」
「今、何ていいました?」
これまではっきりとした口調で話し続けていた涼歌が突然声の大きさを落とした為、静波は発言の末尾を聞き逃してしまう。
「あらつい。いいえ、お気になさらないでください」
しかし、涼歌はそれをはぐらかし、それ以上今の発言に対しての質問には答えてくれなかった。
「あとは単純に明るい感じになったんだよな。雰囲気から何から」
再び燐音が口を開く。
「オレはやっぱ、今の静波の方が好きだから、問題はないけどよ」
他意はないのだろうが、好意的な言葉を使われて気恥ずかしくなる静波。
「そんなわけで、静波さんを変身させてしまった要海さんにおみま……、いえ、お会いしたいんです」
先刻とは打って変わり、今度ははっきりと聞き取れるボリュームで穏やかではない発言が涼歌の口から飛び出す。
「お前それわざとだろ?」
「なんのことでしょう?」
冗談とも本気とも取れる涼歌のニュアンスに、若干の不安を抱かずにはいられない静波だったが、それ以上追及する勇気もまた持ち合わせていなかった。
「それはそうと、お二人ともまっすぐうちに向かってますけど、お荷物などはいいのですか?」
現在三人はまっすぐ樹探偵事務所への道を歩いており、燐音、涼歌ともに自宅へ立ち寄る気配がない。ましてやこれから二人とも外泊をしようというのに、彼女らの手荷物は通学鞄のみで、着替えを始めとした準備をしているようには思えなかった。
「へへ、それは心配ないぜ。な?」
静波の心配など些末事とばかりに言う燐音。そして涼歌も意味深な笑顔を浮かべ、徐にスマホを取り出しながら発言する。
「ええ。手はすでに打っていますので」
「さんきゅーな、丈」
樹探偵事務所に辿り着き、事務所へ至るビルの階段を上った先の出入り口の前で、一人の少年が立っていた。先の燐音の発言からどうやら彼女の知り合いらしい事は察せられたが、静波は初対面だった。
「まったく、二人分の着替えはさすがにしんどかったよ」
丈と呼ばれた少年はぶっきらぼうに言い放ち、足元に置かれた二つのキャリーケースに目を落とす。どうやら中身は燐音と涼歌の外泊用品らしい。ここに来て、涼歌が彼に連絡を取って用意をさせた事実に静波は思い至った。
「ありがとうございます丈さん」
案の定、涼歌とも顔見知りの関係らしかった。
「言葉だけじゃなく、態度で示してもらいたいね」
髪が少年らしく切り揃えられている為間違う事はないだろうが、まだ変わり切っていない高めの声色から、ハスキーな少女の印象も受ける丈と呼ばれた少年は、冷静な口調で涼歌に切り返す。
「台所用洗剤とサラダ油の詰め合わせでどうでしょう?」
「洗濯用の洗剤もプラスで」
「お安い御用ですわ」
この一瞬のやり取りで、静波はこの少年に主夫の気質を見出し、少なからずの親近感を抱くのだった。
「ああ、そうだった」
涼歌との会話が終わった所で、彼は静波に向き直り、頭を下げてきた。
「初めまして。燐音の幼馴染で、白羅丈といいます。これは今日二人がお世話になるお礼です。召し上がってください」
そう言って丈はそれまで手に持っていた袋を静波に差し出す。空いていた手提げの輪の部分を掴み箱を受け取ると、中から仄かに甘い香りが漂ってきた。
「これは……ケーキですか?」
チョコレートとスポンジの香りが混ざったような独特の匂いで、静波は箱の中身を察する。彼女としても、間違いようのない香りだった。
「お好きだと聞きましたので、僭越ながら作らせてもらいました。お口に合えば幸いです」
恐らくは燐音から聞いていたのであろう自身の好物からわざわざ手土産を用意してくれた事を感じ、静波は感謝の気持ちと同時に申し訳なさも抱いてしまう。
「褒めんのも癪だけど、味は確かだぜ。こいつ、無駄に料理のスキル高いから」
ケーキを自作している時点で疑うべくもないのだが、燐音からの太鼓判で、丈の腕前の程が十分に確信できた。
「却って気を遣わせてしまったみたいですみません」
静波は小さく頭を下げ、湧き上がる気持ちを素直に伝える。
「いえいえ。それじゃあ僕はこれで。二人とも、樹さんに迷惑のないようにね」
静波の謝辞に笑顔で返答した後に、丈は再び燐音たちに向き直って注意を投げかける。
「ほいほい。善処するよ」
燐音の軽口に特に掘り返すことはせず、丈はもう一度静波に頭を下げてから「それではこれで」と一言を残し、外への階段を下りて行った。
「それでは上がってください」
丈を見送り、静波は事務所の鍵を開けてからドアを開き、改めて二人を自宅へと招き入れた。
「じゃあおじゃましまーす」
「お邪魔いたします」
二人も静波に応える形で定型句を口にしてから、事務所のドアを潜るのだった。そして、客人を迎え入れたドアが静かに閉められた。
「もう来てるかなあ」
小走りで事務所に戻ってきた稀堂要海は、自分の下宿先である建物を階下より見上げる。
一週間前、休みに合わせて静波の友達が泊まりに来る事を要海は聞かされた。それがどうやら自分に会いたいという理由からだった事も知らされ、要海は静波の友達と交流が持てる事を大いに喜んだのだった。しかしながら、失礼な事をしない様にと、真琴や貴音によって持ち込まれる事件の話をしない事に気を付ける様にとの注意も受けていた。
(そりゃあ、実際の事件の話をしちゃいけないのはわかるけどさ……、わたしってそんなに失礼な事するように見えるのかな?)
今にして思えば納得のいかない静波の発言に複雑な心持ちの要海だったが、それよりも今日初めて顔を合わせる二人への好奇心の方が大きく勝っていた。
「まあでも、しーちゃんのお友達なんだし、失礼のない様にするのは当然だよね」
事務所の階段を上り、ドアを前にして呟く要海。同時に湧き上がる逸る気持ちを落ち着けながら、鍵のかかっていないドアを開ける。
「ただいまー」
いつもであれば無音か、静かながらも可愛らしい返事が聞こえてくるのだが、今日は明らかにいつもと違う声が聞こえてくる。
「おかえりなさいませー」
元気な印象の高い声と、お淑やかで柔らかい二つの声が心地よく調和した挨拶が要海の全身を包み込んだ。
「ようこそ、樹探偵事務所へ」
そんな台詞を要海に投げかけるのは、メイド服に身を包んだ少女だった。
「ご、ごめんなさい! まちがえ……てないよ! え? え?」
当然の光景に動揺する要海。
「どうぞお入りください」
入り口近くにいた髪の短い少女に並ぶ形で、事務所奥から三つ編みの少女が要海の元に歩み寄ってきた。二人とも五分袖の、膝が見えるくらいの丈のスカートをしている揃いのメイド服を纏っている。
「やだ……わたし天国に来ちゃったのかな」
活発そうな髪の短い少女とお淑やかな印象の三つ編みの少女。見た目的に正反対のタイプの二人だったが、そのどちらもが子供特有の可愛らしい顔をしており、さながら天使の様に思えた。
「なんでですか!」
しかし、遠くに飛び去りそうになった要海の意識をかろうじて呼び戻したのは、彼女もよく知る声だった。
「しーちゃん……、その恰好……」
ここに来て要海は、二人の可愛らしい小さなメイドたちの後方に静波がいる事にようやく思い至った。だが彼女の姿は要海のよく知るものではなく、これまた目の前の天使たちと同様にメイド服とカチューシャを身に着けていた。
「かわいいい! ダメだよそれは!」
毎日顔を合わせている少女の見慣れぬ姿に、要海は自分の体温が高まっていくのを感じる。短めのスカートから覗く脚は、普段と同様に黒のストッキングに覆われており、メイド服特有のモノトーンの色調が静波の脚線美を一層引き立てていた。そして首元に下げられた臙脂色のスカーフのさらに下では、メイド服のデザインも相まってか、静波の小さな体には不釣り合いに大きな膨らみが、普段以上にその存在を主張している。
「か、要海さん!」
明らかに先程以上のトリップをしてしまっていた要海の精神を現実に引き戻したのは、やはり静波の声だった。
「うわ、鼻血出してる!」
髪の短い少女のその声を聴き、要海はわずかに違和感を感じる鼻下に手を当てる。すると、その手に赤黒い液体が付着している現実にようやく頭が回った。
「興奮して吹き出してしまうのは初めて見ましたわ」
三つ編みの少女の言葉通り、静波の姿に興奮しすぎたせいだろうと内心苦笑しながら、どこか他人事のように考える要海。
「変に感心してる場合じゃないでしょう! 要海さん、大丈夫ですか!」
そんな中、一人慌てている静波はテーブルに置かれていた箱入りのティッシュペーパーを要海に差し出した。
「というわけで、オレたちが言い出しっぺなんです」
「ここまで大変なことになるとは思わず、わたくしたちが浅はかでした。本当に、お詫び申し上げます」
要海の鼻血への処置が終わった後、燐音と涼歌に対して自己紹介をし合った所で、彼女らからの謝罪が行われた。
要海が帰ってくる前、住居スペースに二人を通し、事前に掃除を済ませていた空き部屋に荷物を置いてもらっていた。静波はそこから連れだって居間に戻ろうとしたが、二人は早々にキャリーケースを開け、それぞれが件のメイド服を取り出したのだった。そして何故か静波の分まで用意されており、先程の言葉通り燐音の口からこの格好で要海を迎えようという提案がなされたのだった。
当然静波は気恥ずかしさから反対したが、涼歌も加わった強い押しに押されきってしまい、抵抗むなしくメイド服に袖を通すことになってしまったのだ。
「ううん、気にしないで。おかげでいいものが見れたし」
そんな静波の事情など知る由もない要海は、純粋に嬉しそうな顔で笑顔を向けてくる。曇りのないその表情が、静波にとって今はどこか恨めしかった。
「じゃあ改めてよろしくね。りんちゃん、すうちゃん」
もはや様式美になりつつある、要海による『名付け』が早速二人に対して行われた。
「お、例のあだ名」
「可愛らしいお名前です」
そして燐音も涼歌も要海のあだ名を嬉しそうに受け取る。しかしながら、自分を含めて相手に好意的に受け入れられるあだ名を簡単に考えられる要海のセンスはなかなかのものなのではないかと、今更ながらに静波は感心していた。
「二人もわたしのこと、好きなように呼んでいいよ」
そしてここからは、自分の呼び方を求める段になった。対してこちらへの反応は、人によってはあだ名をつけてもらえない事もある。
「わたくし、兄しかおりませんので、姉妹に憧れているんです。要海お姉さまとお呼びしてもよろしいでしょうか?」
まるでお嬢様学校の様な呼び方だが、涼歌が口にすると違和感を感じさせないのはやはり普段からの雰囲気ゆえだろう。
「お姉さま!」
対する要海は、何かの衝撃を受けたらしい。
「すごい、なんか甘美な響き……」
目を輝かせながら嬉しそうに呟く要海。今受けたばかりの言葉をしっかりと噛み締めているだろう事が静波には容易に想像できた。
「じゃあオレは、あねさんだな。お、なんか探偵っぽくね?」
燐音は舎弟のような呼び方を提案する。偶然なのだろうが、二人は揃って要海に対して『姉つながり』の呼称を提示していた。
「いいねいいね。なんだか妹がいっぺんに出来たみたいだよ」
その共通点に気付いてか気付かずか、要海は隣のソファに腰かけている二人の背後に回り、彼女らを両手で抱きしめるのだった。
「よかったですね要海さん。お母さんも嬉しいです」
一連の光景を見ていた静波の口から出て来たのは、その一言だった。
「お母さんはわたしだよ! しーちゃん!」
そして予想通りのリアクションを返してくる要海。この事実に、静波は相変わらずに少しだけ安らぎを覚える。
「ああ、でもお姉ちゃんも捨てがたい」
今の勢いはどこへやら、両手に頭を当てて苦悩する。
「まだまだですね」
「ぐぬぬ……」
一定の成果を得られた所で満足した静波は追及を止めた。
「ほんと、すげえよなあ」
すると、燐音からそんな言葉が発せられた。
「ええ、お姉さまは思っていた通りの、素敵な人みたいですね」
一連のやり取りを見ていたであろう二人が、要海への感想らしきものを口にする。
「へ? どうして?」
さすがの要海も、二人による理由の解らない唐突な賞賛に戸惑ったのか、顔全体に疑問符を浮かべている。
「静波さんをそんなに楽しそうにさせられる人が、素敵じゃないはずがありませんわ」
優しい表情で、要海と静波に向かってそんな言葉を投げかける涼歌。どうやら、静波の反応を見て要海の性格を推し量った、という事らしかった。
「…………!」
それに気付いた静波は、思わず両手で顔を覆ってしまう。顔全体の熱さから、自分が赤面している事に気が付いたからだった。
「ど、どうしたの? しーちゃん」
珍しく察しの悪い要海が、突然うずくまった静波に駆け寄る。しかし、赤い顔を見られたくない静波は今の姿勢を崩せなかった。
「もう……どうしてこんな……」
結局、静波が平静を取り戻すまで要海は、何が起こったのかも解らないまま為す術もなくおろおろする羽目になるのだった。