プロローグ
「ふう……、もうついちゃったよぉ」
新幹線に揺られること約三時間。稀堂要海は、目的地である停車駅に降り立ち、そこからの景色を目に収める。
「すっごーい、さっすが都会!」
自分のいた田舎とは比べるべくもない人の多さだった。その時点で、異世界に来たかのような心地であったが、ホームから外に出て、まるでショッピングモールと一体化しているかのような駅構内を巡るうちに、彼女のその認識はさらに加速する。
「すごいよ、ビルが空を覆ってるんだもん」
街を一望可能な拓けた駅から見える、まるでビルが森の様に立ち並んでいる眺望は、テレビやパソコンのモニター越しにしか見た事の無かった光景だった。しかし、それが今や自分の眼前に広がっている事実が、言い知れようのない高揚感を覚えさせるのだった。
「って、圧倒されてばかりじゃだめだよね。何せこの町は――」
都会の雰囲気に飲まれそうになった自分の気持ちをリセットするべく、誰にでもなく呟いた後に、要海は右手を宙に高く掲げる。
「今から私の第二の故郷になるんだから!」
その瞬間、周囲の道行く人々の視線の一部が、自分に集中するのを感じた。自らに発破をかける為に出した掛け声だったが、思いのほか注目を集めていたらしく、気恥ずかしくなる要海。だが、軽く咳払いをして努めて何でもなく振る舞う。
(うーむ、ちょっとやらかしちゃったかな……)
この春、要海は高校に進学する為に故郷を離れ、単身でこの町、花緑市に越してきたのだ。入学式までは一週間少しの時間があるが、事前準備と新居に馴染む為にと、今このタイミングでの引っ越しを母親に勧められ、本人もそれに乗ったのだった。
「さて、まずは下宿先を探さないとね」
引っ越しの最大の問題でもある拠点であるが、要海の母親の計らいで、彼女の友人が経営する探偵事務所への下宿が決まっていた。
「えーと、なになに、この大通りをこう行って、それから……」
多くのバスやタクシーの行き交うロータリーに降り立ち、事前にプリントアウトしていた地図を取り出して目的地への算段を練る要海。
「まずはこの大通りに出ないとね。よーし、がんばるぞー!」
不安と期待がない交ぜになった感情を奮い立たせるように、要海は今一度気合を声に出し、新たな故郷への一歩を踏み出した。
「さんざん迷ったけど、何とか着いたよぉ」
取っ手を伸ばしたキャリーケースに体を預けながら、安堵の声を漏らす要海。最初から正しい道筋が頭に入っていれば大したことのない距離だったかもしれないが、慣れない土地での一人歩きと、地図を読み違えたことによる遠回りで、全身に思わぬ疲労が蓄積してしまっていた。
「やっぱり、駅まで迎えに来てもらえればよかったかなあ」
ふくらはぎを軽く揉みながらそんな事を呟く。実は下宿先からは要海の到着に合わせて道案内をすると申し出があったのだが、自分の足で行ってみたいという要海の希望で、現在の状況に至っていたのだ。
「でも、おかげで少しはご近所を覚えられたし、よしとしよう!」
持ち前のプラス思考を展開したことで、心持ちが幾らか晴れた要海は、改めて目的地であった建物に目を向ける。目線の先には三階建てのテナントビルがあり、その二階部分に『樹探偵事務所』の看板があった。
「うーん、いかにも事務所って感じ。いいよねぇ、こういう予想ど真ん中は。お、一階はお弁当屋さんなんだ」
事務所へと通じる階段に向かう最中に、一階のテナントに入っている弁当屋が目に入った。地元では見た事のないタイプの店で、昼時でないにも関わらず、そこそこの客の入りが見られた。
「近いうちにとりから弁当食べておかないとね。どんな味なんだろ。楽しみー」
弁当店を視界の片隅で捉えながら上機嫌で呟きつつ、二階への階段を上る。キャリーケースの伸縮式の取っ手を収容し、手提げ用の取っ手に持ち直しての階段は少々しんどいものがあったが、先程まで彷徨っていた事に比べれば幾分もマシだった。
「よし、ここだね」
階段を登り切り、すぐ左手にあるドアの前にある表札を確認してから、そのすぐ下にある呼び鈴を鳴らす。そして少し間を置き、要海は事務所のドアを開けた。
「ごめんくださーい!」
元気よく挨拶をした要海の目に真っ先に飛び込んで来たのは、綺麗に整理された事務所風景だった。南向きに設置された窓のおかげで室内は明るく、壁際の資料棚から接客用のテーブル、恐らくはここの主が座るであろう机まで本当にしっかりしていた。
「いらっしゃいませ」
すると、事務所の奥の方から幼い印象を受ける声が聞こえてくる。程なくして、要海の視界に声の主が現れた。
「本日はどのようなご用件でしょう?」
要海の目の前に現れたのは、書類らしき紙束を抱えた、幼さを多分に残した少女だった。
(か……かわいい!)
少女を一目見て要海は、心の中でそう叫んでいた。
(なにこの子! めっちゃかわいいんですけどぉ!)
眼前に降り立った可憐な少女の愛らしさに、心中で大きく身悶えする要海。セミロングで切り揃えられた、艶のある黒髪に幼い顔たちは、まるで上品な人形の様な印象を抱かせた。そして、全体的に小柄な体躯をしているにもかかわらず、胸はそこそこ大きく、紺色のタートルネックを内側から持ち上げて存在を主張しており、それらのギャップが非常に印象的で、これでもかというくらいに要海の心をくすぐるのだった。
「あの……、ご依頼でしょうか?」
最初の一言を発したきり、押し黙った(様に見られた)のを不審に思ったのだろう、当初は柔らかかった表情が怪訝な面持に変容し、要海を見つめ返してきた。
「はっ、そうだった!」
少女の言葉で我に返り、自分の目的を思い出した要海は慌てながら深々とお辞儀をし、自己紹介を始める。
「今日からここにお世話になります、稀堂要海と申します」
少々パニックになっていたのも手伝って、必要以上に丁寧な言葉を紡いでしまう要海。我ながら大げさ過ぎるとも思ったが、すべては後の祭りだ。
「ああ、あなたがそうでしたか」
そんな要海の胸中を知ってか知らずか、少女は大して気にも留めた様子のないシンプルな返答をし、合点が行ったという感じで話し始める。
「この春から高校進学する知り合いの娘さんを、家で預かる事になったと父から聞いています」
手にしていた書類らしき紙束を近くの机に置き、改めて要海に向き直る少女。
「樹探偵事務所の所長、樹静心の娘の静波です。よろしくお願いします」
畏まって頭を垂れる静波。たったそれだけの動作だったが、実に綺麗で無駄のない感じが、本人が如何にしっかりしているかを雄弁に物語っているようだった。
「うん、こちらこそよろしく!」
握手のつもりで静波の両手を握り、ぶんぶん振り回す要海。可愛らしい外見通りの華奢で小さな少女の手の感触に要海は心地よさを感じる。
「あの……、痛いので離してもらえます?」
少し顔をしかめながら、申し訳なさそうに静波はそう切り出した。
「あ、ご、ごめんね」
慌てて手を離す要海。思ったより強く握っていたらしく、静波は手を擦る動作をしていた。
「ごめん、わたしってば、つい……」
「いいえ、気にしないで下さい。とりあえず荷物を片付けましょう。部屋まで案内します」
要海が謝罪したのを受けてか、気にしていないという素振りで笑みを浮かべながら、静波は事務所の奥に歩いて行った。要海はキャリーケースを引き摺りながら彼女に続く。
カレンダーをぶら下げているドアを開くと、その奥は廊下になっており、右手側にはドアが二つ、そして正面には階段が上階に伸びていた。
「へー、事務所の中に部屋があるんだね」
「そうです。事務所兼自宅です。キャリーケースは大丈夫ですか?」
「だいじょうぶ!」
手提げ用の取っ手を掴んで持ち上げ、平気であるアピールをする要海。実際は少々重かったが、小さいなりにしっかりと存在する彼女のプライドが本当の感情を表に出さないよう奮戦していたのだった。
二人並んで階段を上って行く最中、要海は静波の横に付き、今思いついた事を口にする。
「ねー静波ちゃん?」
「なんでしょう?」
歩きながら顔を要海の方へ向け、言葉の先を促してくる静波。
「これから一緒に暮らすわけだし、親しみ込めてさ、しーちゃんって呼んでもいいかな?」
「しーちゃん、ですか……」
きょとん、と表現するのがふさわしい、何とも言えない表情を浮かべながら、静波は要海にそう返した。
「嫌だった?」
それゆえに、自分ながらの妙案が受け入れてもらえなかいのだろうかと落胆しかける要海だったが、次の瞬間にはそんな不安も氷解する。
「人の呼び方は他人が決める物です。好きにしてくれて構いませんよ」
はにかみながら静波はそう答えた。
「よかった。ありがとね」
「いいえ」
静波の微笑みに心を弾ませた所で、要海は再び視線を前方に向ける。階段を昇りきるとそこには洗面台があり、右手から後方に伸びる廊下に、四つの扉が見えた。
「要海さんに使ってもらうのは一番奥の部屋になります。静波の隣の部屋です」
変わらずに先陣を切って静波は、たった今自分が口にした配置の部屋の扉を開く。
「わあ、キレイな部屋」
最低限の収納スペースとベッド、勉強机がある以外はまっさらでシンプルな部屋だったが、真新しそうな壁紙に、白いレースのカーテンなど、まるでホテルの様に整えられており、それらが自分のために用意されていたと思うと、感動的になる要海だった。
「わたし、実家にいたときは妹と一緒の部屋だったから、一人部屋って初めてなんだ。うわー、感激だよー」
「そこまで喜んでもらえたら静波も頑張った甲斐がありますね。所で、今日の荷物はそれだけですか?」
要海のキャリーケースに目を向け、他の荷物の所在を尋ねる静波。
「うん。他の荷物は明日業者の人が持ってきてくれる事になってるんだ。だからわたしが持ってきたのは最低限の物だけなの」
「それじゃあ本格的には明日からですね。その時は静波もお手伝いします」
「うん、よろしくね、しーちゃん」
「…………」
「どうしたの?」
「改めて言われると、少し照れますね」
一瞬何の事かと思案した要海だったが、すぐにそれが、自分がたった今付けた愛称を呼ばれた事に拠っていると合点した。
「ふふ、これからもどんどん呼んでくから、照れてる暇なんてないよ?」
「なんの宣言ですか」
互いに笑い合える優し気な雰囲気を肌で感じ、この女の子との生活はきっと楽しいものになるだろうと、要海は期待に胸を膨らませるのだった。