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アイノリフレイン  作者: 矢田さき
2章 貫奈亜以乃 (アイノリフレイン)
7/31

1-1

 早川(はやかわ)くんのことを思うとなぜか三角定規が浮かぶ。それも内角が九十度と六十度と三十度のヤツ。使い古して細かい傷でアクリルが半透明になったヤツ。よくよく考えると可笑しいのに、とてもしっくりくるイメージ。

 彼のことを一度だってカッコイイなんて思ったことはないけれど、これまで知っているどんな男子とも違う。


 早川くんとは中学三年のクラス替えで初めて同じクラスなった。わたしとは別の小学校出身者だったので、彼に関する予備知識はほとんどゼロ。

 最初は、印象のつかみにくい男の子だなぁって思った。目立つ雰囲気はないのに、不思議とその他大勢に埋もれることなく浮き上がって映るって感じで。たとえるなら、シマウマの群れに迷いこんだオカピみたいに。それが時間を追っても、さらに逃げ水のようにつかめない。

 ただ、だれもがそんなふうに感じているわけではなさそうだ。クラスメイトがそれとなくかもす早川評には、おしなべて単に地味な男子というニュアンスが読みとれる。それだけ彼は注目されてない生徒ってことでしょ。

 みんなの目はどれだけ節穴なんだ。

 と思うものの、わたしにだって、ほかの男子とどこがどう違うのかうまく説明できない。つまるところ、わたし独自の感覚であり、ただのひいき目かもしれない。

 要するに、自分でも気づいてないだけで、最初から気になる存在だったことには違いなく、ただし理由はわからない、ってことらしい。自分のことなのに「らしい」なんてつけるのも変だけど、この感情はひとごとみたいに要領を得なかった。

 顔がわたしの好みという単純なことならまだ理解しやすいのに、そうじゃないから処理できない。そして、好感というだけで、まだまだ恋愛感情にはほど遠かった。

 つまり、そんな始まり。


 出席簿順で座った席が近かったことも、その先のふたりの関係を大きく左右した。担任の道満(どうまん)先生はそのまま一年間席替えをしなかったのだ。

 わたしと早川くんは窓ぎわのいちばんまえでとなり合って卒業まですごした。

 授業で先生から質問されても、早川くんはまず自分から手を上げようとしない。

 わたしたちの通う中学校は、市内でもおよそお行儀のよい学校とされていて、すれてない生徒が多く、わかる問題は進んで答える、いわゆる進取の風潮があった。それなのに、どんなやすい問題でも彼は挙手しない。それを特に気遣わしく思う教師も生徒もいなかったが。

 ただし、こんな例外もある。

 数学の授業でのこと。やたら難しい証明問題が出題されてだれも答えられなかった。数学の太田(おおた)先生は二年生のときもわたしたちの学年を担当していたので、各々生徒の力量を把握している。教室を見まわした先生は、早川くんの上でその怠りない目をとめて、

「早川、やってみろ」と名指ししてチョークを渡した。

 先生のその行為にも少なからず驚いたけど、早川くんは困惑も嫌がる素ぶりも見せず、黙ってチョークを受けとった。それが意外だった。

 それだけで、彼が――先生が認めるくらい――数学が得意だということは、火を見るより明らかだ。ときどき問題に視線を向けながら淡々と解いていく。書き終えるとチョークをもどし、黙って席に着いた。正答だった。

「おぉっ」とほかの生徒が驚嘆の声をもらしても、彼はいっこうに顔色を変えない。澄ましているというより、ただ感情が揺らがないようだ。

 そういうことがあっても、おおむね目立つことのない生徒だった。それなのに、わたしの彼への興味は自分でも驚くほど加速していった。

 授業中、横からそれとなく観察するのにも熱が入る。それからわかったこと。

 数学や理科、国語の現代文の授業は、ほかの授業にくらべ真剣みが増すのに、古文や歴史の授業は、やんわりとなおざりな姿勢になるとか。ノートのとり方が男子にしては几帳面だとか。左手親指で教科書の左隅を無意識に繰る癖があるとか。シャーペンを持つ手の動きが見惚れるほどエレガントだとか。

 また、休み時間は席を離れ、岡崎(おかざき)くんというクラスメイトの席まで行って雑談していることがある。つまり、とり立てて孤独を好むというのでも、みんなから孤立しているのでもなかった。進んでというわけではないにしろ、ほかの男子とも最低限のコミュニケーションをとっているように見える。

 それなのに、わたしには彼がクラスメイトから微妙に距離をあけているように映った。


「早川のとなりって、見てるだけで、なんか息つまりそう」

 放課後、部室に向かう道すがら、涼佳(すずか)がこぼした。

「えっ、そんなことないよ」

 思ってもなかったので、素直な気持ちを返す。

「ウソウソ。じゃぁさ亜以乃(あいの)、もう一カ月経つのに一回でもアイツと世間話とか、したことある?」

「それは……ないけど」

「でしょぉ。それで息がつまらないなんてウソ。だいたい亜以乃の席は片っぽうが窓なんだからよけいだよ。ずっと早川がバリケードになってふさがれてる感じする」

 涼佳の、バリケードって言葉の用い方に疑問を感じたものの、言いたいことはおおむね理解できる。わたしの席は片側にしか人がいないのに、その相手と話さなかったら、まるで世界への扉が閉ざされているとでも言わんばかり。彼女らしい。だけど待て。逆にわたしとすればそのせいで、よけい彼に感興をおぼえているのかもしれないのに。涼佳は続ける。

「わたし、二年のときもアイツと同じクラスだったけど、アイツが女子と話しているとこ、見たことないもん」

「シャイなんじゃない?」と、あえて見当はずれな言葉を選んだ。

「どうだろ。早川を見てると、それもちょっと違う気がする。アイツってあんなキャラなのに、変に気後れしないとこ、あるじゃん」

 ドキッとする。なんだかんだと、涼佳も早川くんのこと、よく見てるんじゃないか。

「去年先輩が言ってたけど、道満って一年間席替えをしない主義らしいよ。だから亜以乃、卒業まで、このままずーっと早川のとなりだから。ご愁傷さまっ」

 それを聞いても別段嫌な気はしなかった。その上、

「それで、早川くんって、部活なにやってるんだろう?」

 なにげなく思いついて、気になったことを口にしてしまう。

「さぁ、聞いたことないな。どうせ帰宅部なんじゃない。って、やだぁ、亜以乃、まさか早川に気があるんじゃないでしょうね。趣味悪いよぉ」

「ち、違うよ。そんなわけないでしょ」

「キャハハッ、ジョーダンだよ。なに顔、真っ赤にしてんのさ。亜以乃は小六のときの篠田(しのだ)以来、好きな人、できないもんねー」

「涼佳ができすぎなんだよ」

「言うな言うな」

 早川くんに好感はあっても、それ以上の好意はなかった。この時点では。だからウソにはならない。それに涼佳の言うように、わたしにはこれまで特定の男子に入れこんだ経験がない。先の篠田くんだって、本当に好きな人ってわけじゃなかった。

 小六のあのころ、わたしたち女子グループ内で好きな男の子を教え合う、一種の〝恋バナ〟ブームが到来した。みんな恥ずかしさ反面、内心だれかに打ち明けたくてしかたなかったんだろう。じんわり火がついた。わたし以外、恥じらいながらも熱っぽく男の子の名まえを口にする彼女たち。そのさなか、さて困った。わたしには、そんな相手がいないことに気づいた。あらためて考えてみるけど浮かびもしない。それを正直に話すと、

「好きな子がいないなんてありえない」

「亜以乃だけ教えないなんてズルいよ」

 次々に非難の嵐。ウソでもだれかの名まえを告げないと収まりそうにない。ひねり出すみたいに口にしたのが、篠田くん。小五のとき同じクラスで、ちょっとだけ仲のよかった男の子。今は違うクラスだから害はないだろうという計算があった。

「やっぱりいるんじゃん」

「そっかぁ、篠田くん、頭いいもんね」

 とりあえず、それより深く追及されることなく、みんなを納得させられた。また一連の打ち明け話はわたしたちだけの秘中の秘としたから、相手に伝わることもなかった。

 そんないきさつがあって、いまだ一部の女子のあいだで、わたしの初恋の相手は篠田くんだと信じられている。さいわいだったのは、彼は受験して私立の名門中学に進学し、話を蒸し返される心配が少なかったこと。

 中には、そのとき告白してつき合い出したませたカップルもいたけど、そんなのわたしには遙か異次元のできごと。それは中学三年になっても変わらない。依然初恋すらない。

 あれから考え続けた。なぜわたしにはみんなのように好きな人ができないんだろうと。

 好きな男子について語る彼女たちは、聞いているこちらが恥ずかしくなるような甘ったるい口調で、これ以上ないってくらい嬉々としている。あたかも幸せの熱に浮かされたカナリアのように。そういう、かけ引きなく無条件で夢心地な気分になれることが羨ましかった。そういう気分を女の子どうし共有できることが羨ましかった。この気分さえあれば、ほかのどんな憂うつなできごとも乗り越えられる、帳消しになる、そんな夢のような力。それこそが恋に落ちることだと理解した。

 わたしはその輪に入っていけない。わかり合えない。資格がない。自分は女子として決定的になにかが欠けているんじゃないかという引け目さえ感じる。年ごろの女の子不適格者。

 涼佳なんか、半年ごとに好きな人が変わるような恋多き女子だ。三月までは同じ合唱部の荻野(おぎの)先輩に恋していたくせに、先輩が卒業してしまい四月に新しいクラスになると、もう山名(やまな)くんという新しいクラスメイトを好きになっている。いつもながら衣替えに合わせたような心変わりだ。

 もちろん、わたしだって、どの男子も同じようなジャガイモに見えているわけじゃない。単純に好き嫌いはあるし、この子のこういうところいいなぁと思える男子もいる。でもそれで、その男子を恋する彼女たちみたいに全面的に受け入れられるかというと、そういうものでもない。それこそ好感の範囲内だ。

 とすると、早川くんへの好感もそれと同じようなものかしら。

 しかし、これには即答でノーだ。恋でないのは同じでも、彼への好感はもっと感覚的なもの、言ってしまえば直感だ。理屈がない。だからよけい興味が募る。持続する。

 そうだ。わたしは彼の放つ空気に惹かれているんだと気づく。それは、注意深く意識しないと見落としてしまう種類のものだけど。

 早川くんの存在は、日に日にわたしの胸をザワザワと揺らす。それは不思議と心地よかった。


 涼佳に指摘されたことで、思い切って早川くんに話しかけようと決めた。放っておくと卒業までまともに話す機会がないってことも十分ありうる。さらにタイミングが要注意だ。さりげないタイミングにさりげない話題をふること。意識すると、なおさら不自然になりそうだけど。

 英語の授業のあと、そのときがきた。

「ねぇ早川くん、江藤(えとう)先生の授業って、ちょっとテンポ悪いよね。妙な間ができて調子狂うっていうか。あれ気持ち悪くならない?」

 気安い調子で話しかけたつもりだった。早川くんは教科書やノートを机にしまう手をピタリととめて、こちらを見た。不精で伸ばしたままのような前髪の下、いつもより若干目を見ひらいて。笑みはなく、かといって無表情でもなく、そして、わたしの存在を初めて認識したような顔つきだ。

 わたしの声、うわずってたかな。

 話題の選択としては自然だったと思う。直前の授業に対するありふれた感想と同意をうながす問いかけ。

 江藤先生は、三年になって初めてわたしたちの学年を受け持った男性の英語教師。話すとき変なところで空気を吸いこむ癖がある。それを気にし出すと肝心の内容が頭に入ってこないので、すでに陰で多くの生徒から不満の声が上がっている。

 しかし、いくら相手の気を引こうとしたとはいえ、「気持ち悪くなる」は少々大げさすぎたかしら。それでも、お世辞にもわかりやすい授業とはいえないのだから、大意は伝わったはずだ。

「あぁ」

 彼が声をもらす。テニスボールを手元からアスファルトに自然落下させて跳ねる音のような、落ち着いた声だった。

 それから、不思議なものでも見つけたみたいな表情に変わって、おもむろに続ける。

「気持ち悪いってことはないかな。なんていうか……下手くそなカラオケを聞かされてる気分になるよ」

 彼のことだから「そうだね」くらいの簡潔なセリフが返ってきて、それに続けるこちらのセリフも考えていたのに。予想外にオリジナリティーある返事に一瞬たじろぐ。早く返さなきゃ。

「下手くそなカラオケかぁ。早川くん、うまいこと言うね。そうそう、そんな感じだよね」

 下手くそなカラオケって、わたしより婉曲にひどい表現だと思ったけど、言い得て妙だ。しかも、とうていカラオケに行きそうにない早川くんの口から出たのだ。すると、

貫奈(ぬきな)」と毅然とした声で彼に呼ばれた。

「はいっ」

 思わず居住まいを正して返事をする。

「オレに、気を遣ってくれなくても大丈夫だから」

 そう言った彼は、口角を少し上げてわたしを見た。その切れ長の目は、わたしを探るようにも親しみをこめたようにも見える。

 えっ、えぇっと、

「そ、そんなつもりじゃないよ。ふつうっていうか、こんなの、ただの世間話じゃない」

「ん、そっか、それもそうだね」

 彼はあっさり自身の発言をとり消した。そして話を打ち切り、そのまま席を立って教室を出ていく。なんだか、鉄棒にぶら下がったまま、おいていかれた気分。わたしは、そのひんやりした後ろ姿が消えるまで目をはなせなかった。

「亜以乃、なーに見とれてるの」

「す、涼佳」

 絶妙なタイミングで後ろから声をかけられ、あわてて、とり繕うように笑みを浮かべる。ニヤつく涼佳が近づいてくる。

「今、早川と話をしてたでしょ。チャレンジャーだねぇ」

「だってぇ、このあいだ、涼佳があんなふうに言うから、やっぱりなにか話しておかないとまずいかなぁって思ったんじゃない」

「で、なにしゃべったの、あのボクネンジンと」

「別になにってことないよ。さっきの英語の授業について、ちょっと」

「あーそ。まぁ進歩じゃん。卒業まで先は長いんだから、少しでも風通しよくしとかないとしんどいもん。亜以乃にしては、じょうでき、じょうでき。さぁ、早くトイレ行こ、予鈴鳴っちゃう」

 涼佳にうながされ、わたしたちも教室を出た。そのあと教室にもどっても、早川くんは今まで通りの早川くんで、特に向こうから話しかけてくることもなかった。逆にここで気安く話しかけてくるような人なら、こんな意識することもなかったはずだ。



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