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一月中旬のある放課後。
渚は美凪に頼まれたパソコンの専門書を買うため、Fで途中下車した。センター街の大型書店で目的の本を購入したあと、久しぶりにファッションビルを冷やかして歩いた。
その帰り、F駅の改札のまえにきてパスケースを出したときだ。
何週間かぶりに霊に身体を乗っとられた。突然、向きを変えて歩き出した。
霊の高揚するような感情が渚を支配する。
ど、どうしたの?
と訊くが、いつも通り、返事はない。
人ごみをよけながら歩く。その足どりが、目的に向かうのでなく、なにかを追っているのだと理解した。とたんに、その追っているものが見つかった。
渚の前方を行く女子高生ふたり組み。彼女たちだ。間違いない。彼女たちが改札から出てきたところを霊が見とがめたんだろう。
霊の知り合いだろうか。ふたりとも目立つS女子高校の制服を着ている。
S女子は渚の通うY女子とは違い、県内でも有名な生粋のお嬢さま学校。制服が特徴あることでも有名だ。この時期の冬服は濃紺のワンピースに白く細いベルトでウエストを際立たせるタイプ。まえのふたりはともに体型がスレンダーで、それがよく似合っていた。
また、ひとりは髪を背中の半分まで伸ばしたロング、もうひとりは男子顔負けのベリーショートと対照的なふたり。
エスカレーターを使って、やってきたのは市営モノレールの改札だ。埋め立て地の臨海都市を巡回する路線で、渚は滅多なことでは利用したことがなかった。
彼女たちはそのまま改札を通る。定期券を持っているのかプリペイド式なのか、切符を買わなかった。渚の定期券はプリペイド機能がない。それなのに、渚の身体は迷わず彼女たちのあとを追って、改札に向かう。定期を出す素ぶりさえ見せない。
とまって――と思った瞬間、
キンコン、キンコン――と鳴る。自動改札のゲートが閉じ、渚の身体を跳ね返した。反動で後続の人にぶつかる。そんな最悪のタイミングで渚に身体がもどった。
うそぉ!
と思う暇はない。必死でバランスを立て直し、「す、すみません」とぶつかった相手に謝った。さいわい、相手はOLふうの女性で、「大丈夫?」とこちらを心配してくれるやさしい人だった。もう一度謝って改札から離れた。
すでにS女子ふたりの姿は改札の向こうから消えていた。これから切符を買って追いかけても見つけられそうにない。しばらくして渚はきた道を引き返した。
帰りの車中で考えた。
少しまえから気づいていたこと、それは、自分の中にいる霊は女性だということ。プラス、さっき起こったことを踏まえると、自分と同じような年齢の女の子じゃないかと推測できる。
とすると、あのふたりは彼女の友だちだったのかな。
どうしてそんな若さで死んでしまったのかわからないけど、やっぱり未練があってこの身体にとりついてこの世を彷徨っているんじゃないだろうか。でも、どうして自分にとりついたのだろう。
全部たしかめなくちゃ。
渚は、もう一度Nへ、貫奈という家へ、行くべきだと思った。
学校で変化があった。
体育の授業のあと、教室にもどる途中、成瀬さんというクラスメイトに話しかけられた。
「市道さんのその髪、染めてるの? それとももとから?」
たわいもない話題だったが、渚を驚かせるには十分だった。グレコ以外、学校で自分に話しかけてくるのは事務的な場合に限られていたから。
昔から渚の髪は光にあたるとうす茶に見える。中学ではそれを友だちに羨ましがられ、渚自身ちょっとした自慢だった。
「う、うん。地毛なんだ」
「へぇ、自然で明るく見えていいね」
成瀬さんは中学からのエスカレーター組で授業中に目立つような勉強のできる生徒だ。彼女の所属するグループはクラスでも中心的なポジションにある。そんな彼女が自分に話しかけてきたことは、現在の渚にすれば、芸能人に話しかけられたに等しかった。
なんでもないおしゃべりは続き、そのうち、
「このあいだの、あれ、カッコよかったよ。それにあの子から離れて正解だね。最近わたしたちのあいだでも、あの子は性格に裏表があるって評判だったから」
成瀬さんは始業式の日のグレコとの一件をそんなふうに言った。
「そうかな……」
そっか、ほかの人もグレコの仮面の下の顔に気づき始めたんだ。
そう思っただけで、渚は世界が少し広くなった気がした。
「また話そうよ」
成瀬さんはそう言って教室に入っていった。学校でグレコ以外に笑いかけられたのは初めての気がした。
今、わたし、うまく笑い返せたかな。
そんな心配ができたことが渚は嬉しかった。
実力考査が終わった次の日曜日、渚はNに出かけた。美凪には告げなかった。もう自分ひとりで大丈夫だと思ったし、ひとりで行きたかった。いや、ひとりじゃないな。自分と彼女と、だ。
N駅に下り立つ。以前のざわつきはなく、ほっこりとしたやさしい気持ちが胸に広がっていた。
渚は目をつぶり、なるべく自分の中にいる彼女に気持ちをシンクロさせようと試みた。深呼吸する。もう一度深呼吸。そして目をあける。
特に変わったことはないが、周囲の景色が渚にも愛着を持って飛びこんでくる気がした。足を踏み出す。
以前弟と入ったファーストキッチン、その手まえにあるミスドの店内、ガラス越しに見えるテーブル席になぜか引きつけられる。おそらく、彼女がよく使っていたんだ、と直感した。同じようなことが、行く先々で感じられた。自転車おき場、学習塾の階段、スーパーの駐車場――。
駅まえ繁華街から、足は自然と住宅街に向かう。
彼女が足繁く通ったであろうコンビニや図書館のまえの並木道を渚は感慨にふけり眺めた。この街で彼女は自分と同じような学生として生きていたはずだ。
どんな女の子だったんだろう。
自分と違って、嫌なことにははっきりノーと言える子だったに違いない。曲がったことが嫌いな心の強い子。そんなだから、まわりにはいつも仲間がいたはず。
恋はしてたのかな。
S女子に通っていたのだったら校則も厳しそうだし恋愛もまだまだだったりして。それなのに突然すべてが終わりになって、おまけにこんな冴えない女子にとりついて、どれだけ悔しい思いをしていることか。ふがいなさすぎて、乗っとりたくもなるってもんだ。
渚が物思いにふけるあいだに、渚の足は例の貫奈という家にたどり着いた。彼女の心が少したかぶるのがわかる。
渚は迷わず門柱のインターホンを押した。家の人が出てきたら、自分の中にいる彼女について、訊こうと思っていた。変なヤツに思われたってかまわない。ただ彼女について知りたかった。
しかし、待てど暮らせど、今日もだれも出てこなかった。
日曜日の昼間で、家族のだれかが在宅していることを期待していたのに。もう一度押してしばらく待ったが、結果は同じだった。
再び渚は歩き出した。きた方角とは別の方へ。
彼女に身体を乗っとられたわけじゃない。ただ彼女がそちらに行きたがっているのがわかったのだ。
見知らぬ住宅の合間を歩いて行く。
二十分も歩いただろうか。目のまえに土手が現れた。冬枯れの草もまばらな土手だ。土手沿いの道が両側に延びている。たぶん土手の向こうは川が流れているのだろう。
渚は歩道から外れ、土手につけられた上りやすい箇所を見つけて上った。
少し上っただけなのに、なかなかの見晴しだった。
冬の曇天。寒々とした川の流れ。河川敷の遊歩道を、中学の部活だろうか、ジャージ姿の生徒が数名走っていた。ちっぽけなグランドがあったが、この寒空では遊ぶ子どもの姿はない。下流には鉄橋がかかり、その向こうには駅まえらしいビル群が見える。逆に上流には段になって並ぶ団地が目立っていた。
渚は気持ちの赴くまま河川敷に下りた。遊歩道を上流に向かって歩く。先のグランドをすぎると、遠目に人影が確認できた。
川に架かった橋があり、その下あたり、その人は川縁に立って対岸を向いている。
十メートル、五メートルと近づき、人物の姿がはっきりしてくる。男性だ。濃紺のブルゾンにベージュのチノパンという地味な服装。横顔しか見えないが、意外と若そうだ。
すると、渚の中の彼女が激しく動揺するのが伝わってきた。
三メートル、二メートル。彼女の意思を感じて渚は足をとめる。
(――早川くん)
彼女の声が浮かぶ。と同時に渚の口が動いた。
自らなのか彼女に動かされたのかは定かでない。でもはっきりと声になって出た。
「早川くんっ」