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残りの冬休み、渚の中の〝だれかさん〟は、ずっとおとなしくしていた。
年が明けて、渚と美凪はもう一度Nに行き、あの〝貫奈〟という家を訪ねた。前回同様一時間ほど張りこんで家の人が出入りするのを待ったのだが、やはり収穫はなかった。
家では、美凪が一日一回は渚に声をかけて変わったことはないか訊いてくれた。これは心強かった。それでなくとも三学期が近づき、グレコたちのことを考え、渚は気がたかぶることが多くなっていたのだ。依然〝だれかさん〟の正体はわからなかったが、その存在は確実に渚の中に居座っていた。
そして――新学期を迎えた。
始業式の日、渚が教室に入っていくとグレコの姿はまだ席になかった。ひとまず固唾を呑むようにホームルームを待つ。
予鈴ぎりぎりになってグレコが教室に入ってきた。一瞬渚をにらんだけど、近寄ってくることなく席に着いた。
ショートホームルームのあと、体育館に移動し始業式を行う。校長の訓辞や生徒会の学期始め案内等を聞かされて、また教室に移動する。移動のあいだもグレコは近づいてこなかった。
だが席にもどると違和感があった。
あれ――あっ!
机の横にかけてある通学カバンが見あたらない。まわりに目を配るがもちろん見つからない。
グレコだ。彼女が嫌がらせのつもりで、みんなが教室を出払った隙にカバンをどこかにやったんだ。
見るのもいとわしかったが、渚はグレコの席に目を向ける。やっぱり。渚を嘲笑うように見ていた。
どうすることもできなかった。中学のころだったら近くのだれかにたすけを求めることもできただろうが、ここでの渚はグレコ以外に頼る相手はいない。そのグレコから攻撃を受けているのだ。
すぐ担任の男性教諭が入ってきて、ホームルームを始めた。
このあと部活のない生徒は帰宅するだけだ。
ホームルームが終わってからゆっくり探そう。カバンをどこかに隠したといっても、必ず校内にあるはず。それにあれだけの大きさだ。すぐに見つかるに違いない。そう思った。
それなのに――渚は立ち上がった。立ち上がり、ホームルームの途中だというのに歩き出す。行き先は――グレコの席に向かっている。
渚がいちばん恐れていたことが起きた。衆人環視の中、霊に身体を奪われたのだ。なにか弁明しようと口を動かすが、またアワアワと声も出ない。
「市道、なにしてる。席に着きなさい」
担任の声も無視して進み、グレコの席の横に立つ。さすがのグレコも唖然としている。クラスの全員が自分に注目しているのが空気で伝わる。
「わたしのカバン、どこにやったの? 今すぐ教えてっ!」
なんなの、わたしの中のあなた、そんな声を張り上げて――、別に今じゃなくたって――。渚は思うがとまらない。
「黙ってないでなにか言いなさいよ」
対してグレコも調子をもどして、
「アタシがどうしてイチミチのカバンをどうにかしなくちゃいけないのよ。言いがかりはやめてくれる」
白を切る。当然だ。グレコはみんなのまえでは、オシャレでノリのいい女子で通っている。だれも、彼女が裏で秘密のバイトを行ったり、渚を従属させたりしていることなど、知りもしない。なんなら、彼女がクラスであぶれている渚を庇護してあげていると信じている生徒すらいそうだ。
「言いがかりじゃないよ。逆にあなた以外、こんなことをする生徒はいないじゃない」
「市道、カバンがどうしたんだ」
担任が近づいてきて割って入る。
「センセー、市道さんのカバンがありませーん」
渚の近くの生徒が机を確認したのか、声を上げて騒ぎを大きくする。ほかの生徒もざわつき始めた。
「あなた、ほかのふたりがいないと、エラそうにもできないの?」
兆発的な渚の言葉にグレコの顔色が変わった。
「はぁ! オマエなに言ってんだ? ふざけたこと言ってるとただじゃおかないぞ、コラッ」
「またなにか物を投げつけるんだ」
お願いだから、それ以上しゃべらないで。渚は自分の中の霊だかだれだかに懇願した。
「なんだってっ」と立ち上がったグレコを担任がとどまらせ、「市道も席にもどれ」と渚にも声をかける。
「カバンをどこに隠したか聞くまでもどりません」
なんて強情な霊なんだ。渚はおかしくなりそうだ。
しかたなさそうに担任がグレコに確認する。「本当に市道のカバン、知らないんだな」と。それに対し、「知るか」と本性をむき出しでグレコが応答する。
そこに、教室の外から「失礼するよ」と声がかかり、意外や教頭が入ってきた。手には通学カバンをひとつ下げていた。担任を含む全員の視線がそのカバンに集中する。
教頭の説明によると、この教室と同じ階のトイレの個室に、このカバンが中身をぶちまけられた状態で放置されているのを、別のクラスの生徒が見つけ職員室に通報した。中身の品から、このクラスの市道渚のものだと判明した。状況が状況だけに、事情を確認するためにやってきたということだ。
教頭が話をしているあいだに、渚の身体の主導権は渚自身にもどっていた。
こんな大ごとにしておいて、このタイミングで逃げ出す気? と、霊のヤツに悪態をつかずにはいられなかった。
結果、ホームルームのあと、渚とグレコは担任につれられ職員室横の会議室に行った。教頭、学年主任をまじえた五人で話し合いを持つためだ。
そこでも、グレコは渚のカバンをトイレに捨てたのは自分じゃないと言い張った。渚は、そもそもなぜカバンを捨てたのがグレコだと考えたのか、と教師たちに追及された。つまり、状況から教師たちは、渚が日常的にだれか、もしくはだれかれからイジメを受けている可能性を危惧したわけだ。
正直なところ、渚は自分がイジメを受けているという意識は希薄だった。嫌々ながらバイトを続けお金を渡していれば、グレコたちは渚に暴力をふるうことはなかったし、学校でも仲のよい友だちを演じてくれていたからだ。渚は自分の居場所を確保するために、命令されるままバイトを行っていただけだ。
ただ今回はイレギュラーな事態が起こった。霊が渚にとりつきグレコたちに反抗してしまったのだ。それは結果として、自分が彼女たちからいかに抑圧され心を歪ませていたのか、そして、解放されたあとの風通しのよさを渚に気づかせることになったわけだが。
だからイジメが始まるのは、彼女たちから抜けたこのあとだと渚は理解していた。このカバンを隠されたことがその手始めだ。
なんにしろ、教師たちが納得する答を用意しなければならない。間違っても〝バイト〟の話などしてはダメだ。自分の首を絞めることになる。霊もやっかいなことをしてくれたものだ。
苦肉の策で、渚はこう話した。冬休み中、グレコたちとケンカして、それ以後、携帯の電源も切ったまま連絡をとらずにいた。彼女たちはそのことにさらに立腹しているだろうと気がかりだった。そこへ――、久しぶりに登校し、始業式が終わって教室にもどると自分のカバンが見あたらない。それで単純に直前まで仲たがいしていたグレコと結びつけたのだと。
担任はそれについてグレコに確認した。グレコは、「ケンカをしてたのは、その通りだけど、カバンは知らない」と言い続けた。
教師たちも、カバンの件は確たる証拠が出てくるものでもなく、これ以上は水かけ論にしかならないと判断したのだろう。教頭が、「じゃぁ、イジメじゃないんだな?」と渚とグレコふたりに、彼らがいちばん確認したいのだろう核心を質した。これにはふたりとも「ありません」と答えた。そこで、教師たちがしばらくようすを見ようという空気を出しながら、話し合いは終了した。
解放され廊下に出た。一瞬ふたりはにらみ合ったが、どちらも口はきかず、そこから校舎を出るまでつかず離れず歩いた。靴箱のあるエントランスホールが近づいたところで、ようやくグレコが口をひらいた。
「イチミチ、エライことしてくれたな。こんなことしてどうなるかわかってんのか?」
たしかにこの状況は渚も予想してなかったことだが、今後どんなに脅されても、謝るつもりも、もとの関係にもどるつもりもなかった。
「覚悟はできてる。でも、わたしもやられっぱなしじゃないから」
考えて出たセリフじゃなかった。自然と口にしていた。もちろん霊の言葉じゃない。渚の言葉だ。だけど霊の影響かもしれない。
これまではグレコに逆らうことを盲目的に恐れていたが、霊の意思によって逆らってみたところ、意外に簡単でそのあとの気分が予想以上に晴れ晴れとした。それだけ締めつけられていたってことだろうけど。この解放感が続くなら、もう教室でボッチになったってかまうもんか、という気概が生まれた。それに、自分には弟がいる。美凪がついていてくれる。実際に弟がなにかしてくれるわけじゃないが、心の大きな支えだ。
「なにぃ――」と声を荒らげかけたグレコだったが、
「まぁ今日のところはことを荒立てないでおいてやるよ。そのうちな」とチンピラみたいなセリフでおさめた。ついで、
「それにしても、こないだからなにがあった? 急に別人みたいな態度とってさ」
頼りなく探りを入れる。明らかにトーンが落ちている。
「別に――、もうみんなとメリーゴーランドに乗るのは嫌になったってだけ」
「ふざけんなっ、どうせしょーもない後ろだてでもできて、いきがってんだろ」
「後ろだてって、なに?」
「そりゃぁ男だろ」
渚は答えるのもバカらしくなり、グレコをおいて先に歩き出した。
翌日から平常授業が始まった。
グレコは渚を無視はするが、さしあたり表立った嫌がらせはしてこなかった。ある程度は渚も覚悟していたので、正直どこで肩の力を抜けばいいか見極められない。もちろん油断はできないが、ただ、なにかあっても自分はなんとかできるだろうという余裕が生まれていたこともたしかだ。一カ月まえには考えられなかった変化だ。
短期間に渚がこんなに変わった理由は、たぶんひとつ。
自分には心強い味方がいる。文字通りの意味で守護霊がついている。自分の中にいる存在について、そんなふうに思うようになったことだ。
とりつかれた理由はわからないし、身体を乗っとられたときはあわてさせられるけど、最終的にいつも自分の立場をいい方向に導いてくれている。そういう意味で守られていると感じていた。それに、渚は霊の心がなんとなく理解できるようになっていた。とはいえ、大まかな喜怒哀楽程度のものだけれど。
たとえば、グレコにカバンを隠されたとわかったとき、霊は自分以上に憤りを感じているのが伝わってきたし、最近弟とよく会話するようになり、家でたわいもない冗談を言い合っていると、霊の和やかな気分が伝わってくるのだった。
渚は自分にとりついた霊に少しずつ親しみを感じ始めていた。