2-1
自宅に逃げ帰った渚は真っ先にキッチンに向かった。
昨日の晩からなにも食べてない。なんでもいいからお腹に入れようと思った。そんな余裕ができたことが不思議だった。
キッチンには珍しく美凪がいた。すでに夕方なのに昼食のつもりかカップ麺を食べている。ふだんならふたりになるのをさけて引き返すところだが、なぜかすんなり中に入っていけた。
「お腹減ったぁ」と軽口も出た。
「カップ麺あるよ」
美凪が答える。これも予想外だった。
「あ、そう。ありがとう」
これも自然に転がり出た。お湯を沸かしカップに注ぐ。待つあいだ、テーブルに弟と向き合う形になる。
「ネエチャン、今日、なんか雰囲気違うね」
美凪から話しかけてきた。
どういう風の吹きまわしだろう。それに雰囲気違うって……。
久しぶりに弟の顔を正面から見すえる。すると、思いもよらぬことが起きた。
渚の奥から、急激になにやらこみ上げてきた。それが目の奥から湧き上がり、瞳から流れ出した。あとはわんわん声を上げて泣き出していた。
驚いた。驚いたけれど、これは渚本人の感情の発露だ。決してもうひとつの人格のものじゃないことはわかる。
こみ上げてくるものがとまらない。顔を手でおおってしゃくり上げ続けた。
もっと驚いたのは美凪のほうだろう。
「お、オネエチャン、どうしたの?」
明らかに戸惑いを帯びた声が渚にも聞こえる。
十分ほどかけてようやく落ち着く。そのあいだ美凪はキッチンを出ていくことなく、待っていてくれた。
「もう伸びちゃってるけど、食べたら」
「……うん」
このときの美凪はエイリアンなんかじゃなく、渚が昔からよく知る弟だった。
スープを吸って伸びきったカップ麺を、渚は鼻をすすりながら食べた。美味しくなかった。なかったけど、身体の中にあったかいものが浸透していくようだった。
「ネエチャン、最近学校でうまくいってないの?」
「……どうして?」
「どうしてって――、そんなの見てたらわかるじゃん。高校に入学してからのネエチャンの顔、アニメのモブキャラみたいに、いつも無表情だもん」
「なにそれ。それを言うなら美凪だって変わった。小六ぐらいから目つきが悪くなった。全然可愛くない」
「しかたないよ。パソコンの使いすぎで目が悪くなったんだから」
「ずっと部屋にこもってるし」
「ボクだってもう子どもじゃないんだ。ひとりの時間がほしいし、隠しごとだってあるよ。それにネエチャンだって、最近はずっと部屋にいるじゃん」
「そうだね――」
そこから、渚は美凪に向かって高校に入学してからのいきさつを少しずつ語り始めた。
自分でも意外だった。ママにも話す気になれなかったのに、弟に対してこんな気分になるなんて。
高校のクラスでうまく友だちを見つけられなかったこと。それで思いわずらい焦っていたこと。そんなときグレコに声をかけられたこと。グレコたちの仲間に入ったけど、つき合い始めると思っていた人柄ではなかったこと。そのうち主従の関係になっていったこと。逆らうと暴力をふるわれること。バイトのことは言えなかった。
今日も、昨日約束をすっぽかしたことで呼び出されたこと、また暴力を受けそうになって逃げ帰ってきたことまで話して――、そこで迷った。
もうひとつの人格に身体を乗っとられたことを、聞いてもらうか迷ったのだ。
ここまで真面目な話をしてきて、美凪も神妙な顔つきで聞いてくれている。それなのに、ここで荒唐無稽な話をはさんでしまうと、せっかく自分と弟のあいだにできた雰囲気が水泡に帰するのではないかと心配した。
だけど渚が今早急に相談に乗ってほしいのは、このことだ。またいつ自分の身体が自分の意思に関係なく動き出すかわからない。少しでもこの現象についてだれかの意見がほしかった。いっしょに考察してほしかった。今日ここで弟とたまたま話さなかったら、だれにも相談できないところだったのだ。まさに渡りに船の状況。
バカにされるのを覚悟で話すことに決めた。
「ねぇ、笑わないで最後まで聞いてくれる?」
渚は、今朝起床時におぼえた違和感から、グレコたちに会った際、しゃべるつもりもないのに口が勝手に動いたこと、逃げるつもりもないのに身体が勝手に逃げ出したこと、と順を追って話した。関係ないかもしれないが、N駅でこみ上げた感情もつけ加える。
最初、微妙な顔つきだった美凪は、話が進むにつれ、また神妙な顔つきにもどった。
渚が話し終えても、美凪はしばらく無言だった。焦れた渚は、
「やっぱりわたしの頭がおかしくなったのかな。美凪はどう思う?」
と殊勝に訊いた。
「話が中二すぎて、すぐには答えられないよ」
「わたしがウソをついてるって思ってるの?」
渚は、幾分むっとして言った。
「それは思わないよ。ネエチャンがそんなファンタジーな話を作ってボクに話す理由がないよ。そんな才能もないし。そうでしょ」
「うん」
「だからウソをついてるとは思わないけど――、とりあえずネエチャンの言う二重人格っていうのは違うと思うな」
「どうして?」
「だって、よく映画なんかで二重人格が描かれる場合、他方の人格が現れたときの記憶はないものじゃん。ネエチャンはしっかり意識があるんだから、二重人格はあてはまらないんじゃないかな」
渚も自分で言いはしたものの、半信半疑だったので、この意見はすんなり受け入れた。
「じゃぁなんだっていうの?」
「そうだなぁ、ひとつはネエチャンの脳の誤認っていうのかな。それとも無意識の行動っていうのかわからないけど。とにかく、ネエチャンはホントにしたいと思っている行動を自分がやってないことにして行動したっていうか」
「言いまわしがくどくてよくわかんないよ」
「えぇっと、つまり、そのグレコって人に逆らうとひどい目に遭うから、本当は逆らいたいけど自分の意志では逆らいたくない。だれかに無理やりさせられている体にしておきたい、って心理から、だれかに身体を乗っとられたっていうファンタジーな状況を脳が作り出したってこと。これでわかる?」
「なんとなく。要は、すべての行動は、実は全部わたしの意思でやったことだった、ってオチだね」
「ざっくり言うと、そういうこと。脳が心を守るためにウソの認識を生みだしたってこと」
「美凪、中学生のくせに難しいこと考えるんだね」
弟は渚の軽口を無視して、
「でもそれだと、朝起きたときに感じた視線やいつもと違う感じ、それからN駅で感じた感情が説明できないんだ」
「じゃぁどうなるの?」
「ここからはオカルトになるけど――。たとえば先祖の霊がオネエチャンを不憫に思って、ネエチャンにとりついてしゃべったり身体を動かしたりした、みたいな霊にとりつかれた説が考えられる」
「先祖ってだれなの? ウチは両方のおじいちゃんもおばあちゃんもまだ生きてるでしょ」
「だからたとえばだって。だれの霊だっていいんだよ。小説とかにもよくある設定じゃん。旦那さんが亡くなった奥さんに旦那さんの霊がとりついて、奥さんを窮地から救ってくれる、みたいな話。ネエチャンのだれかに見られているっていうのも、霊が頭の中からネエチャンやまわりを見ているのを、そう感じたと考えれば辻褄が合うし、頭の中に急にそんな霊がとりついたら違和感をおぼえてもおかしくないだろ。さらにその霊がNって土地に思い入れのある人かもしれないし」
美凪の話を聞いていると、自分の身の上をとてもうまく説明しているように思えてきた。
だれかの霊にとりつかれているのか――。でもだれだろう?
「オネエチャン、明日いっしょにNに行ってみない?」
唐突な美凪の提案。
「どうして?」
「行ってみたら、ネエチャンの中にいる霊がより反応するかもしれないじゃん。そしたら、なにかわかるかもしれない。その霊がだれなのか、そのヒントとかさ」
「でも、こわいよ。また身体を乗っとられて動き出したら。どうなるかわからないのに」
「だからボクがそばにいてあげる。ネエチャンがおかしなことになりそうだったら対処するから、任せてよ」
美凪は、いつからこんな生意気なことを言えるようになったんだろう。自分の弟じゃないみたいだ。
「わかった。明日いっしょに行ってみよう。美凪、頼りにしてるから」
翌日の昼すぎ。
渚と美凪はN駅の改札を出た。ふたりにとって初めて下り立つ街だった。
弟とふたりで出かけるなんて何年ぶりだろう――。うーん、思い出せない。それほど久しいってことだ。
渚は緊張していた。それが、とりついた霊が現れることへの不安からなのか、その霊自ら抱く感情の影響なのかわからない。
昨日、美凪に指摘されてから、自分の中にだれかの意識があることがたしかなように思えていた。その存在を霊という言葉で呼ぶのが適当なのかどうかはおいておくとして、自分の中に自分じゃない存在がいる、その違和感は渚の中でどんどんはっきりしてきていた。
自分から自分以外に別の視線が伸びている。そして、その別の視線は、ときおり渚の心にも向けられる。もちろん、渚の思いこみかもしれないが。
霊も自分と同じで、この状況に戸惑っている。渚は、なぜかそんなふうにも感じていた。向こうも渚にとりついて当惑している。もしかすると自分の死を受け入れられていないのかもしれない。無論、自分の中にいる存在が霊だと仮定してだけど。なんにせよ、まったく根拠のない想像の域を出ない話だ。
駅の周辺は渚が思っていたよりひらけていた。スーパーやベーカリー、ファーストキッチンにミスドが並ぶ。ツタヤや大手学習塾の看板も目に入る。
「ネエチャン、どう? なにか気持ちに変化がある?」
横で美凪が控えめに訊く。
「うん、なんか胸の中で割れたガラスの破片が飛びまわってる感じ、ギザギザする」
電車がこの駅に着いたときからずっとそうだ。渚にとりついた霊の心はこの街に激しく反応している。
「やっぱり、この街にゆかりのある人みたいだね」
「うん」
「じゃぁちょっとブラブラしてみようよ。もっとなにかわかるかもしれない」
渚は美凪に任せてそのあとをついていく。おかしいのは、当事者でない弟も――自分で言い出したとはいえ――渚にとりついた霊の存在を既成事実のように受け入れていることだ。
ふたりは三十分かけて駅の周囲を一巡した。渚が歩きながらその平凡な街並みを眺めているうち、ギザギザした波が徐々に溶けるように落ち着き、ホッとするような心持ちに変わっていった。それが霊の心の変化だと渚は感じた。
その後ファーストキッチンで昼食を摂る。ふたりで街の感想を語らう。しゃべる割合は美凪が多かった。さして内容に意味はなかったが、渚は弟とここにこられたことに満足していた。そのとき、
(ストラスブール)
聞こえた。いや、頭に響いた。昨日マックでも聞こえた霊の声のようなもの。だけど、その言葉に聞き憶えはない。
(ストラスブールに)
「美凪、今、頭の中にストラスブールって聞こえたの。たぶん、霊の声だと思う。なんのことだろう?」
「ネエチャンの知らない単語?」
「うん」
「ちょっと待って」
美凪は携帯電話をとり出して、検索を始めた。すぐに見つかる。
「フランスの地名だよ。その人、フランスに行ったことがあるのかな?」
フランスの、それもあまりメジャーではなさそうな地名を知っていることから、この霊はフランスに精通している人かもしれないと推測できる。でもそれだけだった。
それ以上収穫がなさそうなので、
「美凪、今日はこのへんで帰ろうか。もうなにも起こりそうもないし」
「うん、わかった」
店を出てふたり駅に引き返すため歩き始めた。と、また渚に異変が起こった。意思に反し勝手にきびすを返し、勝手に身体が歩き出した。
「オネエチャン、駅はこっちだよ」
「わかってるけど――」
足はとまってくれない。
「ネエチャン、もしかして、始まった?」
「そう、ついてきて」
後ろから美凪が小走りに近づいて横に並ぶ。
「自分でしゃべることはできるんだね」
「今はそうみたい」
渚は、またトロッコ列車に乗っているような感覚を味わいながら、自分の身体の行き先を案じた。足どりに迷いはなく、ある目的地に向かって一途に進んでいくようだ。横から美凪の気遣いが伝わってくる。
ふたりは駅まえから遠ざかり繁華街の外れに出た。
すると目のまえに真新しそうなマンションが現れた。渚の身体はそちらに向かっていく。
「ネエチャン、あれだ」
いち早く美凪がなにかに気づいた。
マンションの一階が店舗になっており、ヘアーサロンとパティスリーの二軒が並ぶ。渚は、そのパステル調の外観のパティスリーに目が釘づけになった。
出入り口のドアのガラスと店のまえの木製の立て看板に記された店名。それが、ストラスブールと読めたからだ。
店の手まえ約三メートルの場所で、渚に身体の主導権がもどされた。このときの感覚にはやはり驚かされる。あやつり人形の糸が予告なく切れて人形が急に崩れそうになるのを必死で立て直す、そんな感じだ。
「ケーキ屋の名まえだったんだ」
店の中をうかがいながら美凪が言う。
「美凪、わたし、身体がもどったみたい」
「そっか。じゃぁどうする? 中に入ってみる?」
「うん」
渚は、自分の中にいる存在が戸惑いながらも中に入りたそうにしていると感じていた。
美凪が先頭になって店内に入った。
「いらっしゃいませ」と女性の声。
小さいながら居心地のよさそうな店だった。入って正面にショーケースがありケーキが並ぶ。両サイドのやはりパステル調の棚には焼き菓子が飾られている。
ショーケースの向こうに女の店員さんがひとりいる。この人が先の声の主。さらに後ろ、ガラス張りの向こうが工場になっていて、職人さんらしい人がひとり、立ち働いている。よく見るとその人も女性だ。クリスマスも終わり、店内のディスプレイはすでに新年向けになっている。
「せっかくだからケーキ買って帰ろう」と美凪に耳打ちした。
両親の分も含め四つ選んで買った。店員の女性になにか訊いてみようかとも思ったけれど、なにをどう訊いていいのかまるで思いつかなかった。まさか初対面の人に、「わたし、霊にとりつかれたのですが、その霊に心あたりはありませんか?」とも言えない。結局、ケーキを買っただけで店を出た。
「ネエチャンにとりついている人、ここにきたかったんだよね?」
店を出てすぐ、美凪が頼りなげに訊く。
「うん、それはそうだと思う。でも……」
「でも、なに?」
「わたしの勘違いかもしれないけど、わたしの中にいる人は、今がっかりしているみたい」
「わかるの?」
「たぶん」
「その人、よくこの店に買いにきていて目あてのケーキがあったんじゃない。それがあったらネエチャンに買わそうと思ったけど、今日はおいてなかった、とかね」
美凪が軽口を言っているあいだに、また渚の身体はかの人物に乗っとられた。今度はさほど驚きもせず対応できた。
「ついてきて、また始まった」
渚の身体は駅には向かわず住宅街へと足を向ける。
まだ新しいベッドタウンである渚たちの住む街にくらべると、そのあたりはところどころ古い家並みの残る懐古的な雰囲気の地域だった。
看板が剥げてなんの商売かわからない店だか民家だか区別のつかない建物。ドッジボールもできないような狭く古い公園。長年の雨のせいで変色した壁の時代めいた図書館。同じ電柱から複雑に延びる電線。そんな景色が渚の目に映っては去っていく。
歩き慣れたような足運びで十五分も歩いただろうか。一軒の家のまえで渚の身体は立ちどまった。
比較的新しい一軒家だった。小さな門扉の横にシャッターのあいたガレージ。車はとまってない。門扉に続く短い階段の先に玄関がある。二階建ての、よく見かけるタイプの家だ。
渚がとまったのは一瞬で、すぐ門扉に近づき、上から腕を入れ、かんぬきをあけた。続いて門扉もあける。
ちょ、ちょっと、やめて――。
階段を数段上り玄関のドアノブに手をかける。当然のように鍵がかかった感触が返ってくる。
この一連の動作のあいだ、渚は全身から血の気が引いて心臓が雑巾のごとくしぼられたように苦しく居たたまれなかった。いくら自分の意思でないとしても見知らぬ住居にズカズカと入りこんでいるわけで、これでは不審者として通報されても文句は言えない。
引き返し門の外に出たときは心底安堵した。美凪は門のまえで姉をとめに入るか躊躇していたようだ。「ネエチャン……」と明らかに動揺が声ににじむ。
それでもまだ終わらない。渚の手がインターホンに伸びた。ボタンを押す。家内に間延びしたチャイムが鳴る。
だれが出てくるの? 出てきたらなんて言おう? それとも、また勝手にしゃべり出すの?
頭の中で身がまえて玄関を見つめる。
一分ほどたっても反応はなかった。そこで渚は身体をとりもどした。
「今もどったよ」と弟に告げる。
「その人、ここのだれかに会いにきたのかな?」
「たぶんそうだと思う。もしかすると、ここに住んでいたのかもしれない」
渚はそこで初めてインターホンの横の表札を見た。
そこには〝貫奈〟とあった。
美凪の提案で、家の人が帰宅するのをしばらく待つことにする。少し離れた場所に高台にある公園に続く階段があり、そこなら少しのあいだ、ふたりで立っていても怪しまれず済みそうだった。
だが三十分待ってもだれも現れなかった。それ以上は寒すぎて身体が持ちそうにない。限界だ。帰ることにした。
途上、今日のできごとについてふたりで意見をかわしたけれど、これといった説明にはたどり着けなかった。
ふたりで家に帰ると、ママが出迎えてくれた。渚たちが出かけるときはいなかったので、ふたりして帰ってきたことにママは驚いていた。それもケーキの箱をぶら下げて帰ってきたから、なおさらだろう。それでも、「あら、珍しい。ふたりでどこに行ってきたの?」と訊く声には弾むような調子があった。
その晩、自室でひとりになった渚はおかしなことをした。
ベッドに腰かけ、手を胸のまえで合わせ、目をつぶり、心の中でこう問いかけた。
わたしの中にいる人、よかったら、あなたのことを教えて下さい。なにか手だすけできることがあるなら、できる限り協力するから、と。
霊の声が答えてくれるかも、と思ったのだ。
それでも、どんな応答もなかった。
翌日の朝、遅れていた生理がきた。