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アイノリフレイン  作者: 矢田さき
1章 市道渚 (ナギサファンタジー)
3/31

1-3

 それは異様な体験だった。面妖と言いあらわしてもいい。

 自分の口が自分の意思とは関係なく顎や声帯を動かし声を出した。それも、意味や意思のある言葉をしゃべったのだ。

 渚は混乱した。

「出よう」

 グレコが立った。それ以上語らず、フロアの出口に向かって歩いていく。すかさずミーナとカオリが渚の横に立って、両側から渚を立たせた。

「オマエ、バッカだなぁ」

 ミーナが見下すように耳元でささやいた。ふたりにガードされながら渚はグレコのあとに続いた。どこにつれていかれるのか、わかっている。こういうことは以前にもあった。センター街から地下街に下りて、市営地下駐車場へ向かう途中の、貸しロッカーが学校の靴箱みたく列になり並ぶ場所、その奥だ。繁華街のエアポケットのような、ふだんからほとんど人けのないところ。

 渚が背反するそぶりを見せると、決まってグレコたちは〝罰〟を与える。痛みをもって主従関係をわからせるために。渚をより支配するために。

 いつもならそこで受ける暴力に怯え、それでも逃げることなど思いもつかず、ただつき従うところだが、このときの渚は違った。頭の中は、さっき自分の身に起きたことでいっぱいだった。

 あれってなんだったんだろう?

 ふだんから持っていたグレコたちに対する反抗心が暴走したんだろうか。よく知らないが、こういうのを二重人格っていうんじゃないか。自分の中にいるもうひとりの自分。そいつがどうしてか、あのタイミングで出てきた。財布を渡すのを拒んだ。あまつさえグレコたちに口答えまでしてのけた。

 そんなことってあるだろうか――。

 あ、そういえば、あれとなにか関係あるのかな。

 あれとは、今朝渚が感じた、だれかに見られているような視線や自分の中にできた新しい部品のことだ。あのときは焦って妊娠説まで考えたけど、その正体がこのもうひとつの人格だったのだろうか。

 ――と、マックを出たそのとき、渚の身体に異変が起きた。

 全身から力が抜けて身体が動かない。否、身体は動いていた、が自分の意思で動かしていない。つまり――乗っとられた。だれに? おそらく、もうひとつの人格に。

 渚の身体はアーケードに出たとたん、自分をはさんでいたミーナとカオリをふり切って走り出した。渚の意識からすれば、それはとても奇妙でスリリングな感覚の体験だった。まるで、さびれた遊園地の揺れの激しいおんぼろコースターに乗っているような。

「お、おい、イチミチ、どこ行くんだ」

 渚が逃げ出すなんて予想もしてなかったんだろう。カオリの間の抜けた声が背後で聞こえる。だが、三人が追いかけてきているのか、渚にはたしかめることができない。自分がどこに向かっているかさえわからなかった。


 高校生初の夏休みが始まる前後だった。

 それまで続けてきた――中年男との疑似デートに加え、グレコの提案で新しいバイトを始めた。それは、自分たちの下着を売るというおよそ品のないもの。グレコが以前言っていた安全で効率のいいバイトがこれだった。自分たちの使用済みの下着に需要があることに気づいたグレコが、またぞろネットで相手を見つけては、四人に割りふった。

 たしかに疑似デートにくらべ、数分で済むうえ金額もよかった。ただ、使用済みの下着がそうそうできるわけはなく、回数は限られる。だから、当然疑似デートは続けられた。

 一学期、だいたい週二のペースでやらされていたバイトだが、それも夏休みに入って時間とメニューが増えた分ペースも上がった。

 初めて渚がカラオケボックスで男に身体を触られたとき、グレコからは「そんな男にはめったにあたらない」と言われたが、そのあとも似たようなことはたびたびあった。

 最初のうちは「今度こそやめる」と訴えた渚も、その都度グレコに言いくるめられ続けているうちに、身体を触られたくらいじゃなんとも思わなくなってしまった。もちろん不快ではある。あるけど、それは通学の満員電車に押しこめられた不快さと同等に成り下がっていた。

 またそのころになると、グレコたちの渚に対する態度が明らかに上からのものに変わっていた。つまり、渚は学校で孤立するのがこわくてグレコたちから離れられない、と彼女たちが見極めたということだ。仲間にしてやっているって空気がビンビンに出ていた。

 渚は何度縁を切ろうと思ったことか。でも、切ったあとの教室で、「あー、アイツ、グレコにも見捨てられたんだ」みたいな空気が蔓延するだろうと想像すると思い切れなかった。

 当然の帰結として、バイト代からグレコたちに払う紹介料の割合も増えた。それに対して文句も言えない。

 渚は徐々にそんな状態にならされていった。

 そんなバイトに明け暮れた夏休みも終わりごろ、デートの相手との待ち合わせ場所にグレコが同伴した。こんなことは初めてなので嫌な予感がした。

「今日ってなにかあるの?」

 おそるおそる訊いてみる。

「デートに新しいオプションをつけたから、その説明。いきなりだとイチミチも戸惑うだろうと思って、途中までつき添ってやるんだよ」

 オプションと聞いてますます不安になる。

 そこへ男が現れた。これまでの相手にくらべれば若い。二十代前半といった感じ。だがひと目で、ふだんから女性に縁がないだろうと想像できるルックスだ。渚の体重の倍はありそうな身体。英語のロゴの入った黒のTシャツに黒のデニムパンツはどちらも年季が入っていた。

 男も、女ふたりが待っていることを事前に聞いていたんだろう、驚いたようすはない。「行こうか」と自らうながした。グレコも行き先を知っているふうでついていく。

 よく疑似デートで訪れるゲーセンやジャンカラのまえを素通りする。いったいどこに行くんだろうと、いぶかりながら歩いていくと――、着いたのはファッションホテルのまえ。いわゆるラブホだ。

「ちょっと、ここって」

「アタシのつき添いはここまで。ここから先、三人で入るのはおかしいだろ。中でこの人と二時間まったりデートしてきて。お金は今ここでもらうから、イチミチは受けとらなくて大丈夫」

「そんな、聞いてないよ。わたし、やだよ」

「もちろん、お触り以上はNGの約束だから、心配するようなこともなし。ね、お兄さんも、わかってるよね?」

「あぁわかってるよ、ちゃんと守るって。それじゃぁこれ前金ね」

 男がグレコにお金を渡す。いつもより額が多い。

「時間も守ってよ。二時間たったら、ちゃんとこの子を解放してよね。イチミチもさっさと行く。この中でカラオケ歌うと思ったら、これまでのデートと気分はそんな変わんないって」

 言いながらグレコは渚を男に押しつけた。いくらカラオケボックスでたびたび男に身体を触られていたからといって、こんな場所に入るのに抵抗がないわけがない。

 グレコは「行ってらっしゃい」と気軽に言って、背中を向けた。男は渚の手をつかんで中に入っていこうとする。渚は、すでにお金が支払われたという事実が頭に残って、拒むのにためらいが生まれた。勢いつれこまれた。

 結果、貞操は守れたが、渚は下着姿にされ、男からしつこく愛撫を受けた。カラオケどころじゃない。最初から最後までそればっかりだ。見たくないものまで見せられた。自分が下着を脱がされるのだけは必死で抵抗した。

 それから、お触りデートが渚のバイトのメニューに加えられた。ただし、そう頻繁ではなかったけれど。ただ、このメニューは自分しか与えられていないと、渚はうすうす気づいていた。

 その夏休みも終わり二学期が始まった。

 相変わらずバイトを繰り返す中、渚がいちばん恐れていたことが起きた。貞操を奪われたのだ。

 それは三回目のお触りデートだった。相手は三十代のふつうのサラリーマンだ。

 まず男に、ジュースと偽られアルコールを飲まされてしまった。中学生のとき、友だちと遊びで飲んだことはあったけど、それはほんの舐める程度。このときはジュースだと思いこんでいたので、勢いよく流しこんだ。すぐに変だと気づいたが遅かった。

 みるみる気分が悪くなり、頭がぼんやりしてきた。そのあと勝手にベッドに移された。無抵抗で服を脱がされて身体を触られた。されていることはわかっているのに、どこかひとごとだった。朦朧とする中、下腹部に痛みが襲った。強烈だった。なにを言ったか憶えてないが、とにかくわめき散らしたと思う。

 終わったあと、男は何度も謝った。余分にお金を渡された。しかし、渚はお金どころじゃなかった。

 情けなかった。人生が終わったような気分だった。もう学校でボッチになってもいい。絶対グレコたちと別れようと心に決めた。

 紹介料を払う待ち合わせの場で、渚はグレコたちに泣きながらバイトをやめさせてほしいと懇願した。学校で無視されてもかまわないからとも。

 グレコは、場所を変えて落ち着いて話し合おうと、渚を地下街の貸しロッカーの並ぶ、人気のない奥まったところにつれていった。

 そこで渚は初めて肉体的な暴力を受けた。三人に囲まれ、殴られ蹴られた。彼女たちが自分に向かってなにか糾弾しているのだけど、渚の耳にはまったく届いてなかった。痛みを受けながら、ぼんやり自分はどんな悪いことをしたんだろうかと考えていた。

 そして彼女たちから逃れられないのだと悟った。

 それ以後、グレコたちはたがを外したように、渚を恐怖で支配することを隠そうともしなかった。より、威圧的にふるまった。

 渚はそれを、なかば罰のように受け入れた。命令されるまま、バイトを続けた。

 お触りデートにはよほど用心して挑んだけれど、何度か同じような目に遭った。そのたび、心が黒く塗られていくようだった。

 もうふつうの女子高生の生活にはもどれない。無性に中学のころが懐かしかった。

 なにがいけなかったんだろう。どこで間違ったんだろう。

 公立高校に受からなかったから? さっさと教室の輪に入っていかなかったから? 部活に入らなかったから? グレコたちの本性を見抜けなかったから?

 どれも正解でどれも間違いのように思えた。

 家ではまともに両親の顔を見られなくなった。口数が少なくなり、食事をするとき以外、自室に閉じこもるようになった。ママの自分を気遣う空気を痛いほど感じていたが、うす汚れた自分を見せるのがこわくて向き合うことができなかった。

 高校に入学するまでは――、グレコたちに出会うまでは――、〝バイト〟を始まるまでは――、渚にとって世界は外側に大きくひらかれていた。それが今では、世界が渚を拒絶しているように感じた。自分ひとり、ピンッと指で弾かれたみたいに。


 渚の身体はグレコたちをまくように、デパートのフロアや地下街を抜けて走り続けた。身体を自分で動かさなくても息は上がって苦しくなる。渚はこの事実に妙に感心した。

 最終的にF駅にたどり着いた。最終的と判断した理由は、そこで身体の主導権が渚にもどったからだ。まえぶれなく身体を任されて崩れそうになるのをなんとかこらえた。

 とにかく家に帰ろう。この現象について考察するのはそれからだ。こうなった以上、今はただグレコたちに見つからないよう帰らなくちゃ。

 渚は電車に乗った。

 とりあえず冬休みが終わるまでグレコたちとは顔を合わせないでおこう。自分の中のもうひとつの人格は、彼女たちの理不尽さに黙っていられないようだ。次に会ってもまた今日のようなことを繰り返すかもしれない。今日はうまく逃げられたが、次はどうだかわからない。なら会わないまでだ。

 それでも、学校が始まってしまうと会わないわけにはいかない。それまでにこの現象について、なんらかの方策を見つけないといけない。

 携帯電話の電源もこの場で切った。当分は切ったままにしておこう。

 そこまで考えて、渚は急に可笑しくなった。

 一般的に、こんな奇妙奇天烈なことが自分の身に降りかかった場合、人はもっととり乱しパニックに陥るものじゃないだろうか。それなのに、現在の自分はそこまでじゃない。たしかに、最初混乱はしたけど、意外と冷静に現実的な対処をしようと、自分なりに分析し考察している。そのことが可笑しかった。

 なんか、リラックスしてる。変な感じ。

 最近、ずっと心が緊張しっぱなしだった。始終グレコたちを気にして、ガチガチに縛られていたせいだ。それが一時的であるけど解放されたから――。変に晴れ晴れしてる。こんな気分は久しぶりだ。

 途中、電車がN駅に着いたとき、理由もなくこみ上げてくるものがあった。言葉にするのは難しいけど、最近忘れていた気持ち。たとえば、小学生の夏休みが終わるときのような、ディズニーランドに行って閉園時間が近づいたときような、ベッドに入って好きな男の子のことを考えるときのような、切ない気持ち。

 これはいったい……。

 この駅は、通学で通過することはあっても下りたことは一度もない。知り合いが住んでいるわけでもない。なんの思い入れもない駅であり街だった。

 電車が発車する。

 わずかに――、また身体を乗っとられて、ここで勝手に下車するんじゃないか、と身がまえたが、そうはならなかった。ただ、駅を離れるにつれ、後ろ髪を引かれる思いが道をさえぎる霧のように、渚の頭に立ちこめた。


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