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晶が高校に進学してまもなく、母さんが体調を崩すことが多くなった。もともと身体が丈夫なほうではなかったところへ、無理をして夜勤を続けたことが原因だろう。晶は日勤に変えてもらうよう勧めて、母さんもそれにならった。それでも仕事を休みがちだった。
少しでも家計をたすけるため、晶はバイトを始めた。
バイトを始めて思い知らされた。働いて金をもらうには、これまで晶がとってきた周囲との関係の築き方では、話しにならないってことだ。中学の教室での晶のままいくと一日でクビだ。
ある程度の譲歩はやむを得ない。
要するに、晶が嫌いな――人に話を合わせたり、気に入らない相手を受け入れたり、ときには愛想笑いすらしなくてはやっていけないってこと。そうなると、バイトのときだけというわけにはいかなくなる。そういうことはふだんから身につけていないと、とっさにうまくいくわけがない。だから晶は変わった。これはもうバイトに限った話じゃなかった。
母さんの体調を考えれば、高校を卒業して自分が母さんを支えていかなくてはならない。社会に出て働くのはバイト以上に人間関係が大事になるのは容易に想像がつく。
晶は学校でも周囲に色を合わせ始めた。
周囲との距離を縮めた――のではない。距離は縮まらない。縮まっているように見せる。そうやって、周囲に溶けこまない晶から、周囲と見分けのつかない晶へと変わっていった。
そうすると予想もしないことが起こる。
クラスに晶の友だちを称する生徒が現れる。晶を含めたグループができる。晶に話しかける女子が複数現れる。極めつけは、あるクラスメイトの女子から告白されたことだ。あとあとギクシャクしないよう断るすべも、そのとき学んだ。
最初は居心地が悪かった晶も、次第に慣れていった。けっしてなじむことはなかったが――。
高二の文化祭で偶然貫奈と再会した。時間にしてわずか数分にも満たなかったが、卒業以来会うのは初めてだ。晶と同じ高校には貫奈の親友だった浅井がいるから、呼ばれて遊びにきたのだろう。
意外だったのは、あの三原といっしょにいたことだ。たしかふたりは同じ女子校に進学したはずだが、それにしてもこのふたりがつるむなんて、女子の感覚は本当にわからない。
二年近く見ていないあいだに、貫奈はさらにきれいになっていた。化粧っ気はまったくなく、服装もその辺の女子高生の標準だったが、自分のスペックを意識してない無防備だからこそ、よけいまえに出てくるような美しさだ。
同伴の三原だって、それなりにレベルの高い美少女だけど、メイクやトレンドの服で武装して守られた、粗の見え隠れする美しさ。それがよくないとは言わないし、そちらが好みという人間もいるだろうが、貫奈と並ぶと、やはり勝ち目はないように思える。
晶には、貫奈はより近寄りがたい女子になっていた。
高校に進んでから、団地のガキどもとはほとんど接点がなくなっていた。たまに道で会うと声はかけるが、彼らが晶の家にくることや、いっしょに遊ぶことはなくなった。晶自身、学校ごとやバイトで忙しかったこともあるし、彼らも中学生になり、それぞれ世界が広がったこともあるだろう。気にかけてなかったことはないが、やはり、その意識はうすれていた。
高三の一学期が始まってすぐだった。
学校から帰宅する途中、団地脇の道を上っていると、B棟のそばの道に数台のパトカーやワゴン車がとまっていた。不審に思いB棟の敷地へ続く階段を上ると制服の警官にとめられた。棟のまえにはひと目で警官とわかる人物のほかに、スーツ姿の男たちが数名いた。
晶を呼びとめた警官から、ここの住人かどうか確認される。違うと答えると引き返すよう指示された。なにがあったのか訊いても答えてくれない。しかたなく階段を引き返すと、「アキラくーん」と声をかけられた。
ヨウスケだった。帰宅したばかりなのか、中学の制服姿だ。同じM団地のA棟に住む男子で、彼も昔は晶の家によく遊びにきていた。
「おぅヨウスケ、ここでなにかあったのか知ってるか?」
それにヨウスケが答えるより先に、彼の顔がグシャグシャとつぶれ、今にも泣きそうになったのを見て、胸に土くれがつまったようになる。
「タケトが――」
「タケトがどうした?」
「タケトがタケトの父ちゃんに殴られて――死んじゃった」
「バカ言うな。そんな簡単に人が死ぬか」
「そうだけどさぁ――、ウチの母ちゃんがそう言ったんだ。タケト、今日学校にきてなかったし、オレもゆうべ救急車のサイレンを聞いた気がするし……」
冗談だろ。
晶は今下りてきたばかりの階段をかけ上がった。今しがた話した警官に近づいた。
「遠山健人が殺されたって本当ですか?」
答えてくれない。
「アイツ、オレの弟みたいなヤツなんです」
晶の熱に気圧されたのか、警官は声には出さず、うなずいて返した。それで十分だった。
タケトは殺された。自分の父親に――。
目のまえをクモの巣がおおったように一瞬あたりがぼやけた。足下の地面が粘土のように感じて歩きづらい。フラフラと引き返すと、待ちかまえていたヨウスケが祈るような顔で晶の顔を見る。
「アキラくん、やっぱりタケトは――」
やっぱり――と口にしながら、晶に否定してほしいのだということが伝わる。そもそもヨウスケがここにやってきたのも、タケトが死んでないことを確認したかったに違いないのだ。だが晶は事実を言うよりなかった。
「ああ、ヨウスケの言う通りだった」
「そうかぁ……」
消沈して半べそをかくヨウスケをA棟まで送り、晶自身は家には帰らず、その足で河川敷に向かった。
橋のたもとから土手の上を少し歩き、漫然と夕暮れの街のようすを眺めた。引っ越してきたころから代わり映えのしない景色だ。ここから見ると、どの家もくすんだ色に映って、いかにも古臭い街並みだ。晶にはこの景色が、うんざりする気持ちとあきらめのような気持ち、その両方が同じ割合でブレンドされた空気をまとっているように映る。
団地のあのガキたちにはどんなふうに映っていたのだろう。
それぞれ違うように見えている景色を、ひとりひとりからたしかめることはしなかった。近くにはいるが、お互い踏みこめない部分だからだ。ただ漠然と自分の見えているものに、どこか近いものがあるんじゃないかと思っていた。
タケトはどうだ?
ガキたちの中でも、自分にいちばん近いと思っていたのがタケトだった。
タケトとタケトの母親もタケトの父親から暴力を受けていた。タケトはもうひとつ、自分の兄からも暴力を受けていた。日常に暴力が常態としてある環境。それは、引っ越してくるまえの晶と同じだ。
家庭の問題をタケトははっきりとは口にしなかったが、なにかあるごとに晶にはたやすく透けて見えた。だから、タケトが晶の家に逃げこんできたときはいつでも受け入れていたし、タケトが話す気があるときは相談にも乗っていた。
また、タケトはほかの同級生とくらべて身体が小さかった。学年が実際のそれより必ず下に見られるほどだ。学校ではよくイジメられていたが、そんな身体でも勇猛に立ち向かっていた。もちろん、いつも負けていた。
結局、あのころ晶がタケトにしてやったことは、ケンカのやり方を教えたぐらいだった。そして、自分が高校に通い出してからはタケトの家の事情を思い返すこともなかった。
自分は両親の離婚によって暴力的な環境から抜け出せたけれど、タケトのそれはずっと続いていた。わかっていたのに考えなかった。心のどこかで、アイツも中学生になったんだし、もう自力でなんとかできるだろうと思っていた。
オレにはタケトの死をとめることができたんじゃないか、という思いが底知れず湧き上がってきた。
タケトが死ななきゃならなかった理由なんかひとつもない。そして晶はタケトのおかれた立場をだれより理解していた。それなのに死なせてしまった。
タケトの目にこの街がどんなふうに映っていたのか、もう永久に訊くことはできないんだ。
晶は自分の腕を強く引っぱられて、そばでその腕を両手でつかむ貫奈の存在に気づいた。
「どうして――」ここにオマエがいるんだ。
それに自分の右手の甲が火を噴くように熱い。うす暗くてはっきりしないが血で汚れている。いや、いつのまに日が暮れたんだ?
記憶がやけに曖昧だった。たしか土手を川原に下りて、タケトがよくひとりで時間をつぶしてた橋の下まできて、それから――。
それから、怒りに任せて壁を殴っていた気もする。怒り? 怒りってなんだ? タケトの親父に対して? 自分のふがいなさか?
――と、貫奈が声を上げて泣き出した。子どもみたいにしゃくり上げて涙をボロボロこぼして。ちょっと待てよ。いきなり、なんだよ。どうしてオレなんかのまえでそんな無防備に泣けるんだ。
晶は女の子に泣かれたことなどなかったのでかなりまごついた。とりあえず彼女を落ち着かせようと、肩に手を添えて近くの石段までつれていき座らせた。らしくないな、と思いながら自分もその横に座る。
そういえば中三のときも、貫奈は晶にけっこう感情をぶつけてきていた。ふだんは自分を主張しないくせに、ふたりになるといつも言い合いみたいになって別れていた気がする。
今ならわかる。あのころ貫奈は自分をさらして、晶との距離を縮めようとしていたんだ。だけど晶は貫奈を遠ざけようとしていた。だってあまりに自分と違いすぎたから。
「……ニュースで、トウヤマくんが……」
「あぁ……」
少し落ち着いたのか、貫奈が口をひらいた。
貫奈はテレビのニュースでタケトのことを知ってここまできたようだ。そして一心に壁を殴りつけていた晶を見つけてとめてくれた。
晶は、すでにタケトのことがニュースになっていることに驚いた。貫奈がここにきたことに驚いた。
彼女はそれほどタケトを知っているわけではないのに、アイツのために涙を流した。晶に、これを偽善だなんて切り捨てられるはずがない。
いや、そうじゃない。嬉しかった。貫奈の気持ちが嬉しかったんだ。
晶はタケトの死と向き合い、今までになく心が弱っていた。
そのせいか、だれかに自分を吐露したかった。弱音を吐きたかった。これまでそんな気になったことはないし、そういう相手もいなかった。だけど、今なら、横にいる貫奈になら、全部ぶちまけられる気がした。理由は説明できない。ただ感覚でそう思った。
「オレは……タケトのこと、たすけてやれなかった……」
晶は言葉をしぼり出す。
タケトの家庭環境に自分の過去がかぶること。それなのにタケトの死を阻止できなかった自分を悔やんでいること。自分の親父から受けた暴力。その親父を殺すことを考えるほど憎んでいたこと。実際に殺人計画を練ったこと。母さんが離婚までこぎつけたこと。
これまで自分の中で消化しても消化しきれなかったクソみたいな記憶や感情を洗いざらい吐き出した。以前なら、貫奈にこんな話は聞かせたくなかったのに。自分でも思いがけなかった。
聞いてもらっているあいだも、また昔みたいに言い合いになったりしたけど、それはそれで、よけいに安心できた。
それまで弱音を吐く行為を侮蔑してきたが、それで救われることもあるのだと思い直した。
晶は初めて人まえで涙を見せた。