2-1
「――話すから、ちゃんと話すから、とにかく最後まで聞いてくれる?」
市道は涙で滲んだ目を拭いながら言った。
「わかった」
晶はおとなしく答えた。この子は頭がどうかしているのかもしれないが、晶に真剣に訴えたいことがあるようだ。とりあえず話を聞こう。
それにしても、彼女の気迫に押され、魔法にかかった気分になって、一瞬でもここに貫奈がいると感じてしまった自分の感覚に苦笑した。
だが、そこから市道が話し始めた物語――晶はそう思った――は、晶のさきほどの感覚を上まわるファンタジーだった。
去年の暮れのある朝、彼女は目覚めると、そこにいるはずのないだれかの視線を感じ、自分の中に違和感をおぼえた。その感覚は時間を増すごとにはっきりとしていった。
怪異は友だちと会っている最中に起こった。
突然、頭の中にだれかの声が聞こえ、口が自分の意思とは関係なくしゃべり出し、あろうことか身体まで意思に反して動き出したのだ。つまり、身体を乗っとられた――と彼女がそう表現した。ただし、それは一時的なもので、身体はすぐに彼女にもどってきた。
またその帰り、電車に乗っていた際、N駅――晶の地元にあるJRの駅だ――に停車したとき、心を切ないような気持ちが支配した。彼女はNには下り立ったことさえなく、そのような気持ちに心あたりはなかった。だから、この感情は自分を乗っとった何某かのもので、その何某はNにゆかりのある人物だと想像した。つまり、彼女は自分にNにゆかりのある何某かの霊がとりついていると考えたのだ。
後日、彼女はNを訪れ、その霊が何者か突きとめることにした。
Nに下り立つと、やはり異常に心がざわついた。そのうちまた、頭の中に声がした。ストラスブールと聞こえたという。そのあと身体を乗っとられ、着いた先がパティスリーの――ストラスブールだった。
次に、同じように身体を動かされて着いた先は、住宅街の一軒の家だった。操られた彼女は、ドアに手をかけ、インターホンを鳴らした。だが家人は留守だった。表札を見ると貫奈とあった。
そして今日、再びNを訪れた。
霊の気持ちに引っぱられて――最近彼女は霊の気持ちが少しならわかるらしい――貫奈の家に行き、この河川敷を訪れた。
晶の姿を見つけたとき、霊の心は激しく動揺した。頭の中に声が聞こえた。早川くん、と。続いて彼女も思わず口走った。
「早川くんっ」と。
これが市道の語った話を時系列に並べて要約したものだ。お世辞にも、彼女は話すのが上手とは言えず、絶えず話が前後して、さらに理解を難しくした。
たしかにこの物語を信じるなら、晶の姓を知っていたことや、晶が「貫奈?」と口走ったことに反応したことも説明できる。おまけにストラスブールという晶のバイト先の名まえまで知っていた説明にもなる。
が、しかし、こんなSFかホラーのような話をいきなり信じろというほうが無茶というものだ。それに、晶の姓やストラスブールを知っていたことも、労を惜しまなければ別の方法でいくらでも知り得ることができる話だ。どうしてそんなことをする必要があったかは皆目見当もつかないが。
最大のポイントは彼女の結論が、自分にとりついている霊は貫奈だと考えていることだ。
ま、この際、それはおいておくとして、最初に彼女に呼びかけられたとき、とっさに「貫奈?」と口から出たことがずっと引っかかってはいた。それに、そのあと市道の背後に感じた貫奈の存在も。常識では計れないなにか――。
どちらも勘違いと言ってしまえば簡単だが、それで済ましてはいけない気持ちがあるのもたしかだった。
だから、彼女の話の気になる一点をこちらから質すことにする。
「市道が、その――霊だっけ。その存在を初めて感じた日って、具体的にはいつのこと? ちゃんと憶えてる?」
「憶えてるよ。十二月二十五日、クリスマスの日の朝」
そうなのか?
「間違いない?」
「うん、イブの翌日だったからよく憶えているんだ。イブに嫌なことがあったし」
「そうか……」
本当に、本当にそこにいるのか、貫奈――。
「わたしの話、どう思った? 少しは――信じてくれる?」
探るように晶をうかがう市道。
「それに答えるまえに、オレの話も聞いてくれるか。――オレは去年の十二月二十四日の夜、貫奈って女子と待ち合わせをしていたんだ」
「二十四日? うそぉ、だって――」
「言いから聞けって。待ち合わせた場所はオレのバイト先で、ストラスブールっていうケーキ屋だ。オレのバイトが終わる六時に合わせて彼女がくる予定だった」
「予定?」
「そう、貫奈はいつまで待っても現れなかった。アイツは連絡なしで約束をすっぽかすようなヤツじゃなかったから、オレはなにかあったのかと心配しアイツの携帯に電話した。それが出なかった」
「そ、れで……」
「どういう経緯で知ったかは省くが、貫奈はそのころ事件に巻きこまれていた」
「……」
「貫奈はその日の昼間、用事でFにいたんだ。Fの北門街って言ったらわかるかな。あそこにあるライブハウスにいた。五時をすぎてそこを出て、オレに会うため駅に向かった。ちょうど駅まえ通りの一本上の山手幹線にかかった歩道橋を渡っているときだ、事件に巻きこまれたのは」
話を聞く市道の顔がわずかに引きつっている。晶は続ける。
「目撃証言によれば、貫奈は歩道橋の上を走っていたらしい。その後ろから、ひとりの中年の男が彼女を追いかけていた。男は途中で追いつき、彼女の背中を後ろから突き飛ばした。貫奈は走っていたところを押されたものだから、勢いよく倒れ、したたか身体を地面に打ちつけた。その彼女の身体を、なおも男はわざわざ引っぱり上げて、今度は蹴りつけた。貫奈は歩道橋の端まで飛ばされた。そのとき男は貫奈に対して盗人という言葉でなじったらしい。そして――次が最後だ。必死で起き上がろうとしていた貫奈を、男は蹴り飛ばし、階段の下まで転落させたんだ」
こうしてあらためて事件の話をすると、身体を焼かれたように身悶えしそうになる。
「ぬ、貫奈さんは、どうしてその男に追いかけられていたの?」
「貫奈自身、男に追いかけられていたことを認識していたかどうかはわからない。目撃した人の話では、貫奈の手には男物のバッグが握られていたらしい。倒れて落としたそのバッグを、最後にその男が拾って持ち去ったというから、男はそのバッグをとり返すために貫奈を追いかけていた、という見方が有力だな。ただ、貫奈が男から盗んだ、なんて絶対ありえないんだ。アイツはそんなことするはずがない。だから、おおかた彼女が拾ったのを盗んだと勘違いされたのかもしれない」
「男物のバッグ――って?」
「革のクラッチバッグだよ。よく中年の親父が持ってるような、黒のクラッチバッグ」
そのとたん、市道の顔がみるみる歪んだ。そして、頭を抱えてしゃがみこみ、声を上げて泣き始めた。