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中学に進学した晶は小学生のころよりさらに自分を押し殺しすごした。
晶の中学は三つの小学校から生徒が集まっていた。そのせいで、晶の素性を知るものの割合も減り、家庭のことであらぬ噂をされたり、からまれたりすることもなくなった。生徒全体の数が圧倒的に増え、晶の個性が埋没しやすかったこともあるだろう。また、孤立して逆に目立つことがないよう、ほかの男子ともある程度のコミュニケーションはとるようにした。その中で、友だちといえるのは、小学生のとき同じクラスでわずかだが心を許していた岡崎という生徒のみ。
彼は自分でも認めるオタクだった。美少女アニメオタクだ。イラストを描くのもうまく、アニメに興味のない晶でも彼には絵の才能を感じた。ただ描くイラストにかなり偏りがあり、そのことでクラスメイトから揶揄されることも多かった。
晶が生活環境や母親のことでクラスメイトから中傷されていたころ、岡崎は意に介さず接してきたので、自然と彼が唯一の話し相手になり、それは中学にも持ち越されていた。
中二から中三の春休み、大きな事件があった。
離婚した父親が晶の家を訪ねてきた。母さんに会いにきたのだ。
晶の両親が離婚した理由は父親のDVだ。晶が物心ついたときから、親父は日常的に母さんに暴力をふるっていた。
その親父が四年ぶりに現れた。
親父の職業は高校教師で、いっしょに暮らしていたころ、外面はすこぶるよかった。その反動か家内では本性を隠そうともしなかった。
親父が暴力をふるうきっかけは、晶が憶えている限り、どれもつまらないものばかりだった。のんびりした母さんが、自分が帰宅する時間までに夕食の準備を終えていないというだけで、また、母さんが親父をちょっとした冗談のつもりでからかった言葉尻をつかまえて、花のようにか細い母さんを蹴り飛ばした。自分のミスや不機嫌な気分を母さんのせいにして暴言を浴びせる、そんないわれのないやつあたりも多々あった。
とにかく気に入らないことには暴力で気持ちを伝える人間だ。
また異常に母さんを束縛した。外に働きに出さないのはもちろん、男性俳優を話題にすることや、宅配業者の男性との接触にさえ過敏に反応するような懐の狭い男だった。
そして夫婦の営みに異常な執心を持っていた。直前まで散々母さんをないがしろにしていても、その時間には毎日のように同衾していたようだ。隣室で寝ている晶が、獣が獲物をむさぼるような異様な気配で目を覚ますほどに。
晶が小学校に上がると、親父の暴力はその晶にもおよんだ。
自分が教師だからだろう。こと書き方に関してうるさかった。それは親としてもふつうのことだが、指導のしかたに問題があった。
親父の思うように晶ができないと、鉛筆を持つ手を腫れるほど何度もたたかれた。文字が間違っていなくとも、鉛筆運びが美しくないというだけでたたかれる。それは低学年の晶には理解できない注文だった。
おかげで晶は文字を書くことがうまくなり、机に向かう姿勢も正しく備わり、学校で注意されることもなかった。だがその代償として体罰は大きすぎだ。
晶が通俗なテレビ番組を見ていると、黙って張り手が飛んでくる。友だちから借りたマンガをとり上げられ、そのマンガではたかれたこともあった。
学年が進むと、自分の父親は特別だと理解し始めた。それまでは漠然と、どこの家庭の父親も自分の父親と同じようなものだろうと思っていた。それがそうじゃなかった。ショックだった。
晶は親父のまえで、あまり口をきかなくなった。すると、それも親父は気に入らないのか、意味もなく張り倒されることが増えた。大好きな母さんを守るため、いっそう親父の暴力を自分に向けさせようと、自らふたりのあいだに割って入った。
殴られるのは痛い。でもそれだけだ。そういう感覚は長いあいだ受けた体罰により自然と晶の中にでき上がったものだ。自分が殴られるより、母さんの淋しそうに笑う顔を見たくないという思いが強かった。
母さんは、いくら親父の暴力を受けても、怒らず言い返さず逃げ出さず、ただ淋しそうに笑う人だった。頭の回路が少しおかしいのかもしれない。その感覚が晶には理解できなかったし、忌まわしい家庭の象徴だった。
そんなもの、永遠に消し去りたい。そのためには、親父の存在を消すよりないと思った。
晶は小学四年生になって、親父を殺すことを決意した。自分の犯行だと疑われないように、完全犯罪を目論んだ。殺人計画書を作った。遊びや妄想じゃない。真剣だった。
しかしその計画書が母さんに見つかり、計画はあっけなく阻止された。いつもはふわふわした母さんも、このときばかりは涙を流し自分が人を殺しそうな顔で晶を諭した。これには晶もうなずくしかなかった。
その日から、今度は母さんが親父と離婚することを決意した。未遂であろうと、晶に犯罪を行わせないためだった。
時間はかかったが、四年生の三学期には離婚が成立し、晶と母さんは、今のM団地で新しい生活を始めた。
それなのに、四年たって親父が訪ねてきた。
親父にはこの場所を教えてないはずだった。それに、今さらどんな理由で会いにくるというのか。
一度目に親父が訪ねてきたとき、日は暮れて、母さんはすでに仕事に出ていた。
暮夜に鳴るチャイムに、晶は、どうせ近所の小学生のだれかが、いつものように家に居づらくなり、晶のところに逃げこんできたんだろうと思った。よくあることだった。
同じ団地に住む彼らは、晶をガキ大将のように慕っていた。大なり小なり家庭になにかしら問題があり、晶の家を勝手にシェルターのように思いこんでいた。
今日はだれだ。たしかめもせず、扉をあけた。
そこに立っていた人物を、最初晶はだれだか気づかなかった。それほど親父の風貌は変わっていた。
「晶か、久しぶりだな」
その声で自分の父親だと悟った。
晶の記憶にある親父は、休みの日であっても、外出時には必ず、髪は分け目をつけて固め、髭は剃り、襟のあるシャツのボタンをきちんと上までとめるような人間だった。四年ぶりに再会した親父は、伸びきった髪を寝起きのような状態で放置し、無精髭を生やしていた。シャツのボタンは上からふたつがあいていた。
いきなり現れたことと、その容姿に動揺し、晶は言葉がすぐに出なかった。
「咲子はいるか?」
なにも親父の口から時候の挨拶や近況への気遣いが聞きたかったわけじゃない。でも、こんなヤツでも初めになにか言うべきことがあるんじゃないか。
それなのに、いきなり母さんを呼び捨てにされて、晶は頭に血が逆流した。
「オマエ」
言った瞬間、親父の胸ぐらをつかみ上げていた。
四年まえとは晶も体格が違う。もちろん、親父にくらべれば、まだまだ未発達で頼りない棒切れみたいなものだが、殴り合って負ける気はしなかった。姓が変わってから、そのくらい晶は自ら暴力をふるうことに慣れてしまっていた。
しかし親父は抵抗しなかった。晶につかまれるまま虚ろな目を向けるだけだ。拍子抜けする。晶はつかんだ手で親父の身体を押して、玄関から遠ざけた。
「今ごろなにしにきた。とっとと帰れよ」
まるでドラマのような陳腐なセリフを吐いた。
「咲子を呼んでくれ」
親父はその一点張りだ。それがまた晶の静まりかけた火種を焚きつけた。黙って、親父の腹部目がけて足裏で蹴りを入れた。
親父は腹を押さえてうずくまる。その姿を見て、怒りともさげすみとも、憐憫ともつかない吐き気のような感情が湧く。こんな姿、見たくもない。
「母さんはいない。もう帰れよ」
それ以上相手を見もせず、乱暴に扉をしめた。しつこくチャイムを鳴らされるかとも思ったが、親父はあっさり帰ったらしく、その日はそれで終わった。
二度目は、中三に進級してすぐだ。
晶が学校から帰宅すると玄関に明らかに男物の革靴があった。それを見たとたん、再び親父がきたことを悟った。それどころか母さんは親父を中に上げてしまったのだと。
手にしていたカバンをどうしたのか憶えてない。とっさにかけ上がり、狭い台所兼居間に飛びこんだ。いちばんに親父の背中が目に入った。親父と母さんは食卓の角を挟んで座っていた。母さんが驚きと悲しみの同居した顔で晶を見た。
「晶、待って」
母さんはなにを待ってほしかったんだろう。
親父がふり返る。晶の形相を見てなのか、立ち上がりかける。が、そのまえに晶が親父の襟首をつかんで引っぱり上げ、立たせた。
「オマエ、またなにしにきたっ!」
感情を声にぶつけて怒鳴った。それに対し親父は気味の悪いうす笑いを浮かべ、
「おまえたちに会いにきたんだ」とのたまった。
晶はそれ以上言い合いをすることはせず、親父をつかんだまま玄関まで引きずって行った。靴をはかせ、そのまま表に出す。そのときになって、晶は自分が土足で家に上がっていたことに気づいた。
親父は多少足を踏ん張って抵抗したものの、暴れたり暴言を吐いたりせず晶の思うままになっていた。母さんが後ろでなにか親父をかばうようなことを言っていたが、耳に入れなかった。
表に出ると親父の背中を突くようにして、いっしょに階段を下りた。そのあいだ親父は、「晶、わたしの話を聞く気はないか」などととぼけたことを言った。が、それらも無視した。
一階に着き棟から離れ敷地を出る。晶は羊を追いこむ牧羊犬のように親父を道へ追いやる。親父は、そこまでして自分についてくる晶を不審に思ったのだろう。道を下りながら、「今日はもう帰るから心配するな」と晶に帰るよううながした。
だが晶はこのまま親父を帰す気はまったくなかった。
晶の腹の中には、ヌラヌラとした得体のしれない両生類がうごめいていた。それは、憎悪とひと言では片づけられないやっかいな生き物だ。これまで晶が無意識にとじこめてきた感情――それは、世界への諦めであり、無力さに対する憤りであり、あたりまえの日常への嫉妬だ――が、はけ口を探してひとつになったもの。それが今、父親に向けた怒りの潮流に乗って、晶の外へ出ていこうとしていた。
晶の住むE棟から下のD棟に行くあいだに、昔資材おき場だった空き地があった。囲いはなかったが、雑草におおわれ子どもたちも近寄らない場所だ。
その脇を通りかかったとき、晶は親父の身体をその空き地に突き飛ばした。
「お、おい、なにするんだ」
よろけて面食らった声を上げる親父。コイツ、本当にあの親父か。晶は気が狂いそうだった。コイツに、こんなヤツに、自分と母さんは苦しめられてきたのか。
晶は声を出さず、黙々と親父の身体を殴りつけた。蹴りつけた。
周囲にはうす闇がじわじわと霧のように広がり始めていた。空き地から街灯までの距離は遠く、お互いの輪郭が宵闇ににじみ、そのことが現実感を奪う。
親父の抵抗は団地のガキどものそれと大差なかった。晶はほとんど反撃されることなく親父を痛めつけた。途中から親父は座りこんで身体を抱え、ただ守るだけになった。
親父の身体に自分の拳や靴先がめりこむたび、晶の中からなにかが抜けていく。最初、それはためこんだ憎悪の類だと思った。だけど違った。
そのなにかが抜けていけばいくほど、晶をますます泥沼にのめりこむような感覚が支配した。
クソッ、クソッ、クソッ!
なんだこれ、なにがどうなってるっていうんだ?
晶は自分の目から涙が溢れとまらなくなっていることに気づいた。
クソッ、クソッ、クソッ!
全部、オマエのせいだ。全部。
いっそう強く親父を蹴りつけた。
狂ったように――。
と、
うぇっ!
猛烈な吐き気がこみ上げてきて、晶は親父から離れ、上ってきたものを吐き出した。胃が裏返るかと思うほど喉を逆流してくる感覚があり、晶は吐き出し続けた。実際、ものが出てきたのは最初だけで、あとは唾液か胃液かわからないような液がかろうじて口から垂れるだけだった。
吐き終えた晶は親父を見た。身体を抱え倒れている。一瞬死んだのかと思ったが、わずかに呻くような声が聞こえた。
晶はゆっくりと歩き空き地を出た。家にはもどらず、道路を下った。あの河川敷を目指した。
貫奈亜以乃を意識したのは、その日を前後したころだった。