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「早川くんっ!」
背後から呼ばれ、心臓を鷲づかみにされたように身体がしびれる。
「貫奈?」
反射的に答えた。どうしてそんな名まえが出たのか、そう思ったのか。
晶は口にしてすぐ否定した。絶対そこにいるはずのない人物の名まえを口にした自分に戸惑った。
はたして、ふり返り、そこに立っていたのは彼女じゃなかった。当然だ。
知らない子だった。年齢は――どうだろう。自分と同じか、少し年下に映る。彼女と似ているかといえば、似てない。髪型や背恰好は近いが、顔の印象がまるで違う。
貫奈の顔立ちは、その性格とは正反対の派手やかな作りをしていた。中学三年のとき、晶と同じクラスだったが、そのクラスでも群を抜いた美少女だった。初対面だと近寄りがたいほどだ。ただ、貫奈自身にその自覚は皆無だったけれど。それくらい彼女は自分の持つパーソナリティーを過小評価する傾向にあった。彼女をよく知らない人間なら嫌味に聞こえてムカつくくらいに。
晶の目のまえの女子は、よくも悪くも凡庸な顔立ちをしていた。つまり、悲観するような容姿ではない程度に。貫奈とくらべれば評価が辛くもなる。
なら声が似ていたのか――。そうかもしれない。が、そうでない気もする。
それにしても、だれだろう?
まるで憶えがなかった。相手はふり向いた晶を見て、驚きとも戸惑いともつかない表情を浮かべているが、次の言葉を投げてこない。
人間違い? いや、早川ってはっきり聞こえた。
晶のことを知っているのはたしかなんだろう。一方的に相手に知られているのかもしれないが――。それにしたって、こんなローカルな場所で、たまたま見つけて声をかける、なんてことがあるだろうか。それとも目的を持って晶を探しにきたとでもいうのか。
相手があまりになにも言ってこないので、不本意だがこちらから質すことにする。
「どっかで会ったっけ? ごめん、まったく憶えてないんだけど」
晶が両親の離婚に伴って、今の団地に越してきたのは、小学四年生の三学期のこと。
M団地は低額所得者を優先で入居させる公営団地だ。小学生も高学年ともなればその辺の事情を理解する生徒もいる。子どもは残酷だ。着ている服や靴や持ち物で簡単に他人をおとしめる。それが住んでいる場所でも同じだ。
晶はもとから教室で目立つ生徒ではなかったので、転校先でもおとなしくしていた。それでも嗅覚の鋭い生徒はどこにでもいる。晶の転校の原因が両親の離婚だということやM団地に住んでいることを聞きつけ、陰口をたたき、からかうヤツも出てきた。
だから、晶はしょっちゅうケンカをした。特に母親のことで悪く言われるのは我慢ならなかった。
母さんは離婚するまで正社員で働いた経験がない。その母さんが、離婚してから夜間、食品工場のラインで働き始めた。経験や資格のない彼女が少しでも所得を増やすには、そういう選択肢しかなかったんだろう。
それなのにクラスメイトは晶の母親が水商売をしていると噂した。ひどいときは風俗で働いていると中傷した。それが原因で、晶はクラスの男子生徒ほぼ全員を相手にケンカしたこともあった。当然母さんは学校に呼び出しを受けた。
ただ、水商売をしていると思われるような要因が母さん自身になくはなかった。
母さんは特別きれいだった。
きれいなお母さん、というのではない。特別きれいな女性だった。それくらいまわりの母親たちにくらべて、美々しく若やかに映った。だれからも母親に見られなかった。
服装や髪型にメイクのセンス、そのどれも明るく時代に合っていたが、けっして若作りには見えず、より彼女の生まれ持った美しさを際立たせていた。それが人によって水商売をしているように見えることもあっただろう。
また、母さんは心に所帯じみたところがなく、それどころか晶から見てもふるまいが少女のように思えることがあり、それが彼女の若さの根源だと晶は信じていた。
母さんは、あたかも日常生活における摩擦を無効化する天真爛漫な天使だった。
自分の母親をそんなふうに称えるのは気持ち悪いことだと晶も気づいていたが、それでも称えずにいられなかった。自分がマザコンだという自覚もあった。
その母さんが離婚を機に生活のために働き出した。慣れない労働に辛い思いをしていないはずはないのに、母さんはそれをおくびにも見せなかった。晶のまえでは少女のようにケラケラと笑った。
そういう姿を見て思った。母さんを守るのは自分だ。侮辱するヤツはどんな人間だろうと許さない。だから、そういうヤツは片っ端から殴りつけてやった。
友だちはほとんどできなかったが、晶は端から自分とクラスメイトのあいだには、行ききできない深い溝があると感じていたので、できなくてあたりまえだし、それで本望だった。
それでも鬱屈したものがたまると団地近くの河川敷を訪れた。土手の上からくすんだ街並みを見渡し、川縁に立ち、ぬるい川の流れを眺めた。団地の部屋にいるよりよほど気がまぎれた。だからといって単純に気が晴れることはない。
ここから見える、くすんだ街や川の流れが、晶の心情になんとなく寄りそって思えただけだ。それは中学高校と年を重ねても変わらなかった。
今日も、晶は持て余した感情を抱えて、寒空の下、川原をぶらついていた。憂慮することがあった。
そんなとき、突然声をかけられた。その声をあろうことか、貫奈と間違えてしまった。
「どっかで会ったっけ? ごめん、まったく憶えてないんだけど」
「違うの。今呼んだのはわたしじゃなくて――、いや、わたしには違いないけど、わたしはあなたのこと知らなくて、その……ごめんなさい」
見知らぬ少女は焦って混乱しているのか、晶の問いに、しどろもどろ意味不明な言葉を返した。あらためて聞いたその声は、貫奈のそれとあまり似てなかった。
「知らないって――、でも今オレのこと、早川って呼んだだろ。それはどこでわかったの?」
「それは……、たぶん、話しても信じてくれないと思う」
ますますわけのわからないことを言い出す。こんな子は放っておいて立ち去ろうとも考えたが、なにか引っかかる。
「じゃぁまず、オマエはだれなの?」
「わたし? わたしは市道、市道渚。Y女子の一年」
「ふたつ年下か。オレのこと、知ってるのかもしらないけど、一応名乗ると、オレは早川晶。で、市道はこのあたりに住んでるの?」
「ううん、違う。でも市内。Aに住んでる」
「けっこう遠いな。じゃぁどうしてこんなところにいるの?」
いちいちこちらから訊くのは面倒だけど、あまり頭のいい子じゃなさそうだからしかたない。
「それは……、それもたぶん信じてもらえないと思う」
またか。これ以上問答するのも時間の無駄に思えてきた。すると、
「ちょっと待って、重大なこと思い出した」
市道と名乗る少女は声を上げ、それまでの戸惑うような表情から一転、焦点の合った顔を向けて晶を見た。
「は、早川さん、さっきわたしが呼びかけたとき、間違えて、たしか貫奈って言ったよね?」
えっ!
「あぁ、言ったけど……」
「その人って、どんな方ですか?」
「待て待て、たしかにオレはオマエに呼ばれて、ある人間と勘違いしたけど、だからって、そいつをオマエに説明するどんな理由があるんだよ」
「そのぉ……、訊きにくいけど訊くね」
コイツ、人の話を聞いてないな。言ってることに脈絡がなさすぎる。
そう思っていると、次の瞬間、晶は耳を疑った。
「その貫奈って人、もしかして、もうこの世界にいないんじゃない?」
この世界にいない。この世界にいない。って……。
「オマエ、なんでそんなことを――」
「教えて、貫奈さんって、どんな人? 早川さんの彼女だったの?」
「彼女――じゃない」
「ウソ」
「ウソじゃない。いったいなんだよオマエ。貫奈は、オレなんかが彼女にするにはもったいないヤツだ。友だちっていうのも違う。――そう、貫奈は同級生で、オレと同じ日に生まれた、ま、共通点を挙げるならそれだ。それだけだよ」
相手は目を見ひらいた。そして、
「知ってたんだ」とつぶやいた。
いい加減にしろよ。
「さっきからオマエ、デタラメ言ってんじゃないぞ」
「違うの。今のもわたしが言ったんじゃなくて、わたしの中の――」
「もういい。つき合ってられるかよ」
うんざりしてきた。晶は市道の横を素通りして土手に向かった。
「待って! わたしの中に、わたしの中に貫奈さんがいるのっ! ずっと早川さんに会いたがっていたのっ! ストラスブールってケーキ屋さんにも会いにいった! だから待って! わたしの話を聞いて! じゃないと彼女、彼女が可哀そうだよ」
内容はともかく、晶に向けて投げつけられたその声には真摯に訴えかける感情がこもっていた。晶は足をとめずにはいられなかった。
迷ったけど、市道のもとにもどる。
彼女の瞳は涙で滲んでいた。叫んでいるうちに気持ちがたかぶったんだろう。デタラメを言っている感じじゃなさそうだけど――、それなら、頭がどこかにイッちゃってるとしか思えない発言だった。
「貫奈がオマエの中にいるってどういう意味だよ。オレに会いたがってるってなんだよ」
やけくそのように言いながら、晶の全身に押し寄せる波のような鳥肌が立った。
目のまえの市道渚の背後に、貫奈亜以乃のにおいのような気配を感じたからだ。
中三の春から、意識しないようにしても、遠ざけようとすればするほど、晶の頭に入ってきて座敷童のように居座り続けた、あの貫奈亜以乃の存在を感じていた。それが冷たい川音にまじって晶を包み、川の流れに乗って晶自身をどこかへいざなうように、意識をとろけさせていた。