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当日の朝は例年にない冷えこみだった。それでも天気予報では雪は降らないとのこと。ドラマみたいな都会のホワイトクリスマスはめったにないそうだ。
三日まえ、父さんと母さんに早川くんをつれてくることを話したときは、ちょっとした騒動になった。なにしろ彼の存在を一度も話してなかったのだ。母さんはまだしも、父さんのとり乱しようといったら、お祖父ちゃんの訃報を受けとったときみたいなうろたえようだった。それくらいわたしを色恋に無縁な娘だと認識していたってこと。間違いではないけどね。
彼とは純粋に友だち関係だということを強調して説明し、どうにか許可が下りた。ただしわたしの部屋にふたりきりになるのはNG。わたしも異論はない。妥当だろう。
昼まえ、わたしはとっておきのダッフルコートを着て出かけた。ピンクとベージュの中間色で去年流行に乗って買ったヤツだ。F駅の改札を出たところでリッキーを含むメンバーたちと合流する。
さすが市内一の繁華街、まだお昼なのに、街はクリスマスを謳歌する人たちで混雑していた。どこを見ても、ディスプレイはクリスマス一色だ。夜はイルミネーションでいっそう盛り上がるのだろう。
会場になるライブハウスは、歩いて十五分ほどの北門街にある。まわりはスナックやキャバクラ、風俗店の入った雑居ビル、ラブホテルが目立つような、ちょっといかがわしい界隈。ただし、今は昼間なので、海水浴シーズンをすぎた浜辺って印象だけど。
会場に着くと、すでにほかのバンドのリハーサルが始まっていた。リッキーの話では、こういう複数のバンドが出演する場合、逆リハといって出演順の逆の順でリハーサルをしていくとのこと。わたしたちは出演が早い分、リハが最後のほうになり、入り時間もゆっくりだったというわけだ。まずは楽屋でリハを待つ。
今日のライブは聡美も見にくる。ライブ後、今日だけはリッキーもバンドの打ち上げには参加せず、聡美と合流するらしい。
そのうちリハに呼ばれ、それもつつがなくこなし、そして開場時間を迎える。楽屋に座って、客入れのSEが流れ出すと徐々に緊張が高まってくる。わたし以外のメンバーは慣れたもので、ふだん通りリラックスしている。リッキーにいたっては、くる途中コンビニで買ってきたオニギリをパクついていた。わたしにも勧めてくれたけど喉を通る気がしない。いよいよ出番だ。
「亜以乃、アンタ演奏しているあいだ、顔がロウ人形みたいになってたよ」
わたしたちの演奏終了後、楽屋にきた聡美が開口一番言い放った。続けて、
「お疲れさまでしたぁ。これ、差し入れです。クリスマスケーキじゃなくてアレですけど、よかったら食べて下さい」
大学生のメンバーにシュークリームの入った紙箱を渡す。聡美は彼らとも面識があるようで、楽屋に入ってきてもまったく物怖じしてない。そのあとも、しきりと彼らにライブの感想を熱弁している。
ライブのできはわたしにはよくわからない。自身のミスタッチは何カ所もあったが、おおむね及第点だったと思っている。いずれにしても、これでお役ごめんだと思うと、わたしの口も急に軽くなる。
「あぁ、これであとは心おきなくクリスマスを堪能できるね」
とこぼしてしまった。聡美が見逃すはずもなく、
「ちょっとそれ、聞き捨てならないな。それにそのだらしない顔も。亜以乃、今夜の予定を言ってみなさいよ」
鋭くツッコミを入れる。
「よ、予定っていっても、帰ってチキンとケーキを食べるだけだよ」
「声が裏返ってるよ。紀子、なにか知ってるんでしょ。白状しなさい」
「ボクからは、なんとも言えないよ」
結局、この春から早川くんと会っていたこと、今夜ウチでクリスマス会をすることを白状させられてしまった。
「アンタもけっこう食えないヤツだね。すっかりだまされてた」
「だましたなんて人聞きの悪い」
「でも、やっぱりわたしが言ってた通りでしょ。中学のころ早川が亜以乃のこと好きだったっていうの」
「それは――、たぶんそんなことないと思うよ。今だってわたしのこと、どう思っているのか知らないし」
「ウソでしょ? そんなはっきりしてない男とクリスマスイブをすごすつもり? 亜以乃ってやっぱりかなり変だよ」
「ほっといてよ」
ホント、ほっといてって感じ。でも、今ならなにを言われても許せる。だって、このあと早川くんと会えるんだもの。二十四日に、だよ。
中三のときから誕生日を迎えるたび、彼のことを思い出していた。聡美ふうに言うと、好きでもなんでもない男のことを誕生日のたびに思い出してる変な女。
小学生のころから、どうして自分には好きな人ができないのかと不思議だった。涼佳たちが好きな男の子の話をするのを聞いて、好きってどんな気持ちだろうって考えた。犬や猫を、母さんや友だちを、好きっていうのとなにが違うんだろうと悩んだ。彼女たちの恥ずかしそうにはしゃぐ姿から、きっと甘くてとろけるような謎の飲み物みたいなものを想像した。はたして、高三になって初めて知った〝好き〟って気持ちは、そんなカクテルみたいな飲み物とは全然違った。
それは、崖に片手でぶら下がって見上げた青空みたいだった。この指が離れたらわたしは二度とあの青空が見られないんだって感覚。うまく言えないけど、そんな感じ。
そういうわけで、今日は、初めて早川くんを好きな男の子と思って迎えた記念すべき誕生日だ。しかも彼のことを思い出すだけじゃ終わらない。実際に会えるんだ。
リッキーや聡美と楽屋を出て客席に移動し、残りのバンドの演奏を楽しんだ。厳密には、ほとんどの音がわたしの耳を素通りしていたけれど。
イベントの進行が押していた。予定時刻に終わりそうにない。
五時をすぎ、わたしの予定を知っているリッキーが、気を利かせて先に帰るよううながしてくれた。聡美やバンドのメンバーに簡単に挨拶とお礼を言ってから、わたしはひとり会場を出た。
「うっ、寒い」
ライブハウスのあるビルから出て思わず声にしていた。ダッフルコートの襟を寄せる。外は、すでにほぼ夜。
これから歩いて、駅まえのケンタッキーでチキンを受けとって、電車に乗ってN駅に着いて、そこからストラスブールまで歩いて――と考えたら、時間があまりない。急がなきゃ。
それにしても――あたりは昼間とすっかりようすが変わっていた。ふだんなら、夜ひとりで歩くのは遠慮したい場所だった。気合いを入れて、小走りで通り抜ける。と、風俗店から出てきた男性が怪訝な視線を無遠慮に投げつける。逃げるようにさらに走った。
前方、まるでリゾートホテルのような建物だと思ったら、ラブホテルだ。その横を通りすぎようとしたとき、
「うわっ、痛っ」
突如建物から出てきた女性と思いっきりぶつかって声を上げてしまった。こけそうになるのを懸命にこらえる。そこが人の出入りする場所に見えなかったこともあって、予測してなかった。ホテルの目的を考えるとそういう造りになっているのもわかるんだけど。
相手は若い女性だった。もしかするとわたしと変わらないような年齢かも。彼女も一瞬足をふらつかせたが、すぐ体勢を立て直した。「ご、ごめんなさい」と謝る声も若い。
あわてたようにその場を走り去る。その後ろ姿を見送りながら、彼女もわたしと似たようなダッフルコートを着ていたことに気づく。
同じ年ごろ同じ恰好でも、ずいぶんと差があるんだな。だからって、焦る必要もない。わたしは今の自分に十分満足しているのだから。
それよりわたしも急がなきゃ。こっちの意味で焦る。
そのとき、彼女のいたあたりに小型のバッグが落ちているのが目に入った。黒の革でできたクラッチバッグで、どう見ても男物だ。
あの子が落としたのかな。男物だし、どうだろう。ま、考えるより、追いかけていってたしかめたほうが早い。違う場合、警察にとどければいいだけだ。
バッグを拾って、彼女のあとを追って走った。
そこからすぐ車通りの多い道に出る。向かい側に彼女を見つけた。歩道橋を渡ったようで、さらに駅まえに向かって走っている。相当急いでいるようだ。わたしも歩道橋の階段をかけ上がり、橋の上をまえからくる人をよけながら走り抜けた。
あと少しで渡りきる――そのとき、突然後ろから肩に強い衝撃を受けた。つんのめるように倒れた。あまりに予想しなかったできごとに、手をつくことさえままならず、顔や胸を強く打ちつけた。心臓がとまるかと思った。
「この小娘が、あんまり大人をなめるなよ!」
耳ざわりな男性の声で罵声を浴びせられた。
突き飛ばされたの? ぼんやり思った。そこへ、コートをつかまれ、身体を持ち上げられた感覚があった。
「こらっ、ふざけてんじゃねぇぞっ!」
今度は腰に衝撃を受けた。わたし、蹴られた。と思ううちに地面にたたきつけられた。目のまえには階段がある。階段に身を乗り出すように倒れていた。
なんで? なんでこんなことされてるの? この人、だれ?
こわい――。
痛みは感じてなかった。錯乱して神経が麻痺している?
どうしていいかわからない。だれかたすけて――。
でも、言葉が出なかった。それでも必死で起き上がろうと、無意識に歩道橋の手すりに手を伸ばし、身体を浮かせた。とたん、
「おらっ、聞いてんのかっ! この盗人がっ!」
お尻に一段と強い衝撃を受けた。手が離れる。身体が自分のものじゃなくなったようにまえのめりに落下する。顔を階段に打ちつけながら、もうなにも見えてなかった。永遠に落ちていく――。
――とまった。
やっととまった。わたしは闇の底にいた。
女性の叫び声が聞こえる。若い男性の声が、「警察、いや救急車が先だっ」と叫ぶ。
みんな、わたしのことで騒いでいるの?
身体の感覚がまったくなかった。わたし、いったいどうしちゃったんだろう。
こんなことをしたの、だれ? なんで?
相手の顔さえ見てないのに、こんな理不尽なのってある?
それなのに――怒りは湧いてこない。眠るように意識が遠のきそうになる。
ダメ、眠っちゃダメ。わたし、彼女にバッグを届けなきゃ。
それから――、それから、早川くんに会いに行くんだから。
わたしのこと、待ってるんだ。早川くんが。
遅れたからって怒る人じゃない。でも、早く行かなきゃ心配するもん。
ふたりでケーキを食べるんだ。そして、プレゼントを渡して――。
手袋だよ。リッキーと買いにいって一時間も迷って決めた手袋。喜んでくれるかな。
そしたら、わたし、告白するんだ。早川くんのこと好きだって。
でもなにから話そう。
やっぱり初めてとなりに座ったときの印象から話そう。突然オカピの話をしたらびっくりするだろうな。なんだそれって笑ってくれるかな。オカピの早川くんが好きって言おう。わけわかんなくても大丈夫。きっと伝わる。早川くんなら。
もう一度見たいな。早川くんの笑顔。トオヤマくんたちとサッカーしていたときの。あの心の窓を全開にしたような笑顔。
あれ? わたしったら、なんかもう早川くんに会えないような気がしてる?
ダメだよ。まだ告白が済んでないんだから。
早く起きて、ケンタッキーに行ってチキンを受けとって、そして――。
早川くん?
早川くんのことを思うと、どうしてだろう、三角定規が浮かんでくる。それも二等辺三角形のじゃなくって、内角が九十度と六十度と三十度のヤツ。使い古して細かい傷でアクリルが半透明になったヤツ――。
もうダメ……、なんにも……考えられない。
会いたい――。
早川くん。