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アイノリフレイン  作者: 矢田さき
2章 貫奈亜以乃 (アイノリフレイン)
19/31

4-1

 高校三年生の春。一学期が始まって一週間が経つ。

 学校から帰宅したわたしは、部屋着に着替えてリビングでくつろいでいた。

 テレビの六時台のニュースをつけて、コアラのマーチをつまみ、だらしなく床に寝そべる。女子高生にあるまじき悪しき習慣。こんなあられもない姿、家族以外見せられない。

 しばらくして――時計を見る。七時近かった。母さんが帰るまえに頼まれていた夕食の下準備にとりかかろうと、しかたなく起き上がった。そのとき、テレビからよく知る地名が聞こえた。気になって画面に目をやる。

 全国ネットのニュースにかかわらず、わたしの住む区内の町名がテロップに躍っている。

 近所のどんな話題かしら。膝立ちでテレビに近寄った。

 徐々にその内容を理解していくうち、肺の中に氷を押しこまれたような息苦しさがわたしを襲う。

 それは、中学三年生になったばかりの男子生徒が、父親の暴力によって命を落としたという、気が鬱屈するようなニュースだった。それがこの近隣で起きたできごとだなんて――。画面に映るのは、その少年が住む団地の映像だった。食い入るように見た。

 ちょっと、ここって、もしかして――。

 M団地。ウソ、あのM団地だ。

 さらに被害者の男子生徒の写真が映し出される。校外学習のスナップ写真だろうか、屋外にて、ジャージ姿で照れた笑顔を見せる男の子。

 わたし、この子を知っている。

 女性アナウンサーが最前から繰り返し告げていた学校名や生徒の名まえ。それなのに耳に届いてなかった。

 わたしの母校である中学校、そして、そこの三年生の男子生徒――遠山(とおやま)健人(たけと)くん、十四歳。小さく声に出してみる。

「トオヤマタケト」

 うん、そうだ。あの子だ。あの子に間違いない。

 わたしが中三のとき、彼が六年生だったから、年齢はピッタリ合う。でも――でも、ウソでしょ。こんなのっておかしいよ。なにかの間違いだよね。

 頭の中がしびれたようにうまく働かない。ただ思いが交錯する。

 渋々わたしを早川くんの家まで案内してくれたトオヤマくん。ことあるごとに大人ぶった口調になるのが可笑しかった。身体は頼りないくせに、ケンカして全身埃まみれになっていた。早川くんのことが好きで、彼みたいになりたいと願い、慕っていた男の子――。

 ニュースは無慈悲に続く。被疑者の父親は仕事に就かず日常的に自分の妻に手を上げていた。事件のあった昨夜も妻に手ひどい暴力をふるっていたところ、とめに入った息子の健人くんと揉み合いになり、一方的に健人くんを殴打し転倒させた。その際、頭部を打ち意識不明になった健人くんは、病院に運ばれたがまもなく死亡が確認された。もともと、健人くんは中学三年生としては身体も小柄で、体力的にも父親との差は歴然だった。また、健人くんにはお兄さんがいるが、すでに独立して家を出ていたため、当時家にいたのは両親と健人くんの三人だった。とアナウンサーは粛として事件の概要を報じた。

 ウソだよ。こんなこと、あっていいわけない。

 トオヤマくんを多く知っているわけじゃない。わたしが彼といっしょにいた時間なんて、たかがしれている。けれど、あの日かわした言葉や空気は、わたしの心の引き出しにちゃんとしまってあって、いつでもとり出すことができる。

 あの男の子が、この世界にもういないなんて。ウソだ。

 早川くん。早川くん。早川くん。早川くんに会いたい。なぜだろう。彼の顔を見たいという欲求が身体の奥から湧き上がってくる。とまらない。

 彼は今、どんな気持ちでいるだろう。

 弟のように可愛がっていたトウヤマくんが死んでしまったんだ。わたしなんかより、よほど大きなショックを受けているはずだ。それを思うとよけい切なくなる。

 会いたい。会いに行かなきゃ。今すぐ。


 手短に着替えて家を飛び出した。自転車にまたがり一心にペダルを踏む。

 あの日もそうだった。トオヤマくんに出会った日。怪我で学校を休んでいた早川くんに会うため、同じように自転車をこいだ。今もその道を走っている。

 すでに日は暮れ、街灯に照らされた街は、海に沈んだように静かだった。春の夜風が質量を持ったように流れている。夜の空気が、わたしを潮流に流される小舟のような不安定な気持ちにさせる。

 まだ、あのニュースは誤報なんじゃないかと、どこかで信じていた。トオヤマくんは病院のベッドで眠っているだけ。たしかに重体ではあったが、今は峠を越え安静にしている。そうだったらどれだけいいだろう。明日になれば、ニュース番組で訂正される。そうなればいいのに。

 でも、そんなことはありえない。と片方で確信している。

 もうトオヤマくんいない。それは、家を一歩出た瞬間から肌で感じていた。それは、世界から言い渡された決定事項で、この事実はもう変えられない、と突きつけられたように。

 雲でおおわれた夜空が憎らしかった。

 川沿いの道から橋を横目に、M団地に続くゆるい上り坂に差しかかる。このあたりから空気が変わった。人通りが絶えず、騒がしい。それは先に進むほど顕著だった。車道にテレビ局の放送車が何台も横づけされ、あのうす暗くうら淋しい雰囲気は一掃されていた。

 B棟に近づくと、建物に通じる階段に人だかりができて、さらに騒々しさが増している。テレビ局関係者らしき人影も多く見かける。トオヤマくんの住んでいたのがこのB棟だったんだろう。そこにニュースを見た近隣の野次馬が集まってきているようだ。

 わたしはその横を、胸を燃やされる思いで自転車をこぐ。

 この中にトオヤマくんの死に心痛めている人間が何人いるっていうんだ。みんな帰れっ! 心の中で叫んで、さらに先へと上っていった。

 B棟より上に行くと、また静けさがもどってきた。早川くんの住むE棟までの道のりが理不尽に長く感じた。ペダルをいくら踏んでも、いっこうにたどり着かない、そんな夢の中みたいな錯覚。早川くんの家をまえにし、急に気後れしてきた心の現れのように。

 それでも、ついにE棟の三階、玄関の扉のまえに立った。三年まえの光景が蘇る。あのときはトオヤマくんの小さな背中がとても心強かった。でも頼りの彼はいない。わたし、しっかりしなきゃ。

 少しためらってからチャイムを押した。

 しばらく待っても応答はない。人の気配も感じない。もう一度鳴らす。やはり応答なし。――彼は留守だった。

 放心して立ち尽くす。

 学校からまだ帰ってないのか、バイトに行っているのかわからない。可能性ならいくらでも考えられる。もしかすると、トオヤマくんの身に起こったことを、まだ知らない可能性だってある。いずれにしても早川くんはここにいない。

 きた道を引き返した。


 帰りは下り坂だ。坂を下るうち、幾分気持ちも落ち着いていく。迅速に橋のたもとにたどり着いた。立ちどまって、そこから河川敷の方を眺めた。

 うす闇になんとかグランドの場所が見分けられる。あの夏、あそこで早川くんといっしょにトオヤマくんもかけまわっていた。あのとき早川くんは、心の底から楽しそうに笑っていた。それは、トオヤマくんたちが引き出した笑顔だ。

 そして、初めてトオヤマくんと会話をかわしたのが、今いる橋の下。彼はわたしを不審者でも見るような目つきでにらみつけていたっけ。

 下りてみよう。とうていこのまま家に帰る気にはなれない。自転車をとめて土手に足を踏み出した。

 土手の上や河川敷に街灯はなく、離れた家々やマンションから届くわずかな明かりで、やっと足下の状態がたしかめられるくらい。滑りそうになる斜面を慎重に足を運ぶ。あたりには草と土の湿ったにおいが漂う。暗くて本当はうす気味悪かったけど、それより、橋の下にトオヤマくんの残り香のようなものと出会える予感がして、足を進めた。

 川原に着くと、川音にまじってわずかに妙な音がした。地面を擦るような音。近くにだれかいる。背筋がすぅっと冷たくなる。

 件の橋の下に人影が見えた。不審者?

 暗闇の中その人物は、壁に向かって、シャドーボクシングをするように拳を突き出していた。じっと目をこらす。

 これがわたしの予感の正体だった。

 早川くんだ。

 自分の運の強さに驚くより、彼の異常さに気がついた。あれはシャドーボクシングなんかじゃない。彼は壁を殴りつけていた。体重を乗せるように全力で打ちこんでいる。

 ちょ、ちょっと待って。そんなことしたら――。

 思うより先に走り出していた。

「早川くん、なにしてるのっ! やめなよっ!」

 これ以上出ないくらい大声で叫んだ。それでも彼は殴るのをやめない。わたしの声が届いてないかのようだ。

 かけ寄って、早川くんを壁から引きはがすように、彼の腕を両手でつかんで引っぱった。そこで、彼は初めてわたしに気づき、驚きの表情を見せた。

「どうして――」

 彼は言葉をつまらせる。でもわたしには聞こえた。そのあとに続く、「ここにオマエがいるんだ」ってセリフが。それに返す言葉が見あたらない。

「だ、だって――」

 わたしも言葉をつまらせる。そして早川くんの顔を見つめる。

 とたんに崩壊した。せきとめていた感情が、涙が溢れた。溢れて、溢れてとまらない。ニュースを見たときだって流さなかった。トオヤマくんの住んでいた団地の横を通ったときも流さなかった。それなのに――なんで。

 わたしがしゃくり上げる奇妙な声が、橋の下で反響して不気味だった。そう思うのに自制できなかった。

 早川くんがわたしの肩に手を添えて、川に向かって段になった場所につれてきて、座るようにうながしてくれた。彼もわたしの横に腰を下ろす。なにも言わず、わたしが泣きやむのを待つように、ただひたすら横にいてくれた。

 ようやく肩のひくつくような震えがおさまったころ、わたしはすがるように声を出していた。

「……ニュースで、トウヤマくんが……」

「あぁ……」

「どうして、あんなことに……」

 返ってこない。そんなこと、早川くんだって答えられるはずがない。わかりきってる。彼は黙って暗い川の流れを見つめていた。そのときになって、初めて彼の手を見た。暗くてわかりにくいが、右手の指や甲の皮がえぐれて血まみれだった。

「早川くん、その手、早く手あてしないと、そのままじゃ」

「あ、うん」

 彼は立ち上がると川縁に行き、川の水で手を洗い流した。乱暴にシャツの裾で右手を拭きながら引き返してくると、また腰を下ろした。

「ちゃんと消毒しなきゃダメだよ」

「あぁ、帰ったらする」

 そこから、またしばらく気まずい沈黙が流れた。そして、おもむろに早川くんが口をひらいた。

「オレは……タケトのこと、たすけてやれなかった……」

「そんな」

「この一、二年、アイツの話を聞いてやる時間を作らなかった。自分の生活を言いわけにして、気を配ることをしなかった。タケトの親父が日ごろから暴力をふるう人間だってわかっていながら、だ。オレが以前のようにアイツに接していたら、アイツは死なずに済んだかもしれないのに」

「そんなふうに思わなくていいんだよ。昔、早川くんも言っていたでしょ。支え合うんじゃない。寄りそうだけだって。事情をわかっていても、よその家庭の問題にどこまで踏みこめるかといったら、なかなか難しいと思う」

「違うっ、オレはいちばんアイツのことをわかってあげなきゃいけなかったんだっ!」

 早川くんは、いら立ちのような感情をわたしにぶつけてきた。

「どうしてそこまで言うの?」

 そこに、早川くんが抱えている問題があるような気がした。中学生だったあのころ、わたしと彼のあいだの溝が埋まらなかった理由が。彼がほかの生徒に壁を作っていた理由が。

「オレの親父もそうだったんだ」

「え?」

「離婚したオレの親父も家族に暴力をふるう人間だった」

 彼の声はゾッとするほど冷たかった。わたしは心臓をつかまれたように一ミリも動けなくなる。心の端で予想していた気もする。考えないようにしていただけかもしれない。

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