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アイノリフレイン  作者: 矢田さき
2章 貫奈亜以乃 (アイノリフレイン)
16/31

3-2

 聡美から彼の名まえを聞いた瞬間、全身をしびれるような電流が走った。

 他人の口から彼の名まえを聞いたのは久しぶりだった。すっかり忘れていたわけじゃなく、ずっと気になっていた。

 彼と同じH高校に通う涼佳とは、二カ月に一回くらいのペースで会っていたけど、ことさら早川くんの近況を訊くわけにもいかなくて――。だから、現在の彼のことはなにも知らない。どうしているかなぁと思うだけで、それより発展のしようがなかった。

 だから、必要以上に反応してしまう。早川くんとケーキ屋さんのバイトが結びつかないってこともあって、よけいだ。

「早川くんって、あの早川くん?」

 口にしてから、われながらバカな訊き方をしたと自覚した。

「そう、あの早川。亜以乃のことが大好きな早川」

「な、な、な――」

 なにを言い出すんだ。

「あれ、動揺してる?」

「だって――聡美が急に変なこと言うから……」

「別に変じゃないじゃん。確率九十五パーでアイツ、亜以乃のこと、好きだったはずだよ」

「九十五パーって……。いったいどこから出てくる数字よ」

「忘れてないでしょ。コジともめたときのこと」

 やっぱり。あの事件からそんな結論を導いているのか。

「ふだんからクラスのイベントもめごと一切われ関せずって顔してた早川が、あそこで、アンタのとなりの席にいたっていう理由だけで、コジの暴走をとめに入ったのは、あまりに不自然すぎでしょ」

「た、たしかに意外だったけど……」

「意外じゃ済まされないよ。その上、あとのこと考えず、コジをたたきのめしてさ。案の定、あとでハンドの連中から焼きを入れられていたけど。あんなことできるのは、アンタに気がなきゃできないって」

 涼佳も似たようなこと、言ってたっけ。早川くんのこと、なんにも知らないくせに。わたしだって知らないけど、あのとき、彼がそんなつもりじゃなかったことは知っている。

 すると、聡美が意外なことを言い出した。

「わたし、早川と同じ小学校だったんだ」

「あ――、そうなの?」

「アイツ、小学生のときも何度か大きなケンカしてるんだよね。それを知ってるわたしみたいな生徒は、コジとのときも、そこまで驚かなかったんだけど」

「……早川くんは、小学生のとき、なんでケンカなんかしたの?」

「一度はたしか五年生のときで――、岡崎って憶えてる? あの影のうっすーい男子」

「う、うん。早川くんとよくいっしょにいた」

「そう。そのとき教室にはみんなの描いた絵が貼り出されていたんだ。それでその岡崎の絵をだれかがやぶいたのが原因だったかな」

「やぶいたって、わざとなの?」

「まぁね、岡崎って、休み時間に女の子のマンガばっか描いてるオタクで、当時ちょっとキモがられててさ。イジメまでいかないけど、よくからかわれていたから。そのときも岡崎の絵を三人のヤンチャな男子が掲示板から外して、投げ合ったりしてからかって――、ほら、それって男子がよくやるパターンじゃん。それがエスカレートして、結果、やぶっちゃったって感じ」

「ひどい」

「そしたら急に早川が出てきて、やぶいた三人を黙って殴っていって――。相手も最初は面食らって殴られていたけど、すぐに反撃して、そこからはとっ組み合いの大ゲンカ。先生がとめるまでだれも手をつけられなかった。早川はひとりなのに優勢でさ。みんな、アイツのこと、目立たないおとなしい生徒だと思っていたから、びっくりしたって話。あとは――」

 初めて聞く小学生の早川くんの姿。聡美の言葉をひと言も聞きもらさないよう集中した。

「六年生のとき。今の話と違って、わたしは同じクラスじゃなかったから噂で聞いただけだけど」

「どんな?」

「まず、早川んちが、両親が離婚して母子家庭だってことは、けっこうみんな知ってたんだ。それで、早川の母親が夜の仕事をしてるってだれかが言い出したんだろうね。そのとしごろの男子って性に関して異常に興味を示して、なんでもそういうことに結びつけたがるでしょ。だからだと思うけど、そのうちだれかが早川の母親が風俗で働いているって、面白半分、聞えよがしに言ったらしいんだ。フーゾク、フーゾクって。まわりもそれに反応して忍び笑いなんかして。まだガキだから、水商売と風俗の違いもわかんないくせにさ――」

 身の毛がよだった。

 中三の夏、一度だけ会った早川くんのお母さんを思い出す。とてもきれいな人だった。あのときもたしかに夕方から仕事に出かけていたけど、だからって風俗だなんて、クラスメイトに言っていい軽口をはるかに超えている。けっして許されることじゃない。

「そのときの早川は、気がふれたんじゃないかってくらい暴れたらしいよ」

 お母さんのこと、そんなふうに言われて、平常でいられるわけがないでしょ。

「言い出した生徒はもちろん、そばでいっしょに笑った生徒たちも全員、早川ひとりでボッコボコにして、大問題になった。ただほかの生徒が、早川がキレた原因は、母親を侮辱されたからだって証言したせいで、まだ穏便に済んだみたいだけど」

「早川くんは悪くないよ」

「そういうことじゃなくて、わたしが言いたかったのはね、そうやって早川がブチギレたのって、どっちもアイツにとって大事な人間を守るためだったってこと。岡崎しかり、母親しかり。つまり、亜以乃も早川にとって大事な存在だったってことだよ。どう? とても理論的でしょ」

 違う。岡崎くんやお母さんの場合はそうかもしれないけど、わたしの場合は違う。それは、彼から直接聞いたわたしがいちばんよく知っている。

「なんか納得してない顔だなぁ。じゃぁもうひとつ言おうか。アンタは忘れてしまってるだろうけど」

 聡美は、なぞなぞの答を知らない子に得意げに答を教えるいけ好かない男の子みたいな顔でニヤついている。

「早川とコジがやり合う何カ月かまえに、わたしたちが亜以乃を呼んで、尋問みたいなことをしたことあったでしょ。コジとつき合っているのかって。たしか一学期の大掃除の日に」

「……うん」

 積極的に思い出したくない話だった。それを、やられた相手にこうも面と向かって、堂々と語られると、うなずくのにも気怖じする。

「あのとき、話の終盤、早川が通りかかったの、憶えてる?」

「うん、憶えてる。ゴミを捨てに焼却炉に行く途中だったって」

「そう。よく憶えてるじゃん。あのとき口に出さなかったけど、わたし、一発でおかしいって思ったんだよね」

「なにが?」

「そりゃ、早川があそこを通りかかったことだよ」

「どうして? 早川くん、プール周辺担当だって言っていたじゃない。だったらおかしくないよ」

「いいえ、おかしい。たしかに焼却炉はあの狭い裏道をずっと行った先にあったけど、プールからだと逆に遠まわりなるんだから。アイツがあそこを通る必要なんてない」

「でも、実際通ったんだから、なにか事情があったんだよ。たとえば、ゴミを捨てに行く途中、掃除用具をしまう倉庫に寄り道したとか」

「そう、たしかに事情があったんだろうね」

「ほら、そうでしょ」

 そこで聡美はなにが可笑しいのか、ププッと吹き出した。

「早川はたぶん、プールあたりでキクにつれられて歩いている亜以乃を見かけたんだと思うよ」

「菊地さんとわたしを?」

「そう。または見かけたほかのだれかに聞いたか。それで、たくましく想像を働かせたんじゃない?」

「たくましく、ソーゾー?」

「わたしたちが亜以乃に焼きでも入れるんじゃないかって。だから、わざとらしくあんな道を通って、この近くには人がいるぞって、わたしたちを牽制したつもりだったんだよ、あの行為は。要はアンタを守るためにあそこを通ったんだってこと」

 まさか――。早川くんに限ってそんなはずない。むしろ彼はわたしに関わりたくなかったはずだ。わたしだけじゃない。クラスのだれとも、生徒のだれとも、関わりを持ちたくなかった。今なら、彼の心理のそこだけは理解できる。

 要するに、彼には自分の育った環境にコンプレックスがあった。いや、コンプレックスじゃないな。彼はそれを引け目に感じていたわけじゃないから。しかし、それによって他者との距離を一定間とろうとしていた。壁を作っていた。だから、わたしがいくら近づこうとしても寄せつけなかったんだ。

 わたしがわからなかったのは、彼の生きてきた環境がわたしのそれとどれほど違うのか、という部分。

 もちろん、彼と違って、わたしには両親がいるし、共働きだといっても、友だちに引け目を感じるような生活を送ったことはない。ウチはお金持ちじゃないけど、服や持ち物はふだん恥ずかしくないくらい買ってもらえたし、みんなと同じに塾にも通わせてもらえた。

 だけど早川くんが言っている違いは、そんな次元の話じゃないんだろう。そのくらい、わたしにだってわかる。そして、わかるのはそこまで。その先はわからない。それがわからないのが、そもそも育ってきた環境が違うってことなんだろうか。

「これでわかったでしょ。確率九十五パーで、早川が亜以乃のこと、好きだったってこと」

 わたしは苦笑して、かぶりをふった。


 例のパティスリーに行こうか行くまいか、相当に迷った。

 正直にぶちまけちゃうと、久しぶりに早川くんの顔が見たかった。会いたかった。それでも、早川くんがわたしにこられると本気で嫌がるだろうことは目に見えている。いや、わたしに限らない。彼の知り合い全般におきかえても、それは同じことだ。そこまでして嫌われに行くような真似をしなくても、と思う反面、中学のころだってそうやって邪険にされてきたんだから今さら同じだろう、とも思う。そのあいだを行ったりきたり。

 結局、結論を出したときは、聡美から話を聞いて二週間がたっていた。やっぱり行こう。

 早川くんがバイトしていることを知らなくても、地元に新しくできたケーキ屋さんがあれば、ためしにのぞいてみるぐらいふつうだよね。と自分を励ました。また、行って彼がわたしに気づくとも限らないし。とも言い聞かせる。

 それに聡美の話――中学のとき早川くんがわたしに好意を持っていたという説が引っかかっていた。もちろん、まったくもって信じてないが、指に刺さった、小さすぎて抜こうとしてもうまくいかないトゲのように、なにかの拍子に気になってしかたがない。頭から完全に追い出せなかった。つまり、わたしも女の子であって、ほとんど可能性がないとわかっていても夢想する分にはだれにも迷惑はかからないだろうと、そんなひそかな戯れにときどきうっとりしていたってこと。あー恥ずかしい。

 日曜日の午後。わたしなりにオシャレをして、奮い立たせて出かけた。もっとも、あからさまに頑張ったふうに見えないよう気を遣う。

 聡美から聞いていた通り、その店は地元のささやかな繁華街の外れにあった。名まえは〝ストラスブール〟。派手さのない小ざっぱりした店がまえだ。全体を、若い女性にうけそうな柔らかい色調に抑えてある。

 店内に入ると正面にケーキのショーケースがありサイドの棚に焼き菓子がディスプレイされている。ただし、わたしの視線はショーケースの向こうに立つ店員さんを越えて、ガラスばりの先――小さな工場のようすを一心にとらえていた。

 そこにいた人物はひとり。

 髪を全部白いパティシエ帽に入れていたのですぐには判別できなかったが、よく見ると面立ちから女性だとわかった。

 えっ、いないの?

 なぜか端から早川くんは必ずいるものだと決めてかかってきたわけで、その落胆の加減ときたら、家族旅行を父さんの仕事の都合で急遽とりやめになったときみたい。

 それはそうだよ。冷静に考えれば、毎日バイトに入っているとは限らないし、時間帯だってずっといるわけがないもん。わたしったら、なにを気負いまくっていたんだろう。最初っから、会えたらいいな、くらいの軽い気持ちでくればよかったんだ。

 とりあえず、父さんと母さん、わたしの分のケーキを購入する。そして商品を受けとるとき、煩悶する思いで訊いてみた。

「あ、あの……、すみません。こちらで早川くんが製造のバイトをしていると聞いてきたんですが、今日はお休みですか?」

 わたしにしてはかなり勇気をふりしぼったほうだ。一大決心できたのだから、このまま帰ったのでは気持ちがおさまらない。そして、今日このまま帰ってしまうと、次にこようという気概がはたして湧いてくるだろうか。そんな思いからしぼり出した度胸だった。

 わたしの懸命の問いに、二十代らしい女性の店員さんは、「あぁ」と得心した顔で答えてくれた。

「彼はね、オープン時の忙しい期間、短期バイトで働いてもらっていたんだ。だから、いたのは一週間まえまで。わざわざきてもらったのに、ごめんなさいね。えぇっと、同じ高校の生徒さんかな?」

「いえ、中学のクラスメイトです。ちょっと小耳にはさんで、彼がいたら顔見られるかなぁと思ってただけなので、大丈夫です。本命はケーキだから」

「それはありがとうございます。彼ね、すごく真面目だし、ケーキ作りにも興味があるようだったから、ウチがもう少し忙しい店だったら、ずっと働いてほしかったんだけど。この通り、身内でやっているようなささやかな店でしょ――」

 そのあと店員さんと少し世間話をしてから、店をあとにした。

 もう一週間くるのが早かったら、会えたかもしれないのに。ぐずぐずためらっていたせいだ。それとも早川くんとはもう縁がないってことかしら。

 手にしたケーキの箱が空しくて、思いっきりほうり投げたくなった。もちろんもったいなくて、そんなことはしなかった。

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