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アイノリフレイン  作者: 矢田さき
2章 貫奈亜以乃 (アイノリフレイン)
13/31

2-3

 わたしたちは、団地の棟のあいだを折れ曲がるように上る道を、ゆっくりと歩いていた。日はほとんど暮れかけ、うす闇が迫っている。

 前方からくる人影にトオヤマくんが反応した。

「あ、おばちゃん」

 近づいた人物は、まだおばちゃんと呼ぶには失礼な年齢に映る女性だった。きれいに巻いた明るい髪、派手な今風メイク、タイトなミニスカート。お姉さんと呼んでも差しつかえない。

「あら、タケちゃん」

 女性は、少女みたいな笑みを浮かべてトオヤマくんに声をかけた。ついでわたしに気づいた。

「そのお姉ちゃんは?」

「アキラくんの友だちだって」

 なんだ、友だちだって信じてくれてたんだ。でも女性のほうは少し驚いて、

「え、(あきら)の?」と眉が持ちあがる。

 その口調から、早川くんの身内だと推察する。お姉さんがいたのかな。いや、もしかして、この人がお母さん?

「あのぅ、初めまして、わたし、早川くんのクラスメイトで貫奈といいます」

「まぁそうなの。初めまして、わたし、晶の母です。でも珍しいな。晶の友だちなんて。それもこんな可愛い女の子」

 やっぱりお母さんだ。

「早川くん、二日も休んでいるので、どうしてるかなぁと思って、ようすをうかがいにまいりました」

「なんか、おととい、ケンカしてきたみたいでね。ひどく熱出しちゃって。でも今日はなんてことなかったのよ。顔が腫れてるから、カッコ悪くて学校に行けなかったんじゃないかな。昔はよくケンカして帰ってきてたけど、最近は全然なかったのになぁ。まぁ、男の子はケンカするくらいじゃないと大成しない、とわたしは思うけどさ」

 あっけらかんと息子の武勇伝を語るお母さん。それこそ年の離れた弟の話をするお姉さんみたいだ。息子が怪我を負わされたことや学校を休んでいることには心痛しているようすもない。

「これから、お見舞いに上がってもよろしいですか?」

「ぜひ行ってあげて。あの子のことだから、喜ぶかどうかわからないけど。どんな反応するか見てみたいわね。あぁ、でもわたしはこれから仕事だから無理だった。なにもかまえなくてごめんね」

「おばちゃん、オレも行っていい?」

「もち、いいに決まってるよ。きっと退屈してるわ。それじゃぁ、ふたりともゆっくりしていってね」

 そう言って、早川くんのお母さんはわたしたちと別れ、仕事に向かった。

 彼女には少なからず衝撃を受けた。わたしや知っている同級生のお母さんとはまるっきり違った。若やいでいる、というだけじゃ済まされない。それとともに母親のにおいが一切しなかった。もちろん女手ひとつで早川くんを育てているのだから、いろんな苦労があって当然なのに、そういうものがまったく表に出ていないふうだ。中学生のわたしが言うのもどうかと思うが、くったくのない少女がそのまま大人になったという印象だ。

 そのお母さんと別れてから早川くんの住む棟に着くまでは、いくらもかからなかった。

 下から数えて五番目のE棟、その三階だ。

 建物の脇に自転車をとめ、トオヤマくんのあとについていく。コンクリートの階段に、ふたりの足音がかけ合いのように冷たく鳴った。

 三階に到着する。狭い踊り場にとなりどうし玄関が向き合う造りだ。蛍光灯の頼りない明かりの下、濃緑色の鉄製の扉がふたつ浮かぶ。さぁ、ついにここまできたぞ。

 トオヤマくんは左側のチャイムを鳴らす。ほどなく中から人の気配が近づく。心臓がギュッと縮んだ。

 金属のすれる音とともに扉があいた。

 早川くんがのぞく。

 うっ!

 想像以上に彼の顔は変わっていた。あちこち赤みや青紫を帯びて腫れている。いちばんひどいのがまぶたで、コブのように腫れ上がって左目がうまくひらいてない。たしかに、これでは他人に見られたくないだろう。学校に行きづらいのもわかる。

 早川くんは、まずトオヤマくんを見てなにか言いかけて、すぐわたしに気づいた。

「タケト、どうかした?」

「いや、あ、あの、このお姉ちゃんが、アキラくんがずっと学校休んでいるからお見舞いしたいって道を訊いてきたんだ。それでオレもちょっと心配で、いっしょについてきたんだけど……」

 トオヤマくんは、早川くんの面相にたじろいだのか、言葉つきに落ち着きがない。

「ずっとって、たかが二日だぞ」

 そう言って早川くんはわたしをにらんだ。

「ごめんなさい、突然押しかけちゃって。でもハンドボール部の人たちとのこと、聞いてしまって……。わたしに責任がないわけじゃないから、どうしてるか気になって」

「貫奈にはまったく関係ないよ」

「関係ないってこと、ないでしょ」

 早川くんはそれにはとりあわず、トオヤマくんに目を向けた。

「なんだタケト、オマエ、またやられたのか?」

「だ、だってさぁ、カワカミのヤツ、今日は中学生の仲間つれてきたんだよ。オレだって、これでも必死で戦ったんだ」

 ばつが悪そうにうなだれるトオヤマくん。重ねて彼の全身の汚れを見直した。この子もケンカをしてきた口なのか。とんだ似たもの師弟だ。

「ま、それならしかたないな。また今度、特訓してやるよ。とにかく、今日はもう帰れよ」

「……ちょっとだけ、上がったらダメ?」

「なんだよ、また親父の調子、よくないのか?」

「う、うん……。こないだ仕事辞めてきて、それからずっと酔っぱらってる」

「しょーがないなぁ。オマエ、オレのこと心配で見にきたとか言って、ウチに帰るのがイヤだっただけだろ。クソ、八時までだからな。身体の土をよく払ってから上がってろ。オレ、この人送ってくるから」

「わ、わたしならひとりで帰れるよ。自転車だし」

「この辺、夜はぶっそうなんだよ。タケト、テレビ見ないで宿題やっとけよ。じゃ行こう」

 早川くんは、さっさとひとりで決めて、勝手に階段を下り始めた。

「トオヤマくん、ありがとう。またね」

「あぁ、うん」

 わたしは早川くんの背中を追った。


「小学生に、ケンカするようけしかけるなんて、よくないんじゃない?」

 トオヤマくんときた道を、早川くんと引き返していた。自転車は早川くんが押してくれている。

 あたりはすっかり夜だ。くるときは気にならなかったが、早川くんが言うように、団地の建物を繋ぐ道は街灯もうす暗く、たしかにひとりで帰るのはこわかった。

 ひとまず、一見して早川くんの容態に――顔の腫れ以外――目立った異常がなかったので、少し安心する。

 本当は、児島くんとのことや、早川くんの怪我のこと、いろいろ話したいことはあったのに、きっかけがつかめず、トオヤマくんの話をとっかかりにしてしまった。

「勘違いだよ。オレはタケトにケンカを推奨したりしてないから」

「でも、さっき特訓してやるって」

「それは――、アイツ、学校で特定のヤツらから、しょっちゅうイジメられてるんだ。それで、オレのところへ相談にくる。だから、黙ってやられていたら、この先、一生この状態のままだぞ、それがイヤならやり返して、イジメられない人間になれ、ってアドバイスしているだけだよ」

「それでもいっしょだよ。アドバイスなら、イジメがなくなるように、相手の生徒と話し合うか、先生に相談するよう、言ってあげたほうがいいよ。暴力を返したって、なにもよくならない。トオヤマくんも言ってたじゃない。今日、相手は中学生をつれてきたって。そうやって、イジメがエスカレートするだけじゃないの?」

「それってさ、無菌室の発想だよ」

「どういうこと?」

「または机上の空論。イジメてるヤツに、言葉でどう説き伏せても、やめさせることはできないってこと」

「そんなことない――はずだよ」

「さぁて、どうかな。貫奈には想像もつかないだろうけど、アイツら、他人をイジメて、ハイになってるんだよ。わかる?」

「そんなのわからない」

「高揚してるんだ。脳が快楽を憶えちゃってるから、やめられない。甘党に、甘いものはいくら毒だと諭しても、やめられないのと同じ理屈。結局、身体に痛みをおぼえて、初めて躊躇するんだ。自分の行動に」

「そんなの極論じゃない。先生やまわりの生徒と協力してやれば」

「教師に相談したって同じか、もっと事態が悪くなるだけ。貫奈だって、これまで一度や二度、思いあたるようなことあるだろう、ホームルームの茶番」

「いったいなんの話よ」

「たいていセンセイはこう言うんだ。わたしはイジメの犯人を特定するつもりはありません。でも、その人たちは相手がどれだけ傷ついているか考えてみて下さい、とかなんとかね。そして最後に、みなさんひとりひとりが人の痛みのわかる人間になってください。そうすればイジメはなくなります、ってさ。茶番だろ。その結果、表面上のイジメは消え、代わりにもっと陰湿なイジメがセンセイの見えないところで始まるんだから」

「なんか、早川くん――、心がすさんでるよ」

「そうかもね」

 勢いで言ってしまったことを後悔した。早川くんが言うような側面があることも理解できる。それなのに、わたしはさっきから彼に腹を立てていた。それは、彼の口調がわたしに対し、「自分とは住んでいる世界が違う」と言い続けているように聞こえたからだと気づく。また突き放されたような気がしていたんだ。

「……ごめんなさい。言いすぎた」

「別に――、オレ、ホントにすさんでるから。貫奈みたいに、やさしい環境で育ってないから」

 ほらきた。

「そんな言い方やめてよ」

「事実だろ」

「環境っていうなら、兄弟でもなければ、だれも同じ環境で育った人なんていないじゃない。みんな違う環境だよ」

「それはそうかもしれない。でも圧倒的に違う環境っていうのはあるだろ」

「わたしは、早川くんとそんなに違う環境で育ったとは思わない。ウチ、団地じゃないけど、両親共働きで貧乏だもん」

 早川くんが足をとめた。わたしの方を向く。


「じゃぁオマエ、本気でだれかを殺したいって思ったこと、一度だってあるのか?」


 今日、初めて彼がわたしと目を合わせてしゃべった。

 あいている右目がわたしの心を突き刺すみたいに、わたしだけを見ている。こんな状況なのに、その瞳がとてもきれいだと思った。

「――あるわけないじゃない」

「そういうことだよ」

 早川くんは目をそらし、また歩き出した。

 わたしは訊き返せなかった。「早川くんはあるの?」と。こわかった。返ってくる答がわたしの容量に収まるのか。なにかが壊れやしないか。

 わたし、彼のこと、知りたかったんじゃないの? 近づきたかったんじゃないの?

 沈黙を破ったのは早川くんだった。

「貫奈はさ、オレが児島に手を出したのって、オマエをたすけるためにやったと思ってるんだろ」

「違うの?」

「違う」

「じゃぁどうして……」

「……もともと、ああいうタイプの人間がいちばん嫌いだからさ」

「児島くんのどこが」

「どこもかしこも全部。いつも自分が中心にいないと気が済まないとこ、簡単になんでもわかったつもりになるとこ、自分の価値観が世界の価値観だと思っているとこ、コミュニケーションが下手なヤツを見下しているとこ、理解できないことはなんでも排除しようとするとこ、アイツ見てると、そういうのが全部透けて見えるとこだよ」

「だから」

「あのときもそう。オマエらの事情なんて知ったことじゃない。アイツのあの、感情を一方的に押しつけてくる態度を見ていられなかっただけだよ」

「ウソ、わたしが困っていたから――」

「たすけたっていうのか? そうとりたかったらそうとってもらってもかまわないけど、事実はそうじゃない。アイツを痛みつけているあいだ、オレはどんな気分だったと思う?」

「……」

「胸にたまったクソみたいな気分が消滅して、とても清々しかった、気分がよかったんだ。つまり、オレはオレ自身のためにやったってことだ」

「そんなの、それこそウソだよ、そんなはずない」

「勝手にそう思っていればいいさ」

 児島くんとの一件について、それ以上話を続けられなかった。早川くんももうなにも言わない。ここでも彼は、かたくなにわたしとの距離をとろうとしているように思えた。このことで、わたしに気にされるのを拒否するみたいに。そして、わたしも強引に距離を縮める勇気がない。情けなく話題を変える。

「早川くんのお母さん、とってもきれいな人だね」

 重苦しさを消すように明るく言った。

「会ったのか?」

「うん、くるとき会った。トオヤマくんが教えてくれた。若々しいからビックリしちゃった。わたしの母さんとはえらい違い」

「あの人は、どっか別の世界で生きてるような人だから」

 わたしの言ったことを否定せず、自分の母親をそんなふうに称した。とらえどころない表現だけど、あの人を思い出すと、その意味がなんとなく理解できる気がした。だから、深く訊かなかった。

 そのあと、早川くんは区民図書館の近くまで送ってくれた。別れぎわに特別な言葉はなく、早川くんは自転車を手渡し、「じゃぁ」と引き返していった。

 結局、早川くんが登校してきたのは次の週だ。顔の状態はほぼもとにもどっていた。

 彼の登場に教室の空気がざわついたのは、朝のホームルームが始まるまえまで。そのあとは、なにごともなかったようにふだん通り。児島くんたちも彼をまるで無視していた。早川くんも、あの夜のことがなかったみたいに、わたしをまるで無視していた。

 一瞬、川面に浮いた流木が、あっという間に水の流れに消える。そんな映像が浮かんだ。

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