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アイノリフレイン  作者: 矢田さき
2章 貫奈亜以乃 (アイノリフレイン)
10/31

1-4

 夏休みはことのほか忙しかった。とりわけ前半がそうだ。

 その要因に、八月の頭に開催された合唱部の発表会と、そのための練習が挙げられる。

 毎年、区内の中学校合同で行われるその発表会は、わたしたち三年生にとって最後の舞台だ。それを目前にし、全員一致団結よろしく、今までになく練習に気合いが入った。

 区民ホールで行われた発表会当日は、わたしの両親もそろって観にきてくれた。合唱の完成度はともかく、三年間の思いのこもった誠実な歌声を響かせることができた。

 演奏を終えて袖に引いたとき、わたしも涼佳も泣いた。三年女子のほとんどが泣いていたと思う。これは部員のだれにとっても予想外だった。なぜなら、わが部にはコンクールなどに対しシビアにとり組むような熱血はなかったし、和気あいあいがモットーであったから。わたしたちに部活に没入している自覚はなく、実際もそうだったはずだ。そんなどっちつかずの活動にも、それなりの思い入れがあった証明だろう。

 そのあいだも、塾では夏期特別講習が始まり通常より長い時間拘束されていたこと、また学校の課題も受験生として応分の量が出されていたこと、その課題をなるべく早く終わらせようとのっけからクソ真面目にとり組んだこと――など合わさって、とにかく気分的にも余裕の少ない夏休みをすごしていた。

 発表会の翌日から、部活のため学校に行く必要もなくなると、代わりに、時間が少しできたわたしに、母さんが用事を言いつけることが多くなった。

 その日もスーパーの折りこみチラシからピックアップしたリストを手渡され、買い物を頼まれていた。塾のない日で、気持ち日射しの弱まってきた夕方、自転車に乗って出かけた。

 目的のサティで買い物を終えた帰り道、区民図書館に差しかかる。カツラの街路樹が並ぶ歩道を走っていると、遠目に図書館の入口から出てきた人影に気づいた。思わずブレーキをかける。

 相手は私服だったけれど、見た瞬間にだれかわかった。

 早川くんだ。

 あわてて植えこみの陰に身を寄せる。わたしは、着古したTシャツに体操着の短パン、まとまらない髪を隠すためだけにかぶったキャップと、完全身内向け仕様の装い。とてもクラスメイトに見せられる恰好じゃなかった。

 ただ、わたしの身体を隠すほど植えこみの灌木は大きくなく、彼がこちらに顔を向ければ即座に見つかる距離。そんな心配をよそに、早川くんはわたしのいる場所に背を向け、図書館の外周に沿って歩き始めた。安堵して、その後ろ姿を見つめる。

 早川くんの私服は、量販店で売られているような無地のTシャツに短パンだった。人のことを言えた義理ではないが、とてもファッションに気を遣っているようすはない。

 トートバッグを下げた彼は、ゆらゆらと遠ざかる。夏の西日に溶けてしまいそうな光景。

 その姿が視界から消えるまで見送った。


 翌日からどんな近所に出かけるときも、塾に通うとき程度には服装に気を配るよう心がけた。

 早川くんの後ろ姿が残照のようにわたしの頭に居座っていた。図書館の近くを通るたび、彼を探している自分がいる。わざわざ遠まわりして足を向けたりもした。

 そして、早川くんを見かけてから一週間はすぎたころ。

 やっぱり暑い午後で、勉強を中断し、気晴らしにアイスを買おうとローソンに出かけた。そのときも、通らなくていい図書館のまえをわざわざ選んでまわり道し、それから店に向かおうとして――見つけた。デジャブみたいな波が寄せる。

 図書館の入口から二十メートルほど離れた歩道。前回と同じにトートバッグを下げ、陽炎のように歩く後ろ姿。彼だ。たぶん、あのバッグには今しがた借りた本が入っているんだろう。

 わたしは衝動的に図書館の駐輪場に入り、自転車をとめた。そして早川くんのあとをつけ始めた。

 そんな行動を起こした理由はなんだったんだろう。

 彼に近づきたかったのはたしかだけど――。

 しばらく彼を遠くから見守っていたかったのか、途中でうまくタイミングを見はからって声をかけようと思ったのか、正直よくわからない。

 たえず二、三十メートル距離をとって、探偵みたく尾行する。

 しだいにどこに向かっているのか見当がついた。M団地だ。山名くんたちから聞いていた情報と符合する。

 あとをつけ始めてから十五分もすると川沿いの道に出る。その向こうに団地の棟が段々になって見えた。正解だ。

 わたしはこのあたりをほとんど訪れたことがなかった。地形も頭にない。

 突然、早川くんは道をはずれ、勢いよく土手をのぼると、その上をわざわざ歩き始めた。わたしはそのまま車道をはさんだ歩道を歩き、斜め下から後ろ姿を見上げるように追った。

 それは、わたしの知らない早川くんだった。

 なぜだろう。土手の上をただ歩いているだけなのに、足どりが軽そうで、その姿からは感情が溢れているようだ。学校でいつもとなりにいても、こんなの、けっして見せたことがない。スキップする風。そんなふうに名づけたくなるような雰囲気をかもしている。

 まもなく、わたしから見えない位置にある河川敷から子どもの声がした。おそらく「アキラくーん」という呼びかけだと思う。

 それに応えるように早川くんが軽く手を上げた。その仕草がまたわたしの知る彼には不似合いで、かつ新鮮だった。セリフをつけるなら「おうっ」。少々バンカラな調子。

 次の瞬間、彼の身体が跳ねて消えた。

 わたしの頭は、遅れて彼が河川敷にかけていったのだと理解する。

 どうしよう。わたしも土手をのぼるべきか。のぼってしまうと身体を隠すものがなにもない。丸見えになってしまう。

 迷ったけど覚悟をきめてのぼる。それほど彼の姿を追いかけたい欲求がまさった。見つかったときは、そのときだ。

 夏草の繁る土手の、人が通ったあとを見つけてかけ上がる。土手の上に立つ。

 あーっ!

 なるほど。そうか――。

 この景色だ。土手を歩く早川くんに感じた不思議なオーラは、この景色を見ている彼の感情の動静だったんだ。と勝手に腑に落ちる。

 早川くんにとって、見慣れているはずの景色。それでも心浮き立たずにいられないパノラマなんだ。――そんなふうに。

 いや、実際はありきたりの見晴しだった。

 だけど、土手をのぼって目のまえにひらけた、小高い場所から見渡すありきたりな市井の営みは、わたしにもつつましやかな感動があった。

 蛇行するきらめく川面。上流にブロックのように積まれた団地群。その背後に控える、山と呼ぶにはちっぽけな小山。その上に立つ電波塔。川の対岸には戸建ての家々や中型のマンションが隙間を埋めるようにひしめき合う。川下には私鉄の鉄橋が架かり、その向こうに大型のビルが建ち並ぶ市街地がのぞく。また、わたしがやってきた方角にも対岸と同じく家々やマンションがひしめき、広がる。そして、夏の濃密な日射しは街のいたるものに反射し、あたりを白めかせている。そのすべてが心の奥をくすぐる。

 河川敷に視線を移す。

 つづまやかな遊歩道には、散歩する老人やジョギングする女性など、ポツポツと人影が見うけられる。無理やりこしらえたような小さなグランドでは、サッカーボールを蹴り合う子どもたちが日射しに負けまいと声を上げる。

 その姿にまじって、早川くんはいた。

 子どもは六人。みんな小学生の男の子たち。学年は一見てんでバラバラ。全員が早川くんと顔見知りのようだ。この中のひとりが、さっき彼に声をかけたんだろう。

 知り合いの子どもたちに誘われてサッカーごっこに加わったってところかな。

 しかし注意して見ると、ただボールをまわして遊んでいるだけじゃないと気づく。詳しくはわからないけど、早川くんはボールを子どもたちに蹴り出したり奪ったりしながらアドバイスを与えている。彼らも真剣にそれに応えている。

 子どもたちは早川くんにコーチを頼んだんだ。

 わたしは草の上に腰を下ろし、しばらく彼らの練習を見学した。そのうち、サッカーのルールすら知らないわたしにもわかった。早川くんは人並み以上にサッカーが上手だ。子ども相手に手加減していても、身のこなしの端々にその力量がのぞく。

 でも、それも些末だ。もっと驚くべきことがあった。

 それは――彼の表情だ。

 彼は子どもたちと走りまわりながら、始終晴れやかな表情を浮かべていた。あまつさえ笑顔を浮かべた。心の底から笑っているように映る。

 なんだかもう、めまいがしそうだ。

 アナタ、本当に早川くんなの?

 学校じゃけっして見せたことのない表情を、子どもたちにはおしみなく披露していた。まるで別人だった。学校での彼はいったい何者だってくらい違う。

 わたし、今、見てはいけないものを見ているんじゃ――。そう思って彼から目をはなせない。

 わたしは早川くんの皮をかぶっただれかを、飽きることなく眺め続けた。

 三十分ほどして、ようやく心を決めて腰を上げる。

 ここまできて黙って帰れない。グランドに向かう。足を踏み出すたびに、「散歩で偶然通りかかっただけ、通りかかっただけ」と念仏のように自分に言い聞かせながら。

 早川くんがわたしに気づいた。とたんに彼は教室の顔にもどる。少なからずショック。あぁ、やっぱり帰りたい。

 彼はボールを強く蹴って、「あとはオマエたちで練習しろ、オレ帰るわ」と告げると、子どもたちから離れた。子どもたちは足をとめずに、口々に「さよなら」「また教えてよ」と返す。グランドから出てくる早川くんの視線の先には、ここにくるまで下げていたトートバッグがあった。わたしも無理やり奮い立たせて、そちらに足を向けた。肺がペシャンコになってるんじゃないかってくらい息をとめていた。あわてて空気を吸いこむ。もうダメ。だれかたすけて――。

 トートバッグを拾い上げた早川くんは、チラとわたしを見た。少なくとも無視するつもりはないようだ。

「こんにちは」

 わたしから声をかけた。そうじゃないと、そのまま行ってしまいそうだった。声を出したことで、少し気が楽になった。

「うん」

「散歩していて通りかかったら、早川くんを見つけて、ちょっと見学させてもらってたんだ。早川くん、サッカー上手だね」

「あんなの、子ども相手だからよく見えただけだよ――。オレ、もう帰るけど」

 さっさと背中を向けようとする。ここで話を終わらせたら、ここにきたことが無駄になっちゃう。食い下がらなきゃ。

「散歩ついでに、わたしもそっちについていっていい?」

「……別に、好きにすれば」

 早川くんは土手に向かって歩き出す。わたしもあとを追った。

 土手の上を歩きながら、「早川くん、夏休みはどんな感じ?」と訊いた。

「別に、ふつうだよ」

「塾とか、ほら、夏期講習とかあって大変じゃない?」

「オレ、塾行ってないから」

「そ、そうなんだ。それで数学とか、あんなできるんだ。すごいね」

「……すごくないよ。学校の勉強は、授業を受けていればみんなわかるようにできている。それをわからないのは、ちゃんと聞いてないってことだろ」

「それは……それだけじゃないと思うけど」

「そうかな。まぁとにかく、オレ、学校の成績とか、そんな興味ないから」

 その口調は、強がりやカッコつけなんかじゃなく、本当に興味がないってふうで、綿毛みたいに軽かった。

 でもわたしは知っている。早川くんは成績に興味はないかもしれないけど、勉強に興味がないわけじゃない。すべてじゃないけど、むしろ特定の教科は進んで授業を受けている。そして、それは純粋に知識欲からなんだと、このとき初めて理解した。大半の生徒のように、テストのため、受験のためじゃないってことだ。

 話を変えよう。話題はなんでもよかった。

「さっき見ていて思ったけど、早川くんって、すごく子どもたちになつかれているんだね」

 あの光景は本当に意外だった。どんな返事がくるかな。と待つと早川くんは、

「あそこに団地あるだろ」

 と指さし、まるで関係のなさそうなことを話し出した。

「うん」

「オレ、あそこに住んでるんだ。さっきの連中も、全員あの団地に住んでいる」

「団地の子たちどうし、みんな仲がいいって意味?」

「まぁそんな感じ。連帯意識っていうのかな。それだけだよ。オレが子どもになつかれやすいってことじゃない」

「連帯ってどういう意味?」

「それ本気で訊いてるの?」

「う、うん」

「……ま、オマエらしいな。あの団地ってさ、低所得者が優先で入居できるとこなんだよ。つまり、オレの親もアイツらの親も、そういう枠にあてはまる人間ってこと。どの家も貧乏なんだ。そして、そういう家庭はえてして問題があることが多い。だから、子どもたちは寄りそって生活している。支え合うんじゃない。オレらにそんな力はないし、抱える問題の大きさもそれぞれ違うから。ただ寄りそうだけ。そういう連帯意識。貫奈には縁のない話だよ」

 突然、喉もとにナイフを突きつけられたように心が凍りついた。当の早川くんは、激しても突き放すふうでもない。いたって平常だ。ただ訊かれたから、オマエの知らない事実を教えてやった、そんなあっさりとした調子。

 わたしが考えもしないことを、早川くんはふだんから考えているんだ。考えざるをえない環境にいる、そういうことだろうか。

「ご、ごめんなさい」

「謝んなよ。そのほうがムカつく。アイツら見たらわかるだろ。だれも自分の境遇を悲観しているヤツなんかいない。あっけらかんとしたもんだ。アイツらは、逆に気を遣われるほうが傷つく」

「……」

 なにも返せなかった。山名くんたちが、早川くんがM団地に住んでいるらしいと言った裏には、そういう事情が含まれていたんだ。今さら自分の世間知らずに嫌気がさす。

 同じ教室にいても、わたしたちの距離のなんと遠いことか。近づきたいと思ってここまできたのに、反対にそう気づかされるなんて。

 いつしか土手が橋のたもととぶつかる場所まできていた。

「じゃぁ、オレ、そっちだから。これ以上ついてきても団地に着くだけだし。貫奈はここから引き返すなり橋を渡るなりしたらいい。じゃぁな」

「……うん、さよなら」

「……それから、もうオレには話しかけないほうがいいよ」

「ど、どうして?」

「それぐらいわかれよ。バーカ。じゃぁな」

 早川くんは、そう吐き捨てると走り出した。

「わかんない。わたし、話しかけるよ、学校だって、外で会ったって。バカは早川くんじゃないっ!」

 叫んだ。勝手に口が動いた。夢中だった。早川くんはふり返らなかった。見えなくなるまでにらみつけてやった。

 無性に腹が立って、悲しくて、でも、その理由はわからなかった。

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