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渚はベッドの中で覚醒しながら寝ぼけた頭の隅でだれかの視線を感じた。だが、それもすぐに勘違いだと思い直す。起き抜けにそんな直感が働くはずもない。
いや、ちゃんと目覚めていても同じだ。そもそも、だれがこの部屋をのぞきにくるというんだろう。
十二月二十五日、遅めの朝。
二日まえから冬休みに入っていたので、アラームはセットしてなかった。
寝たままの姿勢で片手を伸ばし、机の上を三度たたいての携帯電話を探りあてる。身体を横に向けて顔に携帯を近づけた。
十時五十分。時刻よりもメールの着信通知に意識を奪われる。
と、瞬時に昨日のことをありありと思い出してしまった。
渚は発作的に携帯を壁にぶつけようとして、やめた。そんなの、なんの意味もない。
複数あるメールの最新からひらく。
当然、すべてグレコからの怒りメール。ひと通り目を通して削除する。それから爆弾でも持たされていたように、携帯を机に放り投げた。ゴトリ。毛布を頭まで引っぱって、すっぽりもぐりこむ。
今すぐ世界が崩壊すればいいのに。リセットされればいい。家族も学校もクラスメイトも全部仕切り直し。新しい環境でなにもかもやり直したい。――って、そんなこと起こるはずないじゃん。自分はこのままずっと地獄の底をはいまわるように生きていくしかないんだ。世界なんか崩壊してしまえ――。
そんな思考を循環させて、渚はベッドから出るのを先延ばしする。できることなら、ずっとここから出たくない。だからってグレコたちの呼び出しを無視すれば、あとでもっとひどいことになるのは歴然としている。不承不承毛布から顔を出し、上体を起こした。
あれ?
やっぱりだれかに見られてる?
部屋を見まわす。だれもいない。ドアもしまっている。窓にかかったカーテンはあいたままだが――。渚は一応ベッドから抜け出て窓から外をのぞいた。そこには見慣れた視界があった。
渚の部屋は二階だ。窓の外に人がとりつくような場所もない。目のまえにとなりの家が見えるが、対面する壁には小さな磨りガラスの入った窓がひとつあるだけ。それもはめ殺し。だいたい、これまでカーテンをあけっぱなしで着替えたって平気だったのだ。窓からだれかに見られる心配はない。それにさっき感じたのは、もっと近い視線だ――。
なに考えてんだろ。
急にバカバカしくなりベッドの端にお尻をのせた。昨日の今日で神経がたかぶっているだけだ。渚はそう結論づけた。
とにかくキッチンに行って紅茶でも飲んで落ち着こう。そう考えたら、急に口の中のモゴモゴが気になった。立ち上がりイスにかかったままのカーディガンを羽織る。部屋を出るためドアノブに手をかけた。と、ここで身体に違和感をおぼえた。
なになに?
いや、特にどこか痛むといったことではない。ただ昨日までとなにかが変わっている。
あーあ、またこれも精神的な偽りの感覚だな。グレコたちから逃れたい一心で、無意識に自分を病気にしたがっているに決まってる。
渚は自分の不健全な思考をなかば受け入れて部屋を出た。
美凪の部屋からPCゲームの音がもれていた。少なくとも弟は家にいる。
ふと思いつく。このまえ美凪としゃべったのはいつだろう。夏だったかな。ずいぶん久しいことはたしかだけど――。そのときだってたぶん「あぁわかった」とか「知らない」くらいの会話とも呼べないやりとりだったはず。
ふたつ下の弟のことを正体不明のエイリアンみたいに思い始めたのは、アイツが小六になったころからだ。
それまでは、ちょっとうっとうしいくらい「オネエチャン、オネエチャン」とまとわりついていたくせに、急に部屋に閉じこもってゲームやパソコンに熱中し始めた。それから愛想がなくなり目つきまで変わった。それが男の子の思春期だといえば、そうなんだろうけど。渚にすれば、ここまで自分の生活との関わりがうすれるものだとは思わなかった。
今なら、美凪だって現在の渚のことを会話の通じない外国人みたいに思っているだろう。美凪だけじゃない。両親だってたぶん同じだ。
自分こそ弟のことを言えた義理じゃないくせに、と渚は自嘲した。
一階は静かだった。パパはもちろんママも出かけたようだ。今日はパートの日だろうか。最近はそんなことすら知らない。昨日は特にろくすっぽ口をきいてなかった。
キッチンに入りお湯を沸かす。マグカップにティーバッグを入れる。イスに座ってしばらく待つ。
んっ?
廊下への扉を見る。ガラスの向こうに美凪の姿はない。
あぁまただ。まただれかの視線を感じた。気持ちわるぅ。いったいなんなの、これ?
午後からグレコに会いに行くのは、たしかに気が重い。いや、そんなレベルじゃないな。死ぬほど行きたくない。でも――幻覚を生むほど気が立っているとも思えなかった。
それに身体の違和感も続いている。昨日までとなにか違う。具体的に指摘できないが、まるで自分の身体の中に新しい部品が組みこまれたような、そんな引っかかり。そう思えば、この視線だって、なんだか内側からのぞかれている気がしないでもない。
あぁやだやだ、これじゃぁホラーだ。気にするの、やーめた。
ポットのお湯をマグカップに注ぐ。
あっ!
待って。ちょっと待って待って。まさか――赤ちゃん? 妊娠? ウソでしょ。新しい部品って、そういうこと?
渚は目まぐるしく記憶をたどった。
このまえの生理はいつだっけ? 十一月の頭? 中ごろ? もともと不順で遅れぎみではあったけど――。
それより、そうなる原因にいくつか思いあたるほうが重大だ。
もう――やだよ。
昼すぎに家を出た渚は市営バスとJRを乗りつぎ、一時半にF駅に着いた。グレコの指定は二時にセンター街のマック。足どりが重いのは寒さのせいだけじゃなかった。
Fは市内の中心地にして最大の繁華街。昨日も今日も街中クリスマスに浮かれてる。渚はそんな軽佻な空気に吐き気がした。自分と同じ高校生くらいの集団やカップルが楽しそうにしているようすを目にすると、たまらなくみじめになる。
思い返すと、昨日は今日より寒さが厳しく、その上散々だった。
昨日、いつも通り、渚はグレコの指示でF駅南側の水がとまった噴水のまえで男を待っていた。現れたのは、若ぶってカジュアルな恰好をしていたけど、どう見ても五十代のオヤジ。グレコのメールには四十二歳とあったが、渚の目からもサバを読んでいるのが見え見えだった。
四十二歳っていったらわたしのパパと同い年じゃん、ウソつけ、と心の中で毒づく。
男はへばりつくような目つきで、渚の身体を値踏みするように見ながら、「十五歳って本当なの?」とだみ声を浴びせた。渚は適当にあしらって、足下においた紙袋から別の紙袋をとり出した。周囲の目もある。さっさと済ませたかった。
袋の口を少しあけてオヤジに中身を確認させる。オヤジは不必要に顔を近づけて中をのぞく。うすくなった頭頂部とそこに付着したフケが渚の視界に入る。それに長時間放置したサラダ油みたいなにおい。
キモッ。平日の、それもよりによって聖なる夜をまえになにやってんだ、このオヤジ。
そういう自分もなにやってんだろう。
オヤジは得心したように二度うなずく。そのまま袋に手をかけようとした。渚はすかさず手を後ろにまわし、袋をオヤジから遠ざけた。このあたりの手順にはもう慣れた。
「先にお金でしょ」
「おいおい、用心深いんだな。とって逃げたりするもんか。ちゃんと払うって。それよりもっといい話を聞かせようか。なぁ、今オジョーチャンがつけてる下着をプラスしてくれたら二枚出すけど、どうする?」
「いい。早くお金」
「じゃぁやめちゃおうかなぁ。脱ぎたてがないなら、ちょっと大枚は出せないなぁ」
「話が違う」
「今はいてる分をつけてくれたら倍の料金で買ってやるって提案してるんだから、それでいいだろ」
こんなたわごと、きっぱり断って帰りたかった。だけどお金を持って帰らないでグレコが許してくれるとは思えない。たわごとを受け入れるしかないのか――。
「わかった。トイレで脱いでくるから待ってて」
「脱ぐところも見せてよ」
「はぁ?」
「だから、これからホテルに行って、オジサンのまえで脱いでくれたら三枚出すから」
また話が変わってる。
「そんなところにノコノコついて行くとでも思ってんの?」
「あー、ボクがなにかすると警戒してるんだ。しないしない。オジョーチャンには指一本触れないから。そんなことしたら、オジサン捕まっちゃうでしょ。ね、絶対するはずない。ただホテルに行って、ボクは黙って脱ぐとこを見てるだけ。なーんにもしないから。お願い。でないと、話は全部なかったことね」
なにがボクだ。なにがお願いだ。コイツ、完全に足下を見てる。こっちがお金の必要なこと、わかって言ってるんだ。クソッ!
「……わかった。その代わりなんかしたら、大騒ぎしてやるから」
結局、渚はこの男とホテルに行くはめになった。
別にホテルに行くのは初めてじゃない。これまでも、最初からホテルに行ってお触りまで――、という条件の男の相手を何度かさせられた。でもこの日は下着を売るだけの予定だった。気持ちの持ちようが違う。それに、これまでホテルに行った相手に、ここまでの年齢のオヤジはいない。いいとこ三十代後半だ。コイツに触られることにでもなったら死んだほうがマシだ。
ふたりは駅の北側に十五分ほど歩いた北門街にあるラブホに入った。満室を期待したが、時刻はまだ夕方にもなっておらず、こんな日にかかわらずまだ空室があった。
かすかにタバコと消臭剤のにおいの残る部屋に入る。
最初、オヤジはおとなしくビールを飲みながら世間話をし始めた。余裕のある大人のアピールのつもりだろうか。だけど渚は、そんな益体もない話につき合うつもりは毛頭なかった。一刻も早く用を済ませてホテルを出たい。
「わたし脱ぐから」とかまわず断って、まず、ブラウスの袖から器用にブラをとり出した。当然文句をつけてくることを予想したけど、オヤジは黙って眺めていた。次に下。これはまともに脱ぐしかない。ためらって時間をかけても変にオヤジを喜ばすだけだ。さらっとショートパンツを脱いで、ついでタイツを下ろした。そこからオヤジが豹変した。
突然襲いかかってくると、不安定な姿勢で立っていた渚を乱暴にベッドに押し倒した。
「ちょ、ちょっと、なにしてんのっ」
渚の両足は途中まで下ろしたタイツが足かせになって満足に抵抗できない。両手でおおいかぶさるオヤジを押し返すが、渚の非力な両腕は簡単に押さえこまれる。
「はなしてよ、大声出すぞっ!」
「出せ出せ、いくらでも出せ。オジョーチャン、こういう場所はなー、合意の上で無理やりプレーを楽しむ客も多いんだ。ちょっとやそっとの声を出したくらいじゃ、だれもたすけにきやしない。憶えとけよ」
ヒヒヒッと下卑た笑みを浮かべたオヤジは、強引に渚の胸のあたりをまさぐる。
「やめろっ、キモいんだよ、オヤジ」
「うっせーっ! この生意気なクソガキがっ!」
オヤジが強烈なビンタを渚に浴びせた。顔がしびれてしばらく耳がつまったように聞こえない。声も出ない。なにより抵抗する気力が一気に失せた。どだいコイツの力にかなうはずがないんだ。ここまできた自分がバカだっただけ。
もういいや。
「……お願い、乱暴は許して……。触られるだけなら我慢するから……」
「少しは社会のルールがわかってきたじゃねえか。よしよし、おとなしくしてろよ」
社会のルールってなんだよ……。
オヤジのボロ雑巾のような手が脱力した渚の身体をはいまわり始めた。
センター街のマックに入ると二階に上がりグレコたちを探す。
いた。奥まった窓ぎわに三人の姿を確認する。
グレコ。ミーナ。カオリ。渚の姿を認めるなり、憤然とした態度に変わる。
「イィチィミィチィ」
粘着質に呼びかけられる。
「オマエよくそんなとぼけた顔でノコノコこられたな。昨日すっぽかして、どうなるかわかってんだろうな」
渚が席に着いたとたん、グレコが脅迫する。このくらいならまだまだ余裕のうち。少なくとも店内にいるあいだは安全だ。
「……ごめん、昨日はちょっと相手ともめて、遅くなって行けなかった……。ご、ごめんなさい」
「だからって、アタシのメール無視して、どういうつもりなんだよ」
「ごめんなさい、ホント許して。無視するつもりとか、全然なかったの。ただ、疲れすぎて、なにも考えられなかったから……」
「ふざけんなっ!」
グレコは目のまえのドリンクを渚に投げつけた。渚の頭にあたり、液体と氷が顔と胸元に飛び散った。渚は黙ってハンカチを出して顔を拭った。まだ許容範囲、許容範囲。
「とにかく先に金を出せよ。ちゃんと一枚とってきたんだろ? 罰を決めるのはそれからだ」
「……それが――もらえなかった」
これを言い出すのがいちばんこわかった。
「はぁ、なんだそれ? ホントふざけてんのか。だれがオマエの代わりに、わざわざセッティングしてると思ってんだ。なめるなよっ!」
グレコの声に店員がこちらをのぞくようにうかがう。渚はその店員にぎこちなく笑ってみせた。それを見て店員が離れていった。
渚はしかたなく昨日の男の話を始める。