夢籤
とりとめのない、つかみどころがない物語が書きたかったのです。意図とは違ったものに仕上がりましたけれど。
※この小説は旧かな遣いで書かれています。縦読みPDFを推奨しています。旧かな遣いは割とフィーリングで書いているので、旧かな遣いになっていない部分や用途が不適切であることが予想されますが、あまり気にしないでください。
夢を買おふ。
そう思つたのはつひ先程の事で、其れ迄は別段、夢を買おふなどとは思つてはゐなかつた。むしろ夢など所有してゐたところで一銭の得にもならぬし、購入しただけ損してゐるとさえ言へる。夢もピンキリで、安ひ物なら百均にでだつて売つてゐるが、高ひ物となると、サテ、何処迄値が上がるのか限界が見へぬ。そして何よりも、夢には使ひ道がないのだ。最終的には摩耗して消滅するのが関の山である。
だが人は言ふではないか。夢がない人間はダメだ、と。何度も言ふが、夢には使ひ道がない。摩耗を待つばかりである。だが其れなのに、人は夢がないとダメだと抜かす愚か者が多ひ。
夢を買ふなら現実を買へ――と、私はそんな愚か者どもに警告したひのだが、世の中には多数決、民主主義と言ふものが在つて、私の様な少数派は淘汰される運命にある。ならば、長ひ物には巻かれて了ふのが、幸せになる為の第一歩である――と、そろそろ四十近くになつて思ゐ至つた次第である。
夢如きを買ふのにデパートまで出向くのは癪だが、かと言つて百均では些か味気ない。コンビニで買つても良いのだが、私の家の近くにはデパートこそ在れ、コンビニは存在しないのである。少々億劫だが、近所のスーパーへ向かふ事にしよう。夢が欲しひ訳では断じてないが、買ふと決めたからには買わねばならぬ。
外へ出ると、先日の猛暑に負けて道路の頭がおかしくなつてゐた。グネグネとネズミ花火の如く踊つてゐる。通行止めになつて了ふ前に、此の頭のオカシイ道路を渡つて了ふことにしよう。
これ、歩きにくひではありませんか。
余りに歩きにくひので、道に声を掛けてみた。
■■■■。
道は反応こそ示したが、私には道が何を言つてゐるのか聞き取れなかつた。私が聞き取れぬといふことは、他の誰も聞き取れぬといふことだ。此れではまるで話にならぬ。諦めて荒れる大海の如き道を進む事にする。どちらにせよ、私は進む他なく、荒れてゐようがゐまいが、大した差はないのだ。通行止めにさへならなければ良ひ。そんな事をしてゐる内に荒れる道路が家屋を三棟程食つて了つた。あの家の住民は無事だらうか。道路が気を確かに持つてさへゐれば、無駄な被害も出ぬものを。此れは道路が罪深ひのか太陽にこそ原因があるのか、判断の難しひ所である。否、そもそもが私が判断するべきものではないのだ。此れは医者の領分で、私の様な善良なる一般市民の立ち入るべき場所ではない。
仕方ない。此れも此の町の為だ。医者を呼ぶだけ呼んでしまへ。そうと決まれば善は急げといふ。私は直ぐに左の眼球をくり抜き、眼孔に指をねじ込んだ。頭の中で鳥の様な声が聞こへ、医者に繋がつた。
もし。事故死ですかネ。
医者は開口一番にそんな縁起でもないことを言ふ。
事故死ではないのです。ナマズの舌の道路を診て遣つて欲しひのです。
其れはできませんネ。
何故でせう。
医者は病人を診て遣るのが仕事ではなかつたか。私の思ひ違ひだつただらうか。
いへゝ、其れで合つてゐますよ。でもできぬのです。私は医者ではなく生没調整官なのです。
私としたことが間違ひ電話をして了つたらしい。成程、確かに其れでは道路を診てもらふことはできぬ。よりにもよつて生没調整官とは。一歩間違へれば道路を診てもらふどころか、其のまま棺桶に詰め込むことになりかねなかつた。
間違つて電話をして了つた様です。
良ひのですよ。最近多ひので。医者には私から電話をしておきませう。
其れは有難ひ。是非、お願ひします。
生没調整官は電話を切る間際、何やらボソゝと呟ひた様だが、何を言つたのかは聞き取れなかつた。此れは単純に声が小さかつたからだ。世界中を探せば、聞き取れる者も居るかもしれぬ。
此の後、危うく警官に殺されそうになるといふアクシデントが起きたが、其れ以外は概ね平穏な道程でスーパーに辿り着ひた。スーパーの中は先日の猛暑を考慮して、冷房がフル稼働してゐる。自動ドアは触れぬ程に冷たくなり、商品棚も雪山の岩壁の如く険しい表情を見せてゐる。ただ床だけは頭がおかしくなつてゐることもなく、持ち前の熱い性格のおかげでフル稼働の冷房にも負けずに普段通りに其処に在つた。
貴方は素晴らしひですネ。
床を褒めると、床は照れて了つたのか、真つ赤に燃へて床の上に置かれてゐた幾つかの脳髄を溶かして了つた。床も失敗することはあるのかと、私は呑気にそんな事を思つたが、床は深刻に思ひ悩んで了つた様で、今度は真っ青になつて一部が腐食して崩れ落ちて了つた。此れはもう何も言わずに立ち去るべきであらう。この程度なら未だ笑ひ話で許されるが、此れ以上となるとそうもゆくまい。
猫の骨盤が並ぶ棚の向かひに、夢が売つてゐた。ようやく本来の目的を果たすことができる。此処迄来るだけで随分と時間を取られて了つた。早く帰つて了おうと思ふが、慎重に選ばねばならぬ。興味のない買ひ物であるからこそ、慎重に事を運ばねば無用な災いを呼びかねぬ。私は其れを厭と言ふほど知つてゐる。まず避けるべきは流行りの商品である。商品棚に箱詰めされ陳列されてゐる夢は多すぎて何がなんだか解らぬが、此処で適当に手を伸ばし、大金持ちになる夢なんぞを買つて了つた日には明日から家の外に出られぬ様になつて了ふ。否、代金を払う事さえ儘ならぬ。だが此処で余りに貧相な夢を買つて了つては、其れもまた世間の失笑を買ふ事になる。夢を買つて失笑を買ふなど、愚か者でさえそんなことはしない。つまり狙うべきは、平凡かつそれらしい夢である。
理屈は解つてゐるのだが、此れ迄夢といふ物とは無縁であつた身、コレと言ふ物が見つからぬ。
夢が見つかりませんか。
其処には獣の耳のような突起の在る帽子を被つた少女が居た。店員かと思つたがどうやら違ふ様だ。考へてみれば店員が声を掛けてくる筈がない。初めての買ひ物で混乱してゐるらしい。
平凡かつ其れらしひ夢を探してゐるのですが、心当たりはあるでせうか。
人――特に若ひ者は夢を持つ者が多ひと聞く。獣耳の少女は歳も十代半ばか前半と見へる。ならば夢につひて話を聞くならば、獣耳の少女は正に適役であらう。幸運である。
其れは夢の無ひ事を仰ひますネ。
しかし獣耳の少女はそんな事を言ふ。
夢がありませんか。
ありません。
獣耳の少女は断言した。どうしてでせう、と聞ひてみた。獣耳の少女は少し呆れた様子を見せたが、良いですか、と、説明してくれた。
夢とはそういふものではないのです。平凡だとかそれらしひとか、そういふ理由で買う物ではないのですよ。
では貴女はどうやつて夢を選ぶのです。
獣耳の少女は不敵に笑ひ、目を閉じた。
何故目を閉じるのですか。
私が聞くと、獣耳の少女は見てゐれば解りますよと言つて、理由は教へてくれなかつた。見てゐれば分かるのならば、其れは其れで良いと思ひ、私は黙つて獣耳の少女の動向を観察した。
コレです。
獣耳の少女は目を閉じたまゝ手を伸ばして夢の入つた箱を一つ手に取つた。そして目を閉じたまま暫く歩ひて行くと、目を開ひて此方に振り返つた。
私は此の夢を買ひます。
其れでは何の夢を買つたか分からぬではないですか。
勿論私は見てゐたから解るが、夢とはどれも同じ様な箱に入つてゐて、あんな選び方をしては何を買つたのか解らない。夢職人や此の店の店員ならば解るのかもしれぬが、獣耳の少女がそんな技術を有している様には思へぬ。
其の方がドキドキするじゃありませんか。
そう言つて獣耳の少女はレジに向かつて歩き出した。
ちょ、一寸お待ちなさい。
私も慌てゝ獣耳の少女を追ひかけようとしたが、此のまゝ夢を買わずにレジへ向かふのは余りにも格好がつかぬ。仕方なく手近に在つた夢を取つて、獣耳の少女が居るレジに並ぶ。レジ打ちの店員は獣耳の少女が買おふとしてゐる夢にバーコードを読み取る機械を何度も押し当て、ピツピツと音を鳴らしてゐる。
オイゝ、もう良いのではないですか。
此のまゝでは日が暮れて了ひそうだつたので、私は敢へてそう言つて作業を促したのだが、其れは愚の骨頂であつた様だ。レジ打ちの店員はギョロリと四の目を私に向けて睨みつけてきた。
そういふ事は余り言わない物ですよ。
獣耳の少女が笑ふ。
どうぞ、レジを打つて下さいナ。
獣耳の少女がそう言ふと、レジ打ちの店員はニコリと笑つて音を鳴らし始めた。
良ひのですか。此れでは何時まで経つても終わりませんよ。
其れは困りますネ。
獣耳の少女は然程困つてゐる様子もなくそんな事を言ふ。
一先ず貴方は隣のレジで精算して下さいなナ。其の頃には此処も終わるでせう。
では、私は隣へ行きませう。
些か心苦しくはあるが、此れも致し方無ひ事ではあるのだ。レジ打ちの店員が誰に当たるかなど、神仏しか予見する事はできぬ。其れをできると豪語する罰当たり者も存在するが、大抵は嘘八百のペテン師である。否、大抵と言ふと本物が在る様に思われて了ふが、言葉の綾で、本物など存在しない。
サテ、ではお願ひします。
私のレジ打ちの店員は錆びつひたブリキの人形だつた。ギギギ、ギギギ、と耳障りな音を鳴らしながら、隣のレジ打ちの店員とは真逆で、迅速に職務をこなそうとしてゐる。しかし錆びた躰ではなかゝ思い通りは行かぬと見へる。
手伝ひませうか。
此れでは隣と大差ない。否、此方は終わりがある分マシだが、其れでも時間が掛かり過ぎる。ブリキの人形はギギギギと言ふだけで、言葉は話せぬ様だ。此の様な者が店員を務めてゐるとは、此のスーパーもなかゝ風変わりな店である。不思議と悪ひ気はしない。
ブリキの店員が作業を終へたのは、北風の猫が鳴く頃であつた。随分と待たされたが、しかし獣耳の少女を担当してゐるレジ打ちの店員とは違ひ、何故か不快感といふものは全くなかつた。不思議な事もあるものだ。
獣耳の少女は未だ精算は終わつておらぬ様で、最早狂つてゐると言つて相違ないレジ打ちの店員を、厭な顔一つせずに見て居る。あの歳にしてできた娘だ。私とは育ちが違ふ。思へば獣耳の少女は清楚な服を着てゐる。何処か良ひ家の生まれであらうか。あるひは獣耳の少女といふ存在そのものが良きものなのかもしれぬ。
お疲れ様です。
私に遅れて数刻の後、獣耳の少女がスーパーから出てきた。獣耳の少女は商品を見ることなく選んだ割に、随分と大事そふに先刻購入した夢を抱ひている。
夢は開封されたのでせうか。
獣耳の少女がそんな事を言ふので、私は首を振った。私も何も見ずに夢を手に取つた為、此の夢が何なのか、恐ろしくなつて未だ蓋を開けてゐない。
其れは良かつた。
獣耳の少女は笑ふ。
何故です。
一緒に開封しようと思つてゐましたので。思へば此処で出会つたのも何かの縁でせう。此処は己の夢について語らつてみるのも一興ではないでせうか。
獣耳の少女の提案は、実に面白そふではあつたが、此の夢の正体を知らずして其れに乗るのは些か勇気が必要であつた。其の旨を伝へると、獣耳の少女クスクスと可愛らしく笑つた。
夢を語るのは照れくさひものですよ。
貴女もですか。
えゝ。
となれば、此処で獣耳の少女の提案に乗らぬのもまた、大人気がないであらう。此の歳の差で夢を語らふといふ事実にも照れがあるが、其処は夢を初めて買つた気恥ずかしさと共に捨てゝ了へば解決する――と思ふことにする。
では貴方の夢から教へて下さいナ。
其処は獣耳の少女から言ふのが筋だと思つたが、其れを言ふ事はしなかつた。矢張り此処は大人の私から口火を切るといふのが、其れに優先される筋である。
では開けてみませうか。
サテ私の夢は一体どんなものなのだらうか。恐る恐る蓋を開けて行くと、不思議なもので、箱から沸き上がつてくる夢が往年の私の夢であるかの如く、自然と私の心に定着して行く。成る程、此の充足感を知らぬ者はダメだ。愚か者は此れ迄の私であつたのかもしれぬ。しかし此の充足感も一瞬のもので、直ぐに普段の心持ちに戻つてゐた。しかし夢は夢として残つてゐるといふ不思議な感覚である。
して、貴方の夢は。
自分の夢が解った今、獣耳の少女に言ふのは先程とは違ふ理由で言ひ辛くなつて了つた。しかし言わねばならぬ。そういふ約束だ。
夢は家庭を持つことです。
意を決して、私は獣耳の少女に自らの夢を教へた。
まァ、其れは素敵な夢ではないですか。
獣耳の少女は顔の下で手を合わせて微笑んだ。其の仕草は獣耳の少女にとても良く似合つている。
そうでせうか。
四十近くの、良い年の男が未だに家庭を持つてゐないといふのも、考えてみれば余り此の位の歳の娘には知られたくないものだ。今獣耳の少女に話して、そう思つた。
えゝ。
獣耳の少女が余りに明るく笑ふので、私は少し照れくさくなつて、貴女はどうですと話を進めた。あの箱はどんな夢が詰まつてゐたのか、私は其れを見てゐたはずだつたが、レジで時間を取られ過ぎて了ひ、記憶は水に放たれた魚の如く、何処かへ消へて了つた。
そうですね。
と、獣耳の少女は自らの夢の箱を開ひた。
どうです。
私が促すと、獣耳の少女は矢張り屈託なく笑みを浮かべ、箱の中身を私に晒した。そんなことをして了ふと、私に心の全てを晒して了ふと警告する暇もなく、其の動作は終了して了つた。
私には夢がありません。




