雨に潜む
彼と初めて会ったのは、夕暮れに染まる、兄のお墓の前でした。
その日は珍しく、晴れた空から少し強めの雨が降っていて。
「……、あれ?」
ふと傘を傾け、雨に霞む視界の先を見ると、傘もささずに佇む男の姿を、紗呉は見つけた。
その人が立っていたのは、ちょうど兄が眠るお墓の前で、兄の知り合いだろうとかと、首をかしげる。
紗呉はその時、その人を兄と親しかった人なのだと思ってしまった・・・――――。
横顔に見えた頬を伝う雫が、雨だったのか涙だったのか、紗呉には分からない。
気付くと紗呉は、雨に濡れるその人の姿に、見とれていた。
まるで時が止まったかのように、本当は数秒の出来事で。
ふいにこちらへ視線を向ける彼すらも、雨に見せられた幻なのではないだろうかと思った。
一瞬その人の姿が兄と重なり、息をする事さえ忘れてしまいそうになった。
「……君は、誰?」
ボーっとその人に見とれて居ると、こちらに気付いた男性が、突然声を掛けてきて、紗呉はとても驚いた。
頭の中であらゆる言葉がめぐり、うまくまとめる事が出来ずに困惑した。
「わっ…私、は…。その人の、妹…です。」
紗呉のたどたどしい言葉に、その人は首を傾げ、自分の前にある墓石に視線を向ける。
そして納得したように小さな声を漏らして、力なくぶら下がっていた左手を、ズボンのポケットへと突っ込んだ。
「……妹だったら、知ってるよね。こいつさ、いつ逝ったの?」
「え?あの、5年前…です。」
「5年前……。どうりで、探しても見付からない訳だ……。」
そう呟いてその人は、兄の墓の前に蹲った。
まるで頭を抱えるように、泣き顔を隠すように、笑っているようにすら見えた。
その姿があまりにも痛々しくて、せめて雨から守ろうとその人へ傘を傾ける。
「……何?」
「あの、風邪ひいちゃいますから…。」
彼は紗呉の言葉を聞くと、もろく今にも壊れてしまいそうな表情で、紗呉を見上げた。
その表情を前に、紗呉はその人を放っておく事が出来なくなった。
先ほどからずっと、兄の姿がこの人と重なって見えてしまう。
**
兄のお墓で会った男性を、紗呉はずっと忘れる事が出来なかった。
あれから数日が経過しているのにも関わらず、あの日の光景が脳裏を過ぎってはボーっとしていた。
願わくば、再び会える事を期待している自分が居る。
「あれ、君は……」
そんなある日の金曜日。
買い物を終え、スーパーから出てきた紗呉の目の前に、お墓にいたその人が突然現れた。
「これから晩御飯だったんじゃないの?」
「はい。でも、一人暮らしなので大丈夫です。」
「そっか。」
彼は浜岸宙と名乗り、夕食へ誘ってきて、紗呉も話をしてみたいと思っていたので、了承した。
だが、宙は紗呉が一人暮らしをしていると言っても驚かず、ただ一言、呟いただけだった。
兄の悠哉も、何を聞いても驚かず、全て分かっているかのように優しく包み込む人だった。
やっぱりこの人をみていると、嫌でも兄を思い出す。
姿を、重ねずにはいられない・・・――――
「宙さんは兄とどういう関係だったんですか?」
「悠哉が仕事辞める8年前まで一緒に仕事してた。」
「え、仕事を辞めていたんですか ……?」
「……、知らなかったの?」
8年前、その頃は家がごたごたしていて、兄と一緒には住んでいなかった。
兄は一人で暮らしていて、紗呉は父方のおばあちゃんの家に預けられていたのだ。
7年前から兄と一緒に暮らし始め、
仕事はしていたので宙さんとの職場を辞めた後にどこか別の所で就職したのだろう。
紗呉の知らない兄を、この人は知っているのだ。
「どうして、兄を探していたんですか?」
「……。勝手に仕事やめたから、文句言いたくて。」
少しの間が、彼の言葉を否定した。それは本当の理由とは違う。
紗呉はそんな事を考えたが、何故だろう。そう思いたくなくて、その疑問を喉の奥へ押しやった。
「仕事場での兄はどうでした?」
「新人のくせに仕事すごいできるって騒がれてた。仕事競って頑張りすぎて、一緒にぶっ倒れたり。」
「えぇ!?」
「うまくいかなかったら飲みに言ったり、愚痴りあったりしてた。」
「とても仲が良かったんですね。」
「お互いをライバルみたいに思ってたけど、今思えば少し違う。ライバルが飲みにとか行かないし。」
それから、宙さんから聞いた兄の悠哉の話は、とてもリアルで。
本当にこの人は悠哉と仲が良くて、一緒に仕事をしていたんだと納得した。
それを思うと、先ほど悠哉を探していた理由にも、納得がいく。
そのことに安堵している自分に、紗呉は心の中で首をかしげた。
ファミレスをごちそうになり、店から出てきた時、外はいつからか雨が降っていた。
「私傘持ってますから、使います?」
「傘は基本使わない。荷物とかが濡れなきゃ、自分は気にしないから。タオルはあるし。」
「それだと風邪ひいちゃいますよ、自分の体は大切にしてください!」
「……、やっぱり兄妹なんだな。昔悠哉にも言われた事ある。」
「じゃぁ直してください。」
「人の価値観は、そう簡単に変えられない。」
確かにそうだとは思ったけれど、紗呉はその考えに賛同できなかった。
そんな紗呉を見て、宙は仕方ないというように、紗呉が傾ける傘を受け取ってくれた。
そして何も言わずに、紗呉を家へ送り届けると傘を返して、一人夜の住宅街へと消えて行ったのだ。
紗呉はその時、宙さんが雨の中へ溶けてしまうのではないかと、変な事を考えてしまった。
**
「おかえり~、紗呉ちゃん。」
「真弓さん、来てたんですか?」
家へ入ると、兄の婚約者だった綾乃真弓さんが出迎えてくれた。
一人暮らしをしている紗呉を心配して、たまに家へ来ている。
婚約が決まった6年前、紗呉は二人をとても祝福した事を覚えて居る。
「遅かったのね、誰かと一緒だった?さっき話し声が聞こえたけど。」
「この前お兄ちゃんのお墓の前で会った人と、スーパーの前で再会して、ご飯を食べてたんです。」
真弓さんは紗呉の言葉を聞いて、何を思ったのか顔を真っ青にして困惑しているようだった。
その様子に疑問を抱き、私は首をかしげる。
「あの、真弓さん?」
「紗呉ちゃん、その人名前はなんて言うの?」
「宙さんです、浜岸宙さん。8年前まで一緒に仕事してた同僚らしいんですけど。」
突然青ざめた真弓さんがわからなくて、紗呉は素直に宙さんの事を話した。
すると真弓さんは、とても真剣な表情で私の肩を掴むと、真っ直ぐ目を見つめながら少し低い声色で口を開いた。
「お願い、その人ともう二度と会わないで。」
「どうして、ですか……?」
「浜岸は危険な男なの。詳しくは言えないけど、きっと世界で一番悠哉を憎んでる。」
「う、そ…。だって、あんなに嬉しそうにお兄ちゃんの話をしてたのに。」
「昔はそうだったかもしれない、でも悠哉に裏切られたと思った今は。本当に危険なのよ。」
悠哉が死んだとわかった今、あなたが狙われてもおかしくないの……――――
**
真弓さんにそう言われてから数週間、彼女は私の家で一緒に暮らしている。
家まで送ってもらった事を話した時、いつ何をしに来るかわからないからと、用心のために。
けれど私には、真弓さんの言う事が信じられなかった。
あれ以来、宙さんは姿を現さない。
何も音沙汰ない日常が過ぎて、二ヵ月。
私はふと、兄のお墓へと足を進めた。
そこに、彼が居るような気がしたから。
「やっぱり、ここに居たんですね。」
案の定、宙さんは兄のお墓の前で、初めて会った時と同じように、雨の中傘もささずに佇んでいた。
その姿が痛々しくて、真弓さんの話が脳裏に浮かぶ。
「紗呉ちゃん、……どうした?」
「本当の事を確かめたくて、教えてください。復讐するために、兄を探していたんですか?」
「……誰に、聞いた?」
宙さんからは、否定の言葉は出て来なかった。
きっとそれが、彼なりの肯定だったのかもしれない。
その答えに、どこか納得している自分が居て、紗呉は心のどこかで気付いていたのだと、今更ながら自覚した。
「兄の婚約者だった綾乃真弓さんという人に。真弓さんも、昔一緒に働いていたんですよね。」
「……真弓が、悠哉の婚約者?」
宙さんの態度から、彼が真弓さんの事を知っているのだとわかった。
けれど、徐々に見開かれるその瞳から、困惑と動揺が読みとれて、紗呉は少し驚いた。
まさかそんな反応が返って来るとは思わない。
「確かに真弓は、8年前一緒に仕事してた内の一人だ。あの女から、全部聞いた?」
「いえ、宙さんは兄を憎んでるから、近づくなとしか。」
「そっか。……、悠哉とは親友だったんだ、仕事でも人間としても尊敬してた。でもあいつは、俺と自分の大切な人を、自殺させたんだ。」
呟いて、宙は曇天の空を仰いだ。
雨が降っている事すらも気にせずに。
そして諦めるような、安堵のようなため息を漏らしながら、今度は地面に視線を向ける。
紗呉はその動作を瞬きすることなく見つめていた。
今にも崩れてしまいそうなその存在に、目を離す事が出来なかったのかもしれない。
どうしてここまで気にしているのか、自分には分からなかった。
「教えてあげるよ、悠哉を探してた、本当の理由。」
そして話し始めた彼と兄の、紗呉の知らないお話。
**
兄が入社して、その仕事の出来に騒ぎになった2人の青年。
彼らはお互いをライバルとしてみると同時に、とても大切な親友になった。
悠哉と宙、そして真弓ともう一人、絢花という女性と4人のチームで仕事をして、そこでも大きな絆が出来た。
4人は意気投合し、その会社で一番の売上チームへとなっていた。
仕事もうまくいき、何の問題も無くこのままの日常がずっと続くと思われていた、ある日。
悠哉と絢花が付き合いだした。
実は宙も絢花に想いを寄せていたけれど、悠哉ならば構わないと身を引いた。
その時偶然、真弓が悠哉を好きだった事を知る。
けれどもその時、宙は見て見ぬふりをした。
何をしても、意味がないと思ったのだ。
それから2年ほど、少しぎこちないけれど、それでも幸せな日々が続いていた。
真弓が悠哉に想いを伝えるまでは、ちゃんと上手くいっていた。
その事を知った絢花は、何を思ったのか、すごい勢いで悠哉を問い詰めた。
浮気を疑った絢花は悠哉とケンカをして、その度に宙は絢花を慰め、真弓が悠哉の話を聞いていた。
悠哉の優しい態度が絢花を苛立たせ、真弓に誤解を与えて居たのを宙は知った。
悠哉の優しく包み込むような性格は宙も認めていたが、
自分の好きな女性が苦しんでいる様を見て居るのはとても辛かった。
2年経っているからと言って、その時はまだ気持ちも消えて居なかった。
だから宙は悠哉に大切ならば一人だけを大切にしろと言ったけれど、その後の状況は変わらなかった。
真弓に悠哉の相談役を外させ、二人で話すように仕向けて、自分も身を引いた。
しばらく様子を見て居ると、悠哉と絢花はよりを戻して出社してきて、これで安心だと胸をなでおろした。
だがその半年後、絢花は手首を切って、自殺した。
**
「絢花が自殺してからしばらくして、悠哉も退職していった。」
「そんな……」
四角関係、それは恋愛のもつれから引き起こされた、彼らにとっての悲劇の様なものだったのだろう。
誰も予想なんてしなかった、幸せすぎて、きっと出来なかった。
昔の事を話す宙さんは、無表情に見えて、どこか辛そうだった。
それは雨がそう見せているのか、この人と会うときは、いつも雨が降っている。
「その話が信じられなくて、俺は悠哉を問い詰めた。否定がほしかったのに、あいつは事もあろうにそれを認めた。あいつは全てを歪めて、それから突然、俺たちの前から姿を消したんだ。」
信じた人に、彼は裏切られた。
その苦痛に歪む表情が、彼の負った心の傷の深さを、物語っていた。
「ここで君と会った時、一瞬あいつが帰って来たのかと思った。兄妹だったら似てても当たり前だけど。」
「でも、君はあいつじゃない。君に会ったって、仕方ないのに、どこかで君を、あいつを探してた。」
「……宙さん?」
「俺はこの8年、悠哉に復讐するために生きてきた。悠哉が居ないなら、俺は……。」
彼の途切れた言葉から、紗呉はどうしようも無い不安が過ぎった。
勝手な思い込みかもしれないけれど、それでもやはりこの人を放って置く事は出来なくて。
紗呉の口からは、自然と言葉が零れ落ちて居た。
**
ずぶ濡れのまま家へと帰宅して、黒いソファーへと倒れ込んだ。
自分が濡れて居る事に気付いて、のっそり体を起こす。
脱水所へと足を向ける途中、ふと玄関に視線を向ける。
そこには悠哉の妹、紗呉から押しつけられるような形で借りた、シンプルな傘が置いてあり、
宙はしばらくその傘を見つめていた。
「……。」
服を脱いで、鏡に映る自分を見る。
そこに映る自分があまりにも無表情すぎて、何て顔をしているんだと思った。
あの子の前でもこんな表情だったのなら、少し申し訳ない事をしたかもしれない。
必死で何かを言おうとしている悠哉の妹の姿を思い出して、似ているのにあいつのような余裕がないと思った。
そして、墓地での彼女の事を思い出し、無意識のうちに、宙は微笑を浮かべていた。
**
「紗呉ちゃん、どうしたの!?」
家へ帰ると、真弓さんが驚いた顔で出迎えてくれた。
それも当たり前だろう、出かける時はちゃんと傘を持っていたのに、帰って来てみればずぶ濡れで、
傘はどこにも見当たらない。
「傘無くしちゃって、仕方ないから急いで帰ってきました。」
「風邪引いちゃうから、お風呂入りなさい。」
真弓さんは紗呉の嘘に気付いていないのか、少し焦ったようにお風呂をすすめてくれた。
紗呉は素直に体を温めようと、お風呂に入るため着替えを取りに自分の部屋へ向かった。
着替えを出している時、宙さんはちゃんとお風呂に入っているのかな。
という、言葉が自然に浮かんできた。
何を考えて居るんだと自分にあきれ、兄の存在がふいに脳裏をよぎる。
そしてふと、押し入れにしまってある兄の遺品を思い出し、どうしてか気になった。
そういえば、兄が亡くなってから悲しくて、遺品を全て見て居なかった。
「あれ、なんだろこれ…。手紙?」
ふと箱の奥底にあった封筒を見つけ、紗哉は首をかしげながらも手に取った。
宛名は、浜岸宙様 と書かれている。それは紛れも無く、兄の字だった。
「お兄ちゃんが、宙さんに手紙?でもどうして、切手まであるのに出してないなんて……。」
変だと思った時、自分が兄の死因について詳しい事は何も知らない事に気付いた。
紗呉は兄の死が受け止められず、ショックのあまり兄の遺品からも死因からも眼を背けて居た。
兄が死んだ原因は不幸な事故だと真弓さんに聞いただけ。
紗呉は嫌な予感を感じながら、その手紙の封を解いて、中身に目を通した。
「……ッ!? 何、これ―――――」
**
仕事が終わり、夜の街中を1人歩いていると、妙に眠気が襲ってきて敵わない。
疲れているせいもあるのだろうが、ボーっとしているとつい余計な事を考えてしまう。
空を仰ぐと、散りばめられた小さな星々が、まるで自分が今まで取りこぼしてきた物のように感じる。
それだけ宙が綾花の事を引きずり、周りが見えなくなっていた事になるのだろう。
悠哉の死を目の当たりにしてから半月が経過していた。
俺は今まで何をしてきてたんだろうな……―――
考え事をしていると、いつの間にか家の前にやってきていた。
ポストを除き、入っている手紙類を無造作に掴み、部屋へ入る。
玄関には数日前に小さな少女から借りた傘が、未だに返す事が出来ずに置いてある。
それを見ると、少し心が温かくなるように思えた。
「ん?」
ふいに手に持っていた手紙類に視線を向けると、複数の広告の中に茶色い封筒が混ざっていること気付いた。
宛先には宙の名前、差出人は。
「……悠哉!?」
死んだ人間から手紙が届く、ドラマやなんかで見た事はあるが、そんな事が現実にあるのか。
今更あいつは、俺に何の用だろう。
一瞬、宙はその手紙を見なかった事にしようかと思った。
だが、ふと脳裏に浮かんだ人物を思い、いつの間にか震える手で封筒を開けていた。
そして中の文字に目を通しているうちに、宙の表情は見る見るうちに驚愕のものへと変わっていく。
気付けば宙は、頭を真っ白にして、雨の中を夢中で走っていた。
【 近いうち全て解決すると思います。だから他の誰でもない、宙さんの人生を、生きてください・・・。 】
**
空は先ほどまで、とても晴れていた。
だというのに、いつしか淡い光が瞬いていた夜空には、厚い雲が空を覆っている。
静かに降り始めた雨が、まるで泣いている様に思えたのは、気のせいだろうか。
これから紗呉がやろうとしている事を、きっと彼は許してくれないだろう。
けれど紗呉は、この行動を間違っているとは思わない。
この先に何が待っていようと、紗呉はきっと後悔などしないだろう。
「私、ずっとあなたを信じてたんです。お兄ちゃんと絢花さんを殺したのは、真弓さんですよね。」
「突然、何を言っているの?」
紗呉の言葉を背後で聞いていた真弓さんが、震えた声で必死に冷静を保とうとしているのがわかった。
真弓さんの姿を見て、自分の頭が逆に冷静になっていく。それが何だか恐ろしい。
けれど、今更後戻りなんてできなかった。
部屋で見つけた兄の手紙には、全ての真相が記されていた。
絢花さんを自殺に見せかけて真弓さんが殺した事も、脅されていたことも、兄の死因は事故でなく自殺であること。
行動の理由も、彼女を恨んではならないと言う兄の言伝も、その手紙に記されていたが、
紗呉は宙さんの事を思うと、胸が熱くなるのを止められなかった。
これはきっと怒りだと気付いた時、兄の命日がすぐそばまできている事に気付いた。
「兄の遺品の中に、宙さん宛ての手紙がありました。内容はあなたが絢花さんの手首にカミソリを突き刺した事。脅して兄の婚約者になり、追い詰められた兄が自殺を企んだ事等が記されていました。」
紗呉の言葉を聞き、逃げられないと思ったのだろう。
真弓さんは小さなため息を漏らすと、先ほどの様子からは想像もできないほど、彼女の全てが豹変した。
「上手くいかない事ばかり、そうよ。絢花は殺し、悠哉を追い詰めたのは私。こんなに引きずるなんて思わなかった、あなたを片付けたらこの件は終わるの? 折角宙には近づくなって、忠告したのに。」
とても悲しそうに言うと、真弓さんは自分の鞄から折り畳み式ナイフを取りだした。
今まで見た事の無い真弓さんの素顔は、とても寂しそうで。ナイフを持って迫る真弓の姿を前に、
紗呉はこれでいいのだと、心の中で呟いた。
その時、ふと宙さんの姿が脳裏に浮かび、こんな時に、と呆れて笑う。
今なら分かる、きっと真弓さんは兄を好きだったのではなく、ホントは…―――――。
**
夜の街中を駆けずり回り、やっと目的地に着いた宙は、荒い息を繰り返し、ある意味で限界を迎えていた。
体を濡らす水はすでに、雨なのか汗なのかわからない。
やっとの思いで悠哉の墓がある角へ走る。
何も起きないでくれと心の中で叫んだのもつかの間、宙を待っていたのは、予想もしない光景だった。
それは今にもナイフを持った真弓の襲われんとしている紗呉の姿。
それを目撃した瞬間、宙の頭は真っ白になり、体は勝手に動いていた。
「宙さん・・・!?」
気付いた時、目の前には今にも泣きそうな顔で宙を見下ろす、悠哉の妹の姿があった。
少し離れた所では、ナイフを持ったまま地面に崩れ落ち、震えている真弓がいて、
その姿がはあまりにも殺人者には似つかわしくないほどに、動揺と恐怖を身にまとっているのがわかった。
「宙さん、眼を開けてください。 冗談は嫌いです… 返事をしてください! 宙さんッッ!!」
すぐ近くで聞こえる震えた声を、泣き叫びながら、自分の名を呼ぶ少女の声を、宙は久しぶりに愛おしいと思った。 けれどだんだん、それが何故だが遠く感じる。
そんな呼ばなくても聞こえてる。
でも俺はあんたのせいで疲れてるんだ。少しだけ寝かせてくれ。
宙はそんな言葉を心の中で呟き、まどろみの中、遠くで聞こえるパトカーと救急車の音に耳を傾けた。
**
宙が気を失ってすぐに駆け付けた警察に、真弓は素直に連行された。
彼女はとても落ち着いており、警察署で全てを話したそうだ。
その警察も救急車も、紗呉が事前に呼んでいたと言うから恐ろしい。
「はっきり言います、宙さんはバカです。」
病院の小部屋に響いた紗呉の声を、宙は毎日うんざりするほど聞いていた。
三週間前、刃物を向けられていた紗呉をかばうように、宙は真弓に刺され、
病院に運ばれなんとか命は取り留めたものの、二週間ほど眠り続けた。
眼が覚めた時枕元にいた紗呉に、涙ながらに罵倒された。
「そんな事突然言われても……。」
「助けるにしても真弓さんを取り押さえるとかあります!どうしてわざわざ刺されに来るんですか!」
こうして怒られるのは何回目になるのだろう、昨日もこれで怒られた記憶がある。
今日は大事な話があるからと呼んだはずが、このムードの無さは笑うべきか。
悠哉もいないし、焦る事は無いのけれど。
雨の中、紗呉を探して走り回り、宙は自分の中に降り続く復讐心の雨に、暖かいものが潜んでいる事に気付いた。
それは、雨に潜む恋心。いつからそれは、雨の中に隠れて居たのだろう。
君がくれた未来なら、君と一緒でなければ意味がない。
君の中にも、同じ気持ちが潜んでいると言うのなら、君が手紙に書いていた俺の人生は、
君とのものであれば、面白いと思わないか?