~*~蘇り 1~*~
あの時、聖女シュナは死の淵にいた上、執政官ホーンに殺されそうになっていた。
エシアはそれを、庇われながら見ているしかなかったのだ。
「シュナ様っ!」
エシアを連れて逃げてくれたシュナは、地に倒れ伏したまま身動きすらしなくなった。
けれどここでは、まだ聖域府の建物に近すぎる。
せめて外縁に行き、そこへ集まっているはずの警護官達に助けを求めなければ、この場をしのげない。そうエシアは思った。
シュナを助け起こし、担いででも移動させようとするが、触れた瞬間、その冷たさにエシアは驚く。
まるで水みたいに冷たいのだ。
何かに、その感触が似ている気がしたが、それを突き詰めて考えている場合ではなかった。
「くっ……」
先ほどは、何もできずに震えるしかなかった。
その分までシュナを助けなければ。そう思ったエシアはシュナの上半身を抱え、足をひきずるようにして移動を始めた。
積もった海潜樹の枯葉が、シュナの足で避けられて溝を作る。
少し進んだ所でエシアは早々に力尽きてしまった。
樹によりかからせるようにシュナを座らせると、傍らにしゃがみ込み、少し休む。
再び気力を取り戻したところで、シュナの体を抱えて歩いた。
それを何度も繰り返したが、さして進んでいないことに気づいてエシアは歯がみした。
これでは移動するまでに時間がかかりすぎる。追っ手がすぐに自分達を見つけてしまうだろう。
エシアは梢の向こうに浮かんだ、天頂の月を睨む。
脱出時の月の位置を覚えていないために、どれくらいの時間が経ったのかわからない。
その時、シュナが目を覚ましたようだった。
「エシア……?」
「シュナ様、目が覚めました? 急いでここから逃げなくては。少しは歩けますか?」
シュナが自分の足で立てるなら、もっと早く移動できる。
ほっとして尋ねたエシアだったが、淡い月光の中浮かび上がる小さなシュナの顔は、生気が抜け落ちたように白い。
そしてエシアに小さな声で告げた。
「あなた一人で……逃げなさい」
「いやです! 聖女様をこんな所に置いて行けません。レジオール様にだって怒られます」
レジオールは、冷たくエシアに怒りを表現するだろう。
そう言うと、シュナはおかしそうにくすくすと笑った。
「ねぇ、別に聖女は私ではなくてもいいのよ?」
シュナは泣きそうに表情を歪める。
「私がいなくなれば、別の誰かが聖女になるだけ。取り替えのきく部品みたいな物なのよ。レジオールだって、私がもう使えなくなった部品だってわかってるから、きっと怒らないわ。そんな代物にかまって、あなたまで命を落とさなくてもいいのよエシア」
あまりに自分自身を貶めるような言葉に、エシアは絶句した。
どうしてこの綺麗な人が自分を卑下するのかわからなかった。
聖女が部品などと、なんて酷い言葉だろう。
でも、エシアは思う。
シュナはそう感じるほど部品のように扱われてきたのかもしれない。もしくは、彼女を殺そうとしたホーンなどは、実際にシュナにそんな酷い言葉を投げつけた可能性もある。
気づかずに守れなかった自分が、エシアは情けなくなった。
聖女の傍にいられることが誇らしくて、ただシュナを笑顔にさせることだけしか考えていなかったのだ。
「それに私はもう、自分が保たないってわかるの」
「そんな……!」
「もう、腕を持ち上げるのも辛い。歩くなんてもっと無理。死ぬのも時間の問題よ」
エシアは首を横に振る。叫びそうになる気持ちを抑えながら訴えた。
「歩けないならあたしが担いでいきます! 死ぬなんて言わないで下さい。せめて、こんな寂しいところで死ぬなんて言わないで!」
エシアにとって、死ぬという言葉を聞いた瞬間に思い出すのは、故郷の人々のことだ。
「たとえお体が無理をきかなくなっていても、寂しい場所で一人で死なせません。それならあたしはずっとここにいます。看取る人間のいないまま死なせるなんて、そんなのは父さんや故郷の人達だけで十分です」
故郷の人々は、エシア以外助からなかった。
エシアも自分の死を見つめるだけで一杯で、父親がいつ落ちて、何を思いながら死んだのかすらわからないままだ。
「そうね。あなたは家族の墓標も立てられなかったんだものね……」
言ったことを後悔するようなシュナの声音に、エシアは少しほっとする。
悪いと思ってくれるなら、諦めて死ぬなんてもう言わないでいてくれるかもしれない。
そう期待したが、
「私の告白を聞いてくれる?」
唐突にシュナが言い出す。
「こくはく、ですか?」
シュナが白い頬に少し生気をとりもどす。
エシアを見つめる瞳が微笑むように柔らかく細められた。
そして大切な秘密を明かすようにそっと告げた。
「私は、リグリアスに一目惚れして、彼を傍に置きたくて騎士にしたの」
エシアは言葉を失う。
「だけど彼に告白など出来なかったわ。私はいずれ死んでしまう人間ですもの。それなのに一時でも好きな人の傍にいる夢が見たくて、聖女の騎士という彼にとって余計な地位を与えて、私を守るために何度も危険にさらした」
こんな女が、告白できるわけがないのよ、とシュナは小さく笑った。
「だけど一人前に嫉妬心はあったのね。リグリアスが大切にしている女の子がいるって聞いて……。どんな子か見てみたいのと同時に、いじめてやろうと思った」
シュナの言葉に、エシアは胸の中にすとんと何かが収まったように納得する。
不思議だったのだ。
年が近いことや、聖域府幹部の縁者以外をシュナが望んでいたとはいえ、なぜ自分が話し相手に呼ばれるようになったのかずっと疑問に思っていた。
エシアはなんの特技も持たない人間だ。実際、シュナを守ることすらできていない。
なのにシュナがエシアを傍に呼び続けたのは、リグリアスが好きだから。エシアという存在が気になるからだったのだ。
「なのに、あなたは全然気づかなくて……星樹の置物の件は、仕返しかとも思ったのよ?」
「あれは本当に、お好きなのかと思ったんです」
聞き間違いの末に迷惑をかけた事を思いだし、エシアは耳が赤くなるほど恥ずかしかった。
「だからね、こんな意地悪な女に義理立てする必要なんてないのよ」
これだけ言えば、エシアがシュナを嫌って放置すると思ったのだろうか。
でも寂しいし怖い。
シュナが視線をそらしたしぐさに、エシアはそんな声が聞こえてくる気がした。
「走れるのなら、逃げなさい。どうせなら私がホーンに殺されたことを、皆に知らせてくれるといいわ。私が死んだ後も、あの男が聖域でのうのうとしているのは癪だもの。一番重い罪で処罰するようレジオールに要望しておいてちょうだい」
女王のように命じながら、シュナの瞳は揺れている。
そしてぐずぐずと動かないエシアに怒鳴った。
「早く行ってよ! あなたに悪いところなんてないと分かってるわ! だけどだめなのよ! 妬ましくて、苦しくて傍に居られるのが辛いの!」
「…………置いて行けません」
だめだ、とエシアは思った。
「一人にさせたくありません……」
エシアは、座り込んだままのシュナの体を抱きしめた。
冷たくてひやりとする、柔らかな石みたいな感覚。暖かさが感じられないことに一瞬怖くなったけれど、うっかり離してしまわないようにしっかりと腕をまきつける。
こんな寂しい人を一人置いて行けない。
せめて自分ぐらいは、最後まで傍にいたかった。
シュナが宣言したとおり、エシアにとって彼女は恋敵だ。けれどそれを責めることなんて思いも付かなかった。
リグリアスへの恋は、シュナが死の淵で怖くて掴んだ霧海に浮かぶ鳥の羽のようなものだ。
それを責められるわけがない。
何より、リグリアスは別に、エシアを好きだと言ったわけではない。
シュナは目をきつく閉じて叫んだ。
「放って置いて!」
シュナの体から、風に転がるような星振の音が流れ出る。
強い風が吹いた。
シュナから引き離されたエシアはその場に転んでしまったが、もう一度彼女に近づこうとして……異変に気づいた。