14 聖域へ
エシアは、夢を見て思い出したことをレジオールに語った。
最後の日に、シュナとエシアが逃げなければいけなかった事情を聞いたレジオールがうなずく。
「あの日、確かにシュナ様はひどく体調をくずされていました。……失礼致します」
そしてエシアを抱き上げる。
「えっ?」
意外と幅広の肩に頬を押しつける形になったエシアは、至近距離で微笑むレジオールに目を丸くした。
「ここから一気に聖域へ上がります」
短い説明の後、りん、と鳴る星振と共にレジオールの背に青い翼が広がる。そして空へ飛び上がった。
一度リグリアスに背負われてそれを体験しているものの、心の準備ができていないうちの上昇に、エシアはひっと息を飲んだ。
着港したばかりの船が遠ざかる。
霧の海から突き出すように絡みながら伸びる星樹の根の、全景がよく見えた。一本一本が家一軒どころか、村一つ納まるかのような太さだ。海面と根が接するところには、人が後から小さな港があり、へばりつくように無数の船が寄港しているのがわかる。
港へ着いた人々は、本来根に作られた長い階段を登るか、もしくは星振の力で一段高い場所にある聖域の大地へと向かうのだ。
エシアは星樹に中空で支えられた大地に目を見張る。
岩盤の下には星樹に混じって、海潜樹のものらしい根が張りだし、髭のようにだらりと垂れている。聖域を支える岩盤はかなりの厚みがあり、風をきって上昇を続け、ようやく大地の上の緑が見えた。
レジオールは、一度聖域を見渡せる場所まで上がってくれる。
エシアはその光景に感嘆の息を漏らす。島は、中心部に一際背の高い木と白い建物の町がある以外は、緑の樹に覆われていた。
「中心部が聖域府とそこで働く者の住む町がある場所です」
レジオールは説明しながら、町へ向かって降下していく。
途中、大地から飛び上がってくる警護官が何人かいたが、彼らは聖女の騎士であるレジオールだと確認すると、それ以上追求せずに通してくれた。
聖域に行くと決めた際、先に鳥便を使って知らせを送っていたらしい。
名前を告げるだけで、警護官達が察してくれたのはそのためだ。エシアにも会釈をしてくれたところから、きっと聖女候補を連れ帰るという話も伝わっていたのだろう。
やがて見えてきた町の中心には、時計塔に似た建物が背の高い樹を囲んでいた。建物はさらに四方へ広がって上からだと放射状に見える。
レジオールはその一角に降りると、エシアを中へ招いた。
「これが聖域府です。どうぞ」
エシアは緊張に足が震えそうになりながら、レジオールに手を引かれるまま聖域府の建物の中へ入った。
石造りの建物は、空気までひやりとして冷たい感じがした。
内側も白い石壁で、こつこつと藍色の石を敷き詰めた床の上を歩く音が反響する。
「そうそう、お尋ねになっていたのは失踪の日のことでしたね」
エシアがうなずくと、レジオールは素直に話しはじめた。
エシアを聖女として扱うと決めたレジオールは、予想通り、従順にエシアの願いを聞いてくれていた。
彼に導かれて聖域府の廊下を進みながら、エシアはその従順さを怖いと感じていた。まるで主と決めた人間に、盲目的に従う犬のようで。
殺されかけたエシアとしては、そうだと分かる方が決して自分に刃をつきつけないだろうと安心できるのでいいのだが。
一方で、これは確かにシュナが不安になるのもうなずけると思っていた。
立場が変わってしまえば、再びレジオールはエシアを殺すことをためらわないだろう。
完璧なまでに情に左右されない人を、友達や家族のようには信頼できない。
あくまで部下として、自分がその地位にいる間貸与された道具の一つとしてしか扱えないのだ。
守られていても、孤独さを感じただろう。
「シュナ様が意識を失われた後で、聖域の端がくずれているという報告を受けました。駆けつけた私やリグリアスは聖女の星振をお借りして、その崩壊を止めるべく星振を安定させようとしたのです」
聖女の星振を使えば、小さなほころびならば騎士でも修復ができる。
「けれど聖女の星振そのものが乱れて、ひどく扱い難かった」
リグリアスとレジオールは、それでも必死に島を修復した。落ちていく欠片を集め、再び大地として結合するように。
けれど島の反対側でも崩壊が起きた。
そこでレジオールは、この異変に違和感をおぼえたという。
「聖女の星振の乱れや弱りだけでは、あれほど聖域がくずれることはないはずなのです」
「どうして?」
「聖域を支えているのは星樹です。星樹は自身の星振でこの島を保っている。多少は聖女の星振の影響を受けているにしても、被害が大きすぎました。誰かが星の核を使った術で広げているとしか思えなかったのです」
こうして島の反対側が崩れるというのも、リグリアスとレジオールを引き離す罠かもしれない。だからリグリアスとレジオールは、犯人を警戒した。同時に、シュナの元へ警護官を向かわせたのだ。
「けれど警護官がたどり着いた時には、お二人とも姿を消していたのです。当然、お二人を追い詰めた者達も居なかった。そこで……当時エシア様は聖女ではありませんでしたので、申し訳ないながらもまず、あなたがシュナ様を殺そうとする者達の仲間ではないかと疑いました」
エシアが騎士のいない合間に、シュナを連れ出す手引きをしたのだと考えたらしい。
だからエシアが手引きしたと思われる執政官を追い、レジオールは現場には間に合わなかった。
「真っ先にお二人の元へたどりついたのは、リグリアスでした。遅れて駆けつけた警護官は、立ち尽くすリグリアスと、血まみれのエシア様を見つけた……のは以前お話しした通りです。その後は、急に倒れたエシア様を抱えたリグリアスが聖域から立ち去ったことまでしか、私はわかりません。けれどその後、シュナ様の星振が感じられなくなったとたんに聖域の崩壊は収まりました」
エシアは首をかしげる。
「そういえば聖女って、どうやってなるものなの?」
その詳細までは夢でも見たことはない。
シュナの夢は、リグリアスの騎士承認の儀式以前に遡ることはないから。
リグリアスに聞いて置けば良かったと思うが、彼は聖域へ来る前から顔を合わせていない。聖域行きの船に乗っている間から謹慎という形になったからだ。
それを決めたレジオールとしては、聖域でなるべくエシアを一人にしたくないらしい。シュナの夢で見た今だからこそエシアにもその理由が推測できる。
ホーン執政官は、聖女シュナを殺そうとしたことが露見していなかった為、今でも聖域府にいて権勢をふるっているのだ。
更に、まだ聖女として承認されていないエシアの言葉だけでは、彼の罪を追求することはできない。
だからエシアが、シュナのように狙われることを恐れているのだ。
リグリアスはエシアが聖女であろうとなかろうと守ると分かっている。だから戦力として確保するため、聖域へ向かう船に乗っている間に謹慎を終わらせて、聖域内ではエシアを守れるように、万全な体勢をとろうとしているのだろう。
「聖女選定の儀は、エシア様は省略となります」
「省略?」
尋ね返されたレジオールは、美しい顔に苦い笑みを浮かべた。
「聖女選定は、三人以上の者が立ち会いの元、星の核を飲むのです」
「それじゃ死人が出るんじゃないの!?」
思わずエシアは立ち止まる。
「出ます。だから聖女は、執政官や星振官の縁者からばかり選ばれるようになったのです。最初は権力欲などではありませんでした。この厳しい選定を市井の人々に説明すれば、尊き聖女の名が貶められることにもなりかねない」
だから身内の、覚悟を決めた者だけが挑む通過儀礼となった。
多くの者が星の核の洗礼を乗り越えることができず、ひっそりと埋葬されてきたのだ。
「シュナ様があんなに体が弱かったのも……」
「星の核を飲み込んだせいです。星の核を飲み込んだ聖女は、ゆるやかに死んでいく。代わりに星の核を自らの星振と共鳴させ、多大な力を発揮できるようになるのです。例えば崩れゆく島を修復できるような」
ひどい、とエシアは言いそうになった。
それを察したかのように、レジオールはふと笑みをこぼす。
「けれど、そうした犠牲がなければこの世界で人は生きていけなくなってしまう」
それにエシアは反論できなかった。
数年に一度は、どこかの島が星振のバランスを崩して壊れてしまう。それを聖女が察知し、修復しに来てくれると信じているからこそ、人々は生きていけるのだ。だから人々は、聖女を神のように崇める。
「聖女不在のこの一ヶ月間、どの島も崩壊しないのは幸いでした。そうなればホーン執政官が推し進めていた新しい聖女の選定を拒否できなかったでしょう。よほど彼は権力が欲しいのか、今回の聖女候補はなんらかの形でホーン執政官の縁がある者ばかりでした」
「そのホーン執政官の縁者の方達は、死ぬかもしれないことを分かっていて、聖女になりたがるの?」
「生まれた時から聖女になるよう言い含められるのです。隔離して育て、聖女になるこそが使命で、聖女になれなければ死ぬのも仕方ないと頭に刻まれるくらいに。そうなったのにも理由があります。かなり昔ですが、聖女候補が逃げる事件が相次ぎました。そして聖女の座が空白になり、島の崩壊も重なって惨事となりました。それ以来、ますます聖女選定は閉鎖的になって、洗脳することが通例となってしまった」
エシアは促されて歩き出しながら、唇を噛む。
「なんて……」
酷いと思う。
けれどそれが世界の存続に必要だというのもわかる。エシアも救われた一人だから。
シュナはどう思ったのだろうとエシアは考えた。
聖女になった後、彼女も真実を知らされただろう。だから死が近づく事を毎日意識していた。
寝込むたびに死を恐れ、自分の死を前提に動く周囲に嫌気がさしていたのだ。
だからこそ、そうではないリグリアスに惹かれた。何も知らないエシアに、嫉妬しながらも心を許していたのだ。その気持ちを思い出すだけで、涙がにじみそうになる。
「まずはあなたの体を治しましょう。こちらへ」
長い廊下を歩き続けた後、レジオールに通されたのは見覚えのある部屋だった。
柱は幹がうねりながら伸びているような木の幹。白い漆喰の壁には、窓のない部屋を照らす蝋燭の炎を反射する、透明な石が埋まっている。
「聖堂近くの、部屋?」
エシアは思わずつぶやく。
「よくおわかりですね。入ったことがあるんですか?」
いつの間に? と問いたげなレジオールの言葉に、エシアは曖昧にうなずく。
シュナの夢で見た部屋と同じだったのだ。違うのはシャンデリアがないことや、そこが誰かの部屋のように椅子や書棚、ソファなどが設えられていることだろう。
そして暗色の固い木でできた大きな机と椅子に座っていた人が、エシアとレジオールを迎えた。
「知らせを聞いて驚きましたが……本当にあなたなのね、エシア」
初老の、藍色に金の縁取りのガウンを着た女性。
肩から斜めに掛けた銀の帯は、星振官長の地位を示していたのだったか。
灰色の髪を結い上げた星振官長フィナリアは、目を細めて微笑んだ。
正直、エシアには彼女との記憶はあまりない。シュナのいる前で、フィナリアとエシアが会話しなかったせいだ。
そんなエシアの戸惑いを感じたのだろう。
「フィナリア様、エシア様は記憶が混乱されていらっしゃるようなのです。聖域を離れる際によほど恐ろしい目に遭われたのか、記憶がとぎれとぎれでいらっしゃるようで」
レジオールの言葉に、フィナリアは顔色を変える。
「辛い思いをされたのね……それに事故で、星の核を飲み込んでしまったとか」
エシアはちらりとレジオールの顔を見る。
嘘をついた男の表情は、ゆらぐこともない。けれど真実を話すわけにもいかなかったのだろう。
「飲み込んだ時よりは、体調がいいんです。けれどまだ熱があって」
それも風邪をひいた程度で今は済んでいる。だからレジオールと並んで歩くことができたわけだが。
「わかりました、治療をさせて頂きます。ただ私の力では、症状を軽減させることぐらいしかできません。それだけは了承して下さい」
フィナリアは症状を聞くと、エシアをソファに座らせた。
そして左手でエシアの右手を握り、自分はその前に膝をつく。
まるで子供の話を聞いてあげる母親のような体勢だ。
それからフィナリアは、右耳にしていた星叉環のイヤリングをはじく。
ふわりと、星振が広がる。
不思議な音だと、エシアは思った。
フィナリアの星振は、二つの音を重ねて鳴らす、音楽の手習いを始めた子供の練習音のような感じだった。それが、どこか郷愁を思わせる。
エシアは自然と目を閉じ、過去に思いを馳せていた。
警護官になりたいと言い始めたリグリアスが、村に住む老人に星振を習い始めた頃。
まずは普通の音楽からだと、笛を渡されて練習させられていた。中指と薬指の動きがなめらかにいかず、度々その二音だけ鳴らしていた。
それをエシアはずっと聞いていた。森から吹いてくる風を、体に感じながら……。
不意に音が途切れた。
「終わりましたわ」
あまり体調に変化があるような気はしなかった。少しすっきりとしたぐらいだろうか。
そんな事を考えながら目を開くと、フィナリアの困惑するような表情が見える。
エシアは嫌な予感がした。まさか星の核の力を押さえられないとか、もうどうしようもないほど症状が進行していると言われてしまうのだろうか。
「何か……問題でもあったんでしょうか?」
恐る恐る尋ねると、フィナリアは首を横に振る。
「いいえ。確かに予定通りの処置を施したのですが……」
言い難そうなフィナリアに、レジオールも片眉を上げる。
「エシア様の体の具合が思わしくないのでしょうか?」
レジオールもエシアと同じ事を考えたようだ。
しかしフィナリアは再び否定する。
「違うのです。不思議なことですけれど、もうこの方の星の核は……もう体の中には小さな欠片しか残っておりません。星振がほとんど感じ取れないほど」
聖女であっても、星の核は死んでからも残り続ける。それほどに星の核の星振は強いのだ。けれどエシアの中に入った星の核は、破壊されたように残っていないのだという。
「そんなことがあるのでしょうか……フィナリア殿」
さすがのレジオールも驚いていた。しかしエシアに一瞬向けられた視線は、安心したというよりも、原因を究明したいという知識欲に溢れている気がした。
「おそらく体調がまだ不安定なのは、星の核によって体が傷ついたせいでしょう。それが回復したら、今残っているわずかな欠片では、それほど体に影響はないと思います」
「では、歴代聖女のように体を壊して死ぬ可能性は低い?」
レジオールの言葉に、フィナリアは力強くうなずいた。
「私も初めてです。でもこれなら……」
フィナリアは嬉しそうに微笑んだ。
「歴代で初めて、ご長命な聖女様になられるかもしれません」