高天原へようこそ(3)
楽はまだまだ眠っていたかったが、どうにも寝苦しかった。背中が痛いし、誰かに呼ばれているような気もしていた。それでも目が開かず、寝返りをうとうとした時だった。ぐい、と誰かに掴まれた気がした。
「楽、楽っ。起きろ、大丈夫か?」
咲の呼びかけに、ようやく言葉にならない言葉を上げながら楽が目を擦る。
「お……かあ、さん。あと、ごふん……」
「俺はお前のお母さんじゃない!しっかりしろ!俺たちはまだ帰れてないぞっ」
帰れていない、という言葉で目が覚めたのか、急に楽は飛び起きた。
「うそ、あれって、夢じゃ……」
「……夢じゃない」
「じゃ、じゃあ、ここは……、あの祭りは……?ひ、ひえださんは……?」
「俺が起きた時には誰もいなかった」
あたりは霧がかかっており、昨夜のように周りの様子はよく見えなかった。今が何時なのかもわからない。
「え……?なんで、……じゃ、じゃあ何か食べ物とか飲み物は!?」
「……それもない。後で周りを探してみよう」
「そんな、何もないの……?あの祭りの後ってどうなったの?僕は寝ちゃったけど、咲くんも寝ちゃったの……?」
楽は昨日のことが夢じゃなかったこと、稗田という頼りがいなくなってしまったことがショックで軽いパニックになっていた。
「楽、落ちついて」
咲が楽の肩に手を乗せようとしたが、その手を楽は払いのけた。
「なんで、なんでそんなに落ち着いてるの……?」
後ろからぽつりと、楽が呟いた。
「楽……?」
「だって、だって、こんな、おうちに帰れなくて、ママにもパパにも会えなくて、帰り道もわかんなくて、どうして、咲くんはそんなにっ……!ママと、喧嘩して自分はおうちに、帰りたくないから、そんなに、落ち着いてるのっ?!」
今にも決壊しそうな涙を必死に抑え、楽は言いたいことを言った。
「そんなわけないだろっ!」
楽の訴えを打ち消すかのように咲は叫んだ。
「俺だって、っう、俺だって、必死にっ」
咲もつられて涙が出る。
「でも咲くんは、お母さんと喧嘩してるんでしょう?!最初から、ここに来るの、わかってて僕を、巻き込んだんじゃないの?!」
「違うっ!俺だってこんなことに、なると、う、っひ、思わなかったっ……」
「咲くんのせいだっ!ばか!」
「うるせぇうるせぇっ。お前だってばかだ!自分だけ、辛いとっ、思ってんじゃ、ねぇよっ……。お前だって、お前だって、さっさと帰れば良かったじゃんかっ!俺を置いてっ、帰れば良かっただけだろっ」
「咲くんのせいだろっ」
「うるせぇっ」
咲は違うとは言えなかった。音のする方を見に行こう、と言ったのは正真正銘自分だったからである。だが、一方的に糾弾されるのは耐え切れなかった。
「お、俺、だって、帰りたいっ。……帰りたいっ、帰りたいよっ、なんでだよっ!」
堪えきれず、涙を流し、鼻水を垂らし、嗚咽した。二人は向かい合ったまま、立ったまま、泣き続けた。泣いて泣いて、泣き続け、涙が枯れて何も水分が出なくなった頃、周りの靄が晴れていた。
二人は気づけば目を開き、これ以上ないくらい見開いて、驚いていた。昨夜、随分降りたつもりでいたが、それでもまだ十分な標高があったのだろう。
晴れ渡った景色は壮観だった。昨夜の提灯や灯篭の灯りが見えた幻想的な風景とは違い、どこまでも澄み渡った自然の景色だった。
「すっごい広いね」
「うん。すごく広くて、綺麗だ」
朝日に照らされた世界はまさに神の国だった。
「ここが、高天原……」
咲は呟き、目の前の国を実感していた。
「なぁ、楽」
「なに?」
「お前がずっと俺の服掴んでるから、裾が伸びた」
「えっ、ごめん!」
楽は慌てて咲の洋服から手を話した。
「別にいいよ。でも、その代わり、一緒にいて」
「……うん」
「俺、もし一人でここにいたら、死んでたかもしれない。怖くて」
「うん、僕もだよ」
「俺のせいで、ごめん」
「ううん、僕も、ごめん」
「一緒に帰ろう」
「うん」
二人は座ってしばらく朝日が光る景色を見つめていた。泣くだけ泣いて、胸の内にあった靄を吐き出せば、残ったものは決意だけだった。