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キュビュドの喘息

 やがてクミャリョは地図から顔を上げ、「よし、行こう」と言った。砂利の音をさせながら戻ってきてそのまま先頭に立って道を歩き始めた。

 俺たちはワンテンポ遅れた。俺はガ・シュノナを見てアイコンタクトし、チトの方を見てまた視線を合わせた。ガ・シュノナは俺の視線に反応せずにクミャリョの後に続いた。チトも無反応だった。他のみんなの反応も気になったが確認できなかった。ガ・シュノナに続いて皆も足を進め、移動が始まってしまったからだ。

 地面は相変わらず固かった。

 風が吹くと細かい砂が顔に当たった。砂が尖っていた。当たったところに地元にはない刺激を感じた。ここの砂は厄介で、目に入ると痛くて涙が止まらなくなった。意思で我慢ができないのでどうしようもない。そのうち全員が細目になり、ヒャギオガが顔当てを装備するとみんなも真似をして布を顔にあてるようになった。俺も顔に布切れを巻いた。それを通しても物はなんとか見える。というかしないとやってられなかった。歩いていて大きい石につまづくと、石が大きいから道を逸れてるんだなと思うことにした。たまに目を出して道を確認した。

 しばらくしているとこの旅で聞き慣れたキュビュドの咳が聞こえた。キュビュドの方を見てみた。うっすらとだが彼も顔に布を当てている様子だった。ごほっごほっという音がやがて連続になり、俺が少し心配したときにはもう喘息の発作が始まっていた。細く苦しそうな、「ひゅー……」という音が聞こえ、それが小さくなっていった。俺は振り返らなかったが、背後で彼が立ち止まって息を整えようとしている様子が見えるようだった。

 俺の前を歩いているガ・シュノナとチトは足を止めていない。道が分からないので俺も止まらずにその後ろについていくしかない。後方に置いてきぼりにされていくキュビュドのかすれた呼吸が耳に残った。俺の後ろの足音の感じから、ギリツグは足を止めたのが分かった。ヒャギオガはついてきていた。キュビュドはヒャギオガを馬鹿にしていたので仲が悪いとは思っていたが、ここまで決定的だとは思わなかった。

「クミャリョ」俺は言った。「“痙攣”のキュビュドが喘息を起こしてる」

 ん、という返事が聞こえた。隊列が止まった。

 後ろのヒャギオガが舌打ちをして、俺に聞こえるように、「そのまま死ねばいいのに」とつぶやいた。俺に聞こえるように言ったのは、キュビュドに嫌われている者同士、話が通じると思ったからだろう。

 俺は顔の布を下ろした。まだ明るかったが日が落ちつつあった。砂が舞っていた。見える範囲には人が住んでいる気配はない。あちこちに何十メートルという高さで突き出たホールケーキのような石の台座があるのと、地面そのものが波打ったようになっている地形のせいで、見通しが悪く、本当に周囲が無人なのか、実はちょっと歩けば人が住む村があったりするのか、まるで分からなかった。

 足を止めたクミャリョは振り返って正面の顔を俺に向けていた。目はもちろん俺ではなくその後ろを見ていた。妙に太い眉と、クミャリョの特徴であるちょっと気持ち悪い六角形の目が冷徹に後方の様子を観察していた。

 俺も顔の布を下ろしてから振り返った。

 遠くで小さく聞こえるひゅーという音が聞こえた。

 キュビュドはまだ立っていた。背中を丸めて顔を地面に向けている。口を大きく、まるでゲロを吐こうとしている酔客のように開けていたが、吐き気などではなく呼吸をしようとしているのは遠くからでも何故か分かった。ギリツグは心配そうにその巨体をかがめてキュビュドの背中をさすっていたが、どうすればいいのか分からず途方に暮れていた。大丈夫?どうすればいい?と聞くばかりだ。声は渋いのに役には立ちそうにない。

 俺はキュビュドたちの方へと寄っていった。俺が先に動いてもクミャリョが後に続いた気配はなかった。

 キュビュドは犬のように四つん這いになり、その姿勢でぜーぜー息をしていた。癲癇てんかんの部分発作が起きて左手がびくっと外側にはねた。まるで足で蹴って払われたようだった。本人が慌てて右手一本でバランスを取った。キュビュドの左手が時折びくっとはねるのもここまでの旅でよく見ていた。

 俺はキュビュドの近くまで寄って、惨めに四つん這いになって必死に息をしているその背中を見下ろした。腰に両手で抱えるくらい大きい袋が結ばれている。俺は両手の籠手と手袋を外して地面に放った。「荷物を漁るぞ。中に薬はあるか?」キュビュドから返事はなく、四つん這いの姿勢から顔を上げることすらしなかった。荷袋と腰を結ぶ紐をほどこうとしたが適当に結び目を作ってあってとても短時間では解けそうになかった。こういう荷物を身につけるときの、ほどけにくいけど解けやすいロープワークというのは自然に親や年長者から教わるものだがキュビュドはそういうことすら教わっていないようだった。冒険者になってからでも数年は経つというのに、その先輩からも習っていないというのはどんだけ野生児なんだか。紐はそのままに袋の口を広げられるかもしれないと思って両手の指を突っ込んで左右に開いてみた。幸い、中のものが取り出せるくらいには開いた。俺は中を覗いた。一番上に拳ほどの大きさの瓜の実で作った器を見つけた。割れたり漏れたりしない、救命薬の入れ物としては最適だ。俺は手を突っ込んでそれを取り出した。木の栓がしてある。

 気がつくとギリツグも俺の様子をじっと見ていた。

 左手を戻してまた四つん這いに戻っているキュビュドの顔の前に瓜の水筒を突き出し、「薬はこれか?」と言った。うなずいたような気がした。

 そしてキュビュドは激しく咳を繰り返し、咳が咳を呼び、俺とギリツグの見ている前で遂に砂の上に横になって転がった。顔が真っ赤になって、どんどん真っ青に変化しつつあった。

 俺がギリツグに、「暴れないように体を押さえて口を開けさせてくれ」と言った。うんと返事した彼はそうした。一番体の大きい男に一番小さい男が押さえられた。両手をキュビュドの肩に置いて仰向けで地面に押すと上半身の動きが完全に止まった。呼吸も止まっていた。「くそっ」俺は溺れた人間に人工呼吸をするように、キュビュドの顎を上げて口を開くと——ちょっと泡を吹いていた。喉の奥が真っ赤になっていてほぼ塞がっていた——そこに薬を流し込むのは諦めて両手を突っ込んだ。両手の指でとにかく喉を開く。暴れる力はギリツグの怪力が完全に制御した。噛まれるかと覚悟していたがキュビュドはそこまで強くは噛んでこなかった。呼吸が回復して、しゅーという細い音が聞こえた。

 その頃にやっと他のパーティメンバーが寄ってきたので、俺はクミャリョに薬を飲ませるように頼んだ。俺はキュビュドの口に突っ込んだ手を引き抜いた。薬はクミャリョが引き継いだ。一口分にも満たない量を口に入れるとキュビュドは口を閉じてそれ以上は不要と意思表示した。それから日が弱くなってきたのがはっきり分かる頃、やっとキュビュドの喘息は落ち着いた。

 横にいたヒャギオガはこっちが苛つくほど何度も溜息をついていた。

 俺はキュビュドの回復を待つ間に唾の付いた手をズボンで拭き、外した手袋と籠手を付けた。

 俺はクミャリョの様子を見ていた。薬をやったクミャリョはじっと回復を待ち、その間はキュビュドのそばにいた。その様子に後ろめたそうな感じはない。周囲の仲間もクミャリョを責める様子はなかった。さっきの地図ほどではない。むしろ地図の一件がうやむやになっていた。

 嫌われてはいても俺はキュビュドを嫌ってはいない。ギリツグのパワースタイルの戦闘と、キュビュドのスピードと技術任せの戦闘は、近くで見たいと思っていたので今回は楽しみにしている。この仕事でそういう戦闘になるかは分からないけど。一方で、キュビュドが俺を嫌うように、俺はクミャリョを嫌っていた。何かされたとか分かりやすい理由はない。まだこの空気では俺がクミャリョに喧嘩を売っても誰も追従してくれないと思う。しかし、俺はどこかでそういうチャンスを窺っていた。


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