清武のシャドーボクシング
そぼふる雨の中、バス停に並んだ。背後に男が立つ。
「シャドーだっ、シャドーがついに、姿をあらわした!」
なぜか直感した。ずっと、つきまとってきた影法師。
「いま、清武です。帰るのは19時過ぎ」
影法師が聞こえよがしに、大声をはりあげる電話口。
「帰るアピールか?」
あれほど拒んだ鎖でも情がわくものらしい。女のお人好しにも程がある。
「社命に逆らうような気骨はあったのか」
少し見直した。昨日書いた恋文を盗み読まれた? レター効果を読み返して確認。
ーー私、ジコチューだから、自分のための戦いしか動こうとしても動けないの。できれば、避けたかったけど、戦う時が来たみたい。シャドーボクシングみたいに正体は見えない。
思い過ごしならいいけど、職業ライター時代、必死で逃げた業界の空気と同じ嗅い。その世界では、才能も金儲けの道具。大○さんクラスさえ『たかが野球選手の分際で』って扱いなの。ましてや、仕事のため身を売らない女の子は才能なんてつぶされる世界……。
私一人なら勝てないけど、負けもしない。失うものが何もないのが唯一の強みだから。あなたには、あなたの戦いがある。矢面に立ってほしくないの。応援してくれるキッズたちのためにも、野球の道で戦ってほしい。
アスリートにとって体が資本なら、ライターは心が資本なの。アマチャアでもライターの端くれだから、私の心をだいじにしたい。
野球人生の生命線である<理由>を失くさないように、<ボール>に嘘はつかないで。私もライターの生命線である<心>に嘘はつかない。
どんな雨が降ろうと、正直に生きてこ‼ 二人を結ぶ約束ね♡
――Happy Valentine's Day to you! ――
渡せずじまいの恋文をふところに。影法師へと向き直った。
「情に訴えても無駄と承知の上だけど、そうでもなかった?」
女に老婆心が芽生えはじめる。バスに揺られる40分間、無言のやりとりが続いた。
「クライアントの要望を無視して大丈夫? あなたが去っても代わりはいくらでも来る。身を切らずとも」
「お涙ちょうだいの手紙など屁でもない。あんたの書いた『獄中のひまわり』読んだよ。あれで、がつんと来た」
男が白状する。それは暴走する検察の暴露本だった。
「ほぼ実話だけどフィクション形式で出したの。私、びびりだから」
女は照れて舌を出す。
「お嬢ちゃんのお守りにつきあってる場合じゃない。おかげで、目が覚めたよ。本社に帰って、一発大仕事だ」
男は胸を叩いて鼓舞した。
「それがいいわ。あなたたち優秀人間の集団でしょ? 能力の使い方をあやまらないで」
女がエールを送ると程なく、バスが終点の宮崎駅に着いた。
「お嬢ちゃんのお守りも気晴らしになった。恐竜の島クルーズが出来たからね」
いたずらっぽく男は笑った。
「あの漁船チャーターだったの!」
あっけにとられる女。確かにオフの日、熊本天草の御所浦島に渡った。そこまで尾行してくる執念が、空恐ろしくなる。
「クライアントは誰? あの人との仲を裂く理由は? なにが目的なの?」
矢つぎ早に問いただす。
「それは守秘義務。絶対に口は割れない」
かたく口を閉ざして、男はバスを降りた。
「当分、発掘現場をひとりでふらつかないことだ。海外にも」
警告を残し、男は宮崎駅の雑踏に消えた。
女はひとり、街をさまよう。売店のスポーツ紙に目をやると、某野球選手のメジャー移籍の見出しがおどる。Web検索すると、未来のメジャリーガーは右腕だった○通マンとの関係を切ったらしい。
「○通といえば、オリンピックや政界など世界的影響力をもったグローバル大手。そこと喧嘩かぁ、度胸あるなぁ。だけど確か、母親のオフィスが○通マン宅に入ってたはず……」
読み進めると、選手の母親は田舎にオフィスを移したとあった。
「手遅れにならず、よかった。それにしても、お母さん偉いなぁ」
推し選手のようにほっとする。ショービジネス世界のUSAに売り出すには、選手のパッケージ化は必要かも。だけど、自由意志を奪われる選手はたまったものじゃない。
そんな思いをぶつけたくても、相手の正体は不明。やり場のない思いを文章にして、投稿ボタンを押した。いちかばちかのパンチだった。あわてふためく影法師。
「ボスに報告か? 凶と出るか吉と出るか」
部屋に帰って、恋人からの手紙をひもとく。身辺に鎖が張りめぐらされてから、ずっと言い聞かせてきた。
「くもの巣から逃れようと闇雲にあがくのはNG。労力をいっさい使わず、ただ待つの」
息苦しい鎖から解放されて、ようやく一息つく。そして、最後にもらったラブレター。
「好きなだけでは続かない恋もある。さよなら。ありがとう」
恋人からの別れのメッセージをくりかえし、くりかえし、くりかえし。
「あの人を雁字搦めにする勢力とは……仮想敵ばかりが大きくなる。相手が手を下さずとも、自ら作り出した影に怯えるメディアの自粛を笑えないわ。私には失うものはない。家族も仕事も役職も恋人も、恐いものは失くなったのよ。あの人が野球選手でよかった。追っかけの道が残されているもの。」
涙をぬぐい、女は反撃に転じた。
「命中したかもわからないけど、連打しなくちゃ。あぁー、ボクシングの試合くらい観ておくべきだった」
連続パンチをくり出すように、Web小説を各サイトに投稿。大猫に立ち向かう窮鼠のように必死だった。イイネをもらうたび、<この小説をSNSにシェアしませんか?>というAI画面に切りかわる。
「それは最終手段。しばらく様子を見よう」
女はWeb小説をシェアしようとはしなかった。自分を強くしているものは何だろう。懐からはらりと落ちた眠ずの恋文。
「門前払いで渡せずじまいの手紙。明日はバレンタインだから、チョコといっしょに渡せないかな?」
影法師は消えても、クライアントがあきらめた訳じゃない。けど、もしかして、もしかして……。
眠れぬ夜を過ごしてバレンタインデー。恋人を待ちぶせて無理矢理チョコを渡せた。冬枯れの帰り道、にやけながら歩く。雑踏に影法師がちらほら。
「攻撃の手を控えても、消えてくれないのね。世の中、あまくはないか」
女は顔をしかめた。気をとり直して前を見すえる。
「私のもとへ仕向けてほしいわけじゃない。ただ、あの人を自由にしてあげて」
すれちがいざま、影法師にささやく。びくっとする残党たち。宵闇の中へ散り散りに。静寂がもどってきた。夜のしじまに、スポーツ界の闇がほくそ笑む。さぁ、次なる一手は…….。思案に暮れる夜。
一夜明け、追っかけに転じてキャンプ地へ。人の群れにまぎれ、練習帰りの選手たちを見送る。突然、バスの車窓が開いた。
「信じられない。あの人が手を振っている。戻ってきてくれたの?」
女は夢中で手を振りかえす。歓喜の涙があふれた。バスの影が消えるまで、大きく手を振り続ける。
夕暮れ空を見上げて思う。
「あの人を檻から救い出したつもりでも、実はいっしょに檻に入っただけ? 共にがんじがらめになっただけかも。それでも、いいわ。あの人といられるなら。
誰しも見えない檻に入ってるもの。私だって、実家の旅館とか仕事場とか、ずっと檻の中だった。それだけ大切なものを持っていた証拠。護りたいものがある証拠。
だいじな物を捨て檻の中から出るより。あの人といっしょに、宝物を護ってゆこう。」
清武の峰々が、真っ赤な陽をのみこんでいった。