3 蒼穹の下で
エピローグその3です。
FOI日本支局では、その時。
アンジーは彼の別荘の、リビングに通じるドアを開ける。
その後ろには、ヴィクターが付いてきていた。
今朝方、博から最後の連絡を受けた。
「あと数時間です・・・」と。
アンジーは仕事を放り出し最短時間で日本に向かうと、FOI病棟によってヴィクターを連れ出し、博と空がいる別荘へと辿り着いた。
間に合うはずは無いと解っていて、それでも全てを投げ出して駆けつけたのは、それを見届けるのが自分の役目だと思っていたからだ。
1歩、部屋の中に足を踏み入れ、アンジーはその場に立ち尽くす。
ひんやりと寒い室内は、聖域のような静けさに満たされていた。
それでもアンジーは何とか足を踏み出し、ゆっくりと大きな窓に向けられたソファーに近づく。
「・・・幸せなのね・・・今も・・・」
ソファーに横たわる博は、しっかりと空を抱いている。
眠っているように見える2人の顔は、満ち足りた穏やかな笑みが浮かんでいた。
床に跪いて小さく呟いたアンジーの傍らに、ヴィクターも黙って近づいた。いつもの仏頂面は変わらないが、瞳の中に微かな感情が宿っていることにアンジーは気づく。
「空との約束、どうするの?」
それは約束と言うより、契約と言った方が良いものだろう。
『自分の遺体は、好きなように使ってくれて構わない』
そう言って取引の材料にした彼女の言葉を、その時傍にいたアンジーは良く知っていた。
ヴィクターはさらに深く眉を顰めると、ため息をついて答えた。
「僕が欲しいのは彼女の身体だけだ。男の方は要らない。・・・そして、それを引きはがすのは私の仕事ではない」
マッドサイエンティストらしい言葉を吐きながら、けれどヴィクターは踵を返し部屋を出て行った。
(アリガトね、ヴィクター)
アンジーは心の中で礼を述べ、静かに立ち上がった。
テーブルの上に寄り添うように置いてある補聴器とアイカメラ。
それらをそっと手に取り、彼女は宙に向かって声を掛ける。
「これ、貰っていくわ・・・良いわよね」
そしてアンジーは、ガラス戸を開けた。
ふわりと入ってきた風が落ち着くと、室内の空気が静かに出てゆく。
アンジーの肩越しに、何かが触れるように外に出て、空の高みに消えていったような気がした。
FOI日本支局のリビングスペースでコーヒーを飲んでいた小夜子は、マグカップを置いて窓際に歩み寄った。その様子に、彼女の夫である真はいつもの調子で問いかける。
「どした?」
「・・・蝶のようなものが、見えた気がして・・・」
光の切片のようなものが2つ、絡み合うように舞っているように見えた。
窓の外には11月の美しい青空が広がっている。こんな高い場所まで蝶が上がって来ることなど無い筈だが、小夜子は何故かその形を蝶だと思った。
真はマグカップを置いて、小夜子の隣に並び立った。
「そっか・・・来たのかもナ」
昨日まで届いていた博からの連絡は、今日は来ていない。
それまでの連絡内容から、その日は近いのだと覚悟していた捜査官たちなのだ。
「うん・・・挨拶に来たのかもね」
別れはとうに済ませていた筈だった。
博と空がFOI日本支局を離れる日、捜査官は全員で2人を空港で見送った。
その後の時間は、2人だけのものなのだと思い、そこを別れの場としたのだ。
それ以来、博と空には誰も会っていない。
けれど、やはりその時が来たと解ると、どうしようもない寂しさが胸の中に湧き上がる。
「さてナ・・・アイツの事だから、惚気に来たんじゃねぇか」
ほら、ちゃんと一緒ですよ、良いでしょう?
そんな風にぬけぬけと自慢する、腹違いの兄の顔が目の前に浮かんだ真だ。
思えば博は、空の余命を知ってからもいつもと変わらない様子だった。
嘆くことも悲しむことも、誰を恨むことなく空を愛し続けた。
それは、自分も一緒に逝くと覚悟を決めていたからだろう。そして残された時間を、2人だけで過ごしその愛を全うしたのだ。
「アハ、確かにそうかも」
小夜子は涙を浮かべたまま、ニコッと笑った。
そんな大事な伴侶の肩を抱き、真は心の中で呟く。
(いつものこった・・・こっちは任せておきな)と。
小夜子が立ち上がった時、ジーナはビートに声を掛けて肩に乗せると、屋上に上がって行った、
静けさが満ちたリビングスペースで、春は立ち竦んだまま俯く。
そんな彼女の肩を、豪は優しく叩いていた。
研究室の中では、作業していたエディがその手を止めて窓の外を見た。
食堂の花さんも、窓際に走り寄った。
ふみ先生はPC前から離れ、頷きながら外の青空を眺めた。
屋上に上がったジーナは、空を見上げてビートに話しかける。
「いいお天気ねぇ」
《 アオゾラ キレイネ 》
ジーナとビートは、博と空が支局を離れた日からずっと、毎日屋上に来ていた。
雨の日も風の日も、嵐の日には屋上に出るドアのカラス越しに、その空を見に来ていた。
そこが1番、彼らに近い場所のように思えていた。
G島から戻った空がリビングスペースで捜査官たちに別れを告げた時、この灰色のヨウムを納得させるのが1番大変だった。
一緒に行くと喚き散らし、要求が通らないと解るとハンストを行い、最後はだんまりを通して空と仲間を困らせた。けれど、最後はジーナと話すことで何とか納得したビートだったのだ。
「アタシもビートと同じよ。大切な相手に置いて行かれるんだから。でも、どうすることも出来ないの。空が大好きなら、我慢するしかないの」
《 ジーナトオナジ? ・・・ソッカ・・・イッショナンダ・・・》
そんな言葉を発した時から、ビートは彼女を特別な仲間だと認めたようだった。
そして毎日、ジーナと一緒に屋上に上がった。
《 トンデクルネ~ 》
ビートは翼をいっぱいに広げ、空に舞い上がった。
それを追うように、ジーナは視界いっぱいに広がる青空を見る。
雲1つなく澄み渡った空は、全てを包み込むようにそこにある。
ジーナはいつものように、手を伸ばした。
届かなくても、追い続けることはできる。
追う事に喜びを見いだせるなら。
こうして空に向かって指先を伸ばすと、ただそれだけで心が暖かくなるような気がした。
「・・・気持ちが良いわ」
声に出して呟くジーナの周りに、光の切片が纏いつく。
「・・・空・・・そこにいるわね」
ジーナは優しい瞳で、蒼穹に向かって言葉を掛けた。
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