2 蒼穹の高みへ
「Life of this sky」シリーズ14作目。エピローグその2です。
「・・・あの服が・・・着たいです」
ソファーに座る博の腕に抱かれ、空は彼の胸に頭を預けたまま呟いた。
彼女の肩を優しく抱いていた博の指が、ピクッと強張った。
「あの黒い服ですね。ちょっとだけ、待っててくださいね」
けれど博はいつもの穏やかな声でそう答えると、彼女の身体を抱いたまま立ち上がり、包んだ毛布ごとソファーに寝かせて傍を離れた。
それは空に1番似合うと、誰もが言った黒の上着。
博が贈り、A国での別れの時に空港に着てきた服。
博をエリィに託し、密命を受けて異国へ旅立った時も、彼女は空港までそれを着ていった。
別れの象徴だった、その黒い服。
けれど彼の腕の中に戻ってきた時も、空はそれに身を包んでいた。
それ以来、彼女は仕事で外出する時は大抵それを着用していた。
いつの間にか、それが空のイメージとなるくらいに。
クローゼットから少し着古しているその上着を探し出して手に取り、博はそれに顔を埋めた。
空の、匂いがする。
彼女が今まで生きてきた時間の匂いだ、と博は思った。
FOI日本支局を退職してから2か月半の間、2人は色々な場所へ旅をし、幸せな時間を過ごした。
けれど空はその間、幸福の時間に包まれながらもずっと考えていた。
何故自分は『愛しています』という言葉を言えないのだろうか、と。
どうすれば、言えるようになるのだろうか、と。
残されている願いは、ただそれだけ。
彼に自分から、心を籠めてその言葉を伝えたい。
博はもう覚悟を決めていた。
ただ1つ懸念していたのは、Ripperの事件で解った空の心の奥に封印された記憶のことだ。
強い暗示で彼女の記憶を封印したレナ・ホーンは、その暗示の解ける時を何時としたのだろうか。
ビートが死ぬまでとしたならば、問題は無いと思う。
Ripper事件の時以来、彼女の心が不安定になることは無かった。ビートの今後の生活については、日本支局のアイドルとして大切にされ、長いヨウムの一生を保証して貰えるだろう。
強い暗示で封印された記憶は、封印の扉となるビートと自分が存在していれば空はそれを思い出すことは無い。
けれど暗示が解ける時を、「アナタが死ぬまで」としたならば・・・
博はその可能性の方が高いと考えていた。他の何かよりも自分自身に関することの方が、暗示はより強く効果を与える。
当時まだ子供だった空にとって、自分の死は漠然としたものだっただろう。暗示を与えたレナ・ホーンが、それを明確にするために言葉を付け加えていた場合を博は恐れていた。
「アナタの呼吸が止まる時」とか「最後の息が終わった時」だったら最悪になる。
博はドクター・ヴィクターの言葉を思い出す。
「彼女の場合、呼吸中枢の機能が最初に失われると思う。おそらくその時が近づくにつれて、呼吸は不安定になるだろう。対症療法として、薬を処方しておく」
コルピの現物が入手できたことで、FOIの医局ではそれから新しい薬物を数種類開発することに成功していた。その中で、息苦しさを感じなくなる薬をヴィクター医師は手に入れていた。自分でも試してみて、役に立つと判断した彼は充分な量を確保しそのカプセルを博に渡した。
「1日カプセル1つだ。呼吸が不安定な様子を見せ始めたら飲ませるように。ただ、息苦しさを感じなくなるだけだから無理はさせない事だ。それと、用法容量は絶対に守る事。過剰に摂取すれば、呼吸自体が止まるからな」
そして最後に、彼は付け加えた。
「呼吸が止まると酸素が臓器に行き渡らなくなる。貧血を起こしたように意識が無くなって、心臓が止まる。おそらく彼女は、その流れで最後を迎えるだろう。苦しんだりすることは無い筈だ」
穏やかに眠るようにその時を迎えるようにと、ヴィクターなりの最大限の優しさだったのだろう。
けれど、彼女の暗示が呼吸停止と同時に解けてしまったら。
恐ろしい記憶が蘇ってしまったら、その時空はどうなるのだろう。
眠るように穏やかにその時を迎える筈が、恐怖と絶望の中で全てが終わることになるのだ。
最悪の状況が起こらないように、博は祈るより他はなかった。
そして2週間前に旅行を終えた博と空は、彼が以前購入しておいた別荘に戻って来た。彼女の体力が、これ以上は旅行に耐えらえないと判断したからだった。
そこは第4王妃の事件で多大なダメージを負った空と、半年もの間過ごした思い出の場所でもあった。
季節は過ぎ、11月に入っていた。
大きな窓の外は、木立が葉を落とし始めている。風が吹くと、小さな乾いた音がカラカラと音楽のように聞こえてきた。
そんな木々の中に、1本の銀杏の木があることを初めて知った。
黄金色の葉は少しずつ、黄色い蝶が踊るように散り始めている。
そんな風景を眺めながら、庭に向けたソファーに座り、2人は短いようで長かった思い出を辿った。
何度も繰り返し、繰り返し、飽きることなく語り合った。
身体も心も切り裂かれるようだった出来事さえ、微笑み合って話すことが出来る時間を愛おしんだ。
空の状態は既に末期になり呼吸は不規則になっていたが、ヴィクターから処方されている薬のお陰で苦しそうな様子は無かった。
薄手の黒い上着だけを持って、博はソファーに横になっている空の傍に戻った。
上体を起こしてやって袖を通すのを手伝い、前ボタンを留めて裾を整える。
「やっぱり、これが1番似合います。綺麗ですよ、空」
透き通るように白くなった肌と、痩せて細くなった身体。
上着は少しゆとりが出来たようだが、それでもこの服が1番似合う。
身体のラインに沿った黒い服の裾が翻り、空の凛とした立ち姿が目の前に蘇るような気がした。
「・・・嬉しいです・・・ありがとうございます」
博はそんな空の言葉を聞きながら、もう1度彼女を抱き上げてソファーに座り直した。足元に落とした毛布を見ることも無く、博はそっと問いかけた。
「どこかツラいところはありませんか?苦しくはないですか?」
「いいえ・・・どこも・・・」
空は笑みを絶やさずに、彼の瞳を見つめて答える。
ずっと、そうだった。
どれほど苦痛に苛まれていても、どれほど心が悲鳴をあげていても、博の腕の中にいるとそれらは嘘のように消えていった。
愛と安らぎに包まれて、全てが癒されていった。
だから今も、ツラくも無いし苦しくも無い。
けれどその時はもう、間近に迫っている。
それが解っているのか、空はそっと手を伸ばし自分を抱く彼の腕に触れた。
フッ、と細い吐息が唇から漏れる。
その瞬間、彼女の指が強張るように博の腕を強く掴み、大きく目が見開かれた。
「空!」
「・・・・ぁ・・」
恐怖におびえた瞳がそこにあった。強張る身体と細かく震える唇。
(最悪だ!)
博はずっと懸念していた事態が起きたことを悟った。
(あんまりだ・・・こんな・・・)
最後の息が零れた時、記憶の封印は解かれた。
心の奥にあった灰色の扉と、博が作った緑の扉、そこに何重にも渡された鎖も錠前も全てが蒸発するように消えた。扉があった向こうから、眼が眩むほどの怒りと心が抉られるような喪失感が噴き出し、眼を覆いたくなるような惨たらしい光景が溢れ出してくる。
小さな手で掲げたブロックを、男の子の頭めがけて躊躇なく落とす。
ぐしゃり、と潰れるような音。
赤い血と透明な液体が、飛び散る様子。
辺りに漂ったであろう生臭い臭いまでが、一瞬で空を包んだ。
漆黒の闇を伴った罪の意識が空の頭の中を埋め尽くしてゆく。
「空っ!僕がいます!ここに、僕がいます。こっちを見て!」
博は恐怖と絶望に歪んだ空の顔を正面に見据え、必死に叫ぶ。
こんな風に終わりを迎えさせたくない。
「ここにいます!傍にいます。僕を見て!」
どうか縋ってくれ、と。
傍にいると誓った自分に気づいてくれ、と。
どんな君でも、愛し続けると誓った。
そして君は、そんな僕を信じると言った。
だから・・・
「空ッ!」
その瞬間、声に導かれるように彼女の瞳が彼を捉えた。
心の中で、何かを見つけたようにその目が見開かれる。
青褪めた唇が震える。そして微かな音が切れ切れに紡がれた。
「・・・『愛しています』・・・・・・・やっと・・・言えました」
吐息を伴わない言葉が、その唇から零れた。
そして、空は微笑んだ。
黒く厚い雲を割って、光が射しこんできたように。
光が雲を払って青空が広がるように、空は輝くような笑顔を見せた。
漆黒の闇と共に、転がり出て来た言葉。
暗示が解けると共に、禁じられていた言葉が解放された。
「・・・愛しています・・・愛して・・・います・・・」
幼い自分がしでかした出来事に対する罪悪感や絶望の闇よりも、空はその言葉を選んだ。
理性や責任感よりも、何よりも求めていたその言葉にしがみついた。
頭ではなく心で選んだ「愛しています」の言葉は、恐怖も絶望も一瞬で消した。
呼吸が止まり意識が薄れて消えるまでの、ほんの僅かな時間。
それは、ご褒美のような時間だった。
「・・・博・・・愛して・・います・・・」
だからその全ての時間は、この言葉を紡ぐために使おう。
博は抱きしめていた腕を緩め、そんな空を見つめる。
「・・・空、僕も愛しています。ありがとう」
空は、澄み渡った大空のように笑った。
歓びに溢れ、幸せに満たされ、輝くような笑顔だった。
心からの言葉を、切れ切れに何度も紡ぐ空の瞳。
そこには、彼に捧げる愛が溢れていた。
「・・・愛して・・い・・ます・・・・愛し・・・て・・・」
ゆっくりと、瞼が降りてゆく。
それでも最後の瞬間まで、その言葉を繰り返そうとする唇に、博はそっと自らの唇を添えた。
「・・あ・・・・ぃ・・・・・・」
彼女の最後の音を吸い込むように、博はその声をそっと飲み込む。
彼の腕に添えた空の手が、滑り落ちた。
博はそっと彼女の身体を抱きしめると、小さく唄を口遊んだ。
それは古くから伝わる、優しい子守唄だった。
聴覚障害という不自由な身体を抜け出した今なら、空はこの歌を聞くことができるだろう。
出来るなら1度でいいから、博の歌を聞いてみたい。
かつてそう言った、彼女に届くだろう。
そして歌い終わると、彼は空の髪を撫で額にキスを落としながら囁く。
「おやすみなさい、空」
それは彼女いつか言った好きな言葉。
眠りに落ちる腕の中の空に、今まで数えきれないほど囁いた言葉。
博は暫くの間、幸せそうに微笑んで、眠っているだけのように見える空の顔を愛し気に見つめた。
やがて博は、彼女の補聴器を静かに外す。
「もう、これは要りませんね」
そして目の前のローテーブルに、コトンと小さな音を立てて置いた。
博は優しく空に話しかけながら、腕を伸ばす。
「・・・少しだけ、そこで待っていてくださいね」
彼は残っている空の薬を引き寄せ、全てを飲み下した。
そしてテーブルの上のリモコンを取り上げると、部屋のエアコンを切る。
・・・・ゥィィィ・・・・
微かな機械音と共にルーバーが動き、最後に小さな音を立てて閉まった。
それは最後の幕が閉まった音のように思えた。
「僕も、もうこれは要りません」
博はサングラスごとアイカメラを外し、テーブルの上の空の補聴器に寄り添わせるように置く。
彼は彼女の身体を抱きなおし、ソファーに横になった。
「僕たちは・・・幸せでしたね・・・そして・・・・・これからも・・・いつまでも幸せに、傍にいましょう。ずっと・・・ずっと・・・」
博は静かに目を閉じた。
大きなガラス窓の外には、金色に輝く銀杏の落ち葉が、全てを見守るように舞い踊っていた。
ソラ・リセリ・キクチとして、特異な環境に生まれ育ち
Skyと呼ばれ、特化した才能を生かして働き
菊知空となって、高木博之に愛されて生き
高木空として、その生涯を閉じた
彼女は多くの血を流し、大きな苦痛を味わい
けれどそれを補って余りある、果てしない愛を得た
自分の失った心を取り戻し、愛され愛することを覚え
最後に残った望みも叶えて、彼の腕の中で歓びに満たされて旅立った
そしていつまでも2人は互いに傍にいて、大空の中で時を過ごすだろう。
時には蒼穹の高みで、その愛を誇るように舞うのだろう。
エピローグその3へ