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古城物語 〜猫たちの時間4〜  作者: segakiyui
3.聖少女

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3

「つーと……スパイ?」

 それもまた、似合い過ぎるほど似合ってる。

「……朝倉財閥の急成長が僕の力だと気づいた彼女は、早速僕に対してアプローチしてきました。僕を抱き込み、朝倉家を去らせることが彼女の役目でした」

「大悟は気づかなかったのか?」

「……彼は恋多き男でもあって」

 微かに苦笑する。

「醒めると落ち着いてくれるんですが…。玲奈が僕に執着し始めたのには気づいていたはずです。その裏を見なかったとは思えない……けれど……」

 僕は、見ないわけにはいかなかった。

 周一郎の声が虚ろな吐息を含んで濡れた。

「……玲奈と再会したのは偶然でした。彼女は、僕の一件に失敗したとして日本から去り、どこかの企業の社長秘書におさまった、そう聞いてました。それっきり、僕は彼女のことを忘れていた……14歳で、海部の秘書として会うまでは」

 ぴたりと閉じた唇が淡い笑みを浮かべて振り向いた。タオルがずり落ちる。湿った髪が幾筋か張り付く額の下、澄んだ黒い瞳が俺を捉える。

「……腐れ縁ばかりですね、僕は」

 騙し騙されるばかりの人間関係、恋とか友情とか、そういう綺麗な部分を一切剥ぎ取られた打算ばかりを見せつけられてきた目が、それほど透明で深いのは、諦めきったせいか、それとも、まだ何かを探して足掻いているせいか。

 後者であってほしい、できれば。

「俺とも、だろ?」

 にやりと笑ってからかう。

「滝さんは…違いますよ…」

 どこか眩そうに細められた目が、柔らかく弧を描く、にじみ出る笑みを隠し切れないように。

 俺は目を伏せた。

 俺はもう、知っている。こんな風に何の防御もなく微笑みかけるのは、周一郎が自分でも感知出来ない深さで傷ついているせいだ。

 玲奈が大悟を離れて自分に近づいてきた時、周一郎ははなから揺れなかっただろうか? 優しくて甘い笑顔が自分に向けられていると知って、全く一瞬も心が弾まなかったか? 疑いと期待、交錯し判別できない真実を、普通なら確かめ切れない。けれど、周一郎は確かめられてしまうのだ、ルトという眼を使って。

 その瞬間、周一郎は何を呪っただろう。出会った運命か? したたかでタフな女という代物か? いやきっと、それはそういうものを見つけてしまう自分の存在、秘密を暴いてしまうしかない、もう一つの視界だっただろう。

「…滝さんは………僕が…」

「……」

 続く穏やかな声を、耳を澄まして聴く、見ない代わりに、全身で周一郎の本音を聞き取ろうとして。

「ひ…き…と…め……て…………」

「……」

「……………」

「?」

 声が蕩けるように消えてしまったのに顔を上げる。降ろされてしまうのかとうろたえたように急いで爪を立ててしがみついてきた猫を撫で、ベッドの上で安らかな寝息をたてている相手を眺める。

「シーツが濡れるってのに」

 タオルを落としたまま、周一郎は熟睡している。始めの頃からは思いもしない、警戒一つしない寝顔、椅子を立ち上がって左脚を引きずって近寄り、手を伸ばしてタオルを取っても身動き一つしない。

『やっと、安心したっていうところかな』

 ふいとお由宇の声が響いて、思わず相好を崩した。

「そっか…」

 安心した。つまり、俺を信用してるってことだよな?

 タオルを洗面器に戻し、そっと部屋を出て行く。

「おやすみ、周一郎」

 応じるのは寝息だけだ。俺はにまにましつつ、静かに扉を閉めた。



「さて、お前を返して来なきゃならないな」

「みぃん」

 胸にしがみついたまま薄茶色の小猫は小さく鳴いた。ひょいとこちらを見上げた瞳は淡い水色、ぱっちりと見開いて軽く耳を倒す。ころころ、と喉を鳴らす。

「おー、気持ちよさそうに……ほらほら」

 喉をくすぐると、うにゅう、と声を返しながら、一層ごろごろと喉を鳴らす小猫を胸に、朋子の部屋に向かう。部屋数は多かったが、玲奈の説明は適確だった、俺でさえ十分見分けられる。

「ここかな」

 重厚な木の扉をそっとノックした。

「はい…」

「すみません、滝です……えーと……猫、返しに来たんですけど」

「カッツェ?!」

 ばむっ! がんっ!

「っっ!」

 目の前に突然迫った扉を俺は避けることができなかった。思い切り顔面で受け止め、声も出ずにひっくり返る。

「ご、ごめんなさい!!」

 おろおろ声で叫びながら飛び出して来た朋子は、急いで俺の上に屈み込んだ。

「大丈夫ですか、滝さん?!」

「ら、らいりょうふれふ…」

 俺はもろにぶつけた鼻を押さえてもごもご唸った。

「ごめんなさい……二度目ですね」

 目を白黒させている俺の腕を引っ張って、何とか立ち上がらせてくれた朋子は、心底心配そうに俺を見上げた。昼間と印象が違うのは、夜のせいだけじゃないらしい。朋子の目の端に微かに光るものが残っていて、瞼が薄赤く腫れぼったい。きっと泣いていたのだろう。

「あ、いや別にその」

 朋子は軽く唇を噛んで、俺の左脚に目を落とした。

「昼間のも……まだ謝ってないのに…」

「お、俺、好きでやったんだから! 君のせいなんかじゃない、ほんと全く違うから!」

 潤んだ大きな瞳にどぎまぎして、思わず全力で否定する。

「ほんとにいつもお節介で、えーと、あの、そうだ、床に転がったりこけたりするのはもうほら趣味みたいなもんだから!」

 え、と唇を綻ばせた朋子がようやくくすりと笑ってくれてほっとする。女の子に泣かれるより、追試に向かっていた方がまだましだ。

「優…しいんだ、滝さん……って…」

 小さく呟いた朋子の瞳が、また曇ってくるのにぎょっとする。

「え、え、え」

「滝…さん!」

「わ、わっ!」

 体を投げかけてきた朋子が胸にしがみついてくるのに焦った。こんなところを誰かに見られたらどうする、俺はドイツくんだりまで女漁りに来たことになっちまう。けれど、泣きじゃくる朋子を突き放すこともできない。とにかく落ち着いてもらわないと。

「ど、どうしたんだ?」

 いかにも間抜けた問いかけだが、他に思いつかない。朋子はいやいやをするように小さくかぶりを振って答えない。震える小さな肩に仕方なしに腕を回しながら途方にくれている俺のズボンを、小猫がくわえて、くいくいと部屋の方へ引っ張った。世の中の猫という猫はみんな俺より頭がいいのかもしれない。淡い水色の目が、とにかく入れよ、なあ、と笑うように俺を誘っている。

「う…うん……えーと、その、朋子、ちゃん?」

「……はい」

 滲んだ掠れた声。切なげで胸に沁みる。

「あのさ、ちょっと、部屋に入ろうか」

「…う…ん」

「何もしない! 誓って何もしないから!」

「……」

 ふ、と吐息のような笑みが零れた気がした。それでも俺にすがりついたまま離れようとしない朋子を、そっと押しやりつつ部屋に入った。

 俺達の部屋と同じく、豪華なレリーフの施された壁、天井、片隅に置かれている広々としたベッドに花の刺繍のあるベッドスプレッドが鮮やかだ。

 部屋の暖かさにほっとする。その安堵が伝わったのだろうか。

「ごめん……なさい」

 朋子はやっと俺から離れた。


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